第26試合 オルト旗揚げ記念日・継承 ー入野間貴翔VS神谷政宗ー
「これより本日のメインイベント、スペシャルシングルマッチを行います!」
その一声に、待ちかねていた観客が爆発する。
駆け上がるギターリフに甲高い声が上がる。速い手拍子の中、スポットライトを浴びたゲートから貴翔が現れる。
特別な試合であっても、流星模様のショートタイツ姿は変わらない。どんな時も飾らない入野間貴翔という人間が、筋肉のラインとともに浮かび上がる。
「貴翔ーーー!!」
「ノマーーーッ!!」
いつもなら、貴翔はすぐに駆け出している。けれど今日は、しっかりと花道を踏み締める。
その確かな歩みに、客席の手拍子がさらに強くなる。
「……入野間さん」
ノートに乗せた手をぎゅっと握る。見つめる先で、貴翔の瞳がスポットライトに煌めく。
リング前で目を閉じる、いつものルーティン。顔を上げた貴翔は闘いの舞台に上がり、トップロープを飛び越える。
「181センチ88キロ。入野間ァ〜!貴翔〜〜!!」
コールとともにコーナーに立つ。客席を見回し、大きく両手を広げる。
そして——強く抱きしめる。
初めて見るアピールに、凌は目を見張る。跳ね上がる歓声の中、貴翔は大きく頷き、視線を凌へと向ける。
——客の期待も、オルトも、俺が背負う。
貴翔の覚悟が、この抱擁ひとつに込められている。そんな確信めいた感覚に、凌は胸を締め付けられる。
貴翔がひらりとマットに降りる。視線は迷うことなく、対角の入場口を見つめる。
また照明が落ちる。ピンスポットに照らされたゲートに、会場中の視線が集まる。
ほんの一瞬、世界から音が消えた。
そんな幻覚を、叫ぶギターが切り裂く。
低く這うベース。力強いドラムのビート。怒りを訴えるようなハードロック。
大帝国時代から変わらない登場曲に、今度は野太い声援が唸り上がる。ゲートから現れた政宗に、割れんばかりの拍手が巻き起こる。
「政宗ェェェ!!」
「おかえりーー!!」
熱いエールをその身に受け、政宗はスポットライトを見上げる。
その顔は父ではない。社長でもない。リングに生きる、レスラーの顔だった。
リングを目指し、ゆっくりと花道を歩く。その姿が、忘れられない憧れと重なる。
星座を散りばめた夜空色のガウン。
揃いの色のロングタイツに流れる、金と銀の流星群。
現役時代と変わらない装いは、強い主張も派手さも持たない。けれど凌にとっては誰よりも強く、誰よりも大きく見えた。
心の奥で、膝を抱えていた小さな凌が立ち上がる。大嫌いだったはずの父の姿に、ぐっと拳を握りしめる。
「……がんばれ、とうさん」
遠い昔に送った声援がこぼれる。
もう二度と口にしないと思っていた言葉があふれる。
昔のように叫びはしない。最前列で手を叩くこともしない。けれど込み上げる熱い思いに、嘘はつかない。
もう、目は逸らさない。
「185センチ97キロ。神谷ィ〜!政宗ェ〜!!」
政宗がロープを潜る。夜空色のガウンを脱ぎリング下の匠へ放ると、リング中央で待つ貴翔の前に立ちはだかる。
視線と視線が絡み合う。貴翔と政宗が、互いの姿だけを映し合う。
カーン!
ゴングが鳴った。——鳴ったが、二人は動かない。構えることもなく、距離を詰めることもなく、ただ互いだけを見つめている。
「貴翔!貴翔!」
「政宗!政宗!」
コールが割れる。甲高い女性の声と、野太い男性の声がぶつかり合う。分断された過去と今が、異なるエースの名を呼ぶ。
貴翔は笑っている。これから始まる戦いに、楽しみが抑えられない。表情が、身体が、そう叫んでいた。
対して政宗は、厳しい表情だった。ファンへ向けていた豪放な笑みはない。気安さは幻のように消え、不気味なまでの静けさで佇んでいる。
コールの波が引いていく。同時に、政宗が動いた。
右手が上がる。くい、くいと、人差し指で貴翔を誘う。瞬間、貴翔の笑みが深まる。
政宗はそのまま指で、トントンと、自分の胸を指す。
——打ってこい。
無言の挑発に客席が息を飲む。貴翔の右腕が、すっと引かれる。
バチィッ!
手刀が、迷わず風を切った。
肌を打つ音に観客の肩が跳ねる。容赦のない逆水平が、政宗の胸元を赤く染め上げる。けれど、一切の動揺を与えられない。
トン、トン。
政宗がまたも胸を指す。赤くなった胸元を叩く指に、貴翔の目つきが燃えていく。
もう一度、右腕を大きく引く。
バチィッ!!
さっきよりも大きな音が響く。それでも政宗は、眉ひとつ動かさない。
貴翔がまた腕を引く。三度目の逆水平に、初めて政宗の表情が歪む。それをきっかけに、今度は貴翔が後ろ手を組んだ。
突き出された無防備な胸に、政宗の視線が突き刺さる。枯れることを知らない丸太のような腕が、グッと引き絞られる。
バァンッ!!
その音の違いに、凌の息が止まった。
悲鳴じみた呼吸が会場を乱す。尋常ではない空気に、分かれていた声援が揃って凍りつく。
貴翔の身体が、半歩だけ後ろに揺らぐ。腫れ上がった赤が、政宗の掌の形をハッキリと浮かび上がらせる。
痛みは明らかだった。けれど貴翔は、顔を上げたままふっと笑った。
貴翔が、胸元に手を当てる。残った政宗の跡に、自分の手を重ねるように。
そして——ついに、開戦の一歩を踏み出す。
ダンッ!
マットが軋む。首と腕を組み合い、二人の腕の筋肉が盛り上がる。
腕だけではない。背中が、肩が、腿が。全身の筋肉が盛り上がり、腕や首筋に血管が浮き上がる。
力と力がぶつかるロックアップ。体格は明らかに政宗の方が大きい。けれど抱えた膝の古傷のせいか、踏ん張りきれずジリジリと押されていく。
貴翔は決して手を抜かない。それどころか、政宗をさらに追い詰めていく。
力負けした政宗の身体がロープに沈む。レフェリーのブレイクコールがかかっても、貴翔は身体ごと押し付けたまま、なかなか離れない。
レフェリーが間に入る。貴翔はそこでようやく身を離し、両手を軽く挙げた。
パンパンと、軽く政宗の肌を打つ。貴翔がクリーンファイトをアピールすると、ようやく客席からわっと声が上がる。
凌もまた、そこで呼吸を思い出した。けれど次の瞬間、政宗の右手が挙がる。
パァンッ!!
容赦なく頬を張った平手に、凌の身体がすくむ。緩んでいた客席も、また一瞬で息を詰める。
綺麗な闘いなんざいらねぇ。潰す気で来い。
——語っていないはずの声がした。
そんな幻聴が聞こえるほど、政宗の表情と一挙手には、闘争心が滾っていた。
頬を弾かれ、貴翔の動きが止まる。うっすらと浮かんでいた笑みが、溶けるように消える。
片足を引く。間合いを取り、仕切り直すかと思ったその時、貴翔の身体が素早く回転する。
「ぐぅ……っ!」
瞬間、政宗が苦悶の声を上げた。
鳩尾に叩き込まれたのは、鋭いソバットだ。政宗の身体はくの字に折れ、思わず腹を押さえる。
貴翔はその一瞬を逃さない。よろめいて浮いた右足を抱え込み、そのまま身体を捻って倒す。
「ドラゴンスクリュー……!」
膝殺しの代名詞。非情な技の選択に、凌が思わず声を上げる。
逃げ場のない回転が、抱え込んだ膝を外へ曲げる。政宗が顔を歪めても貴翔は離さず、今度は内側にへし曲げる。
政宗が歯を食いしばる。貴翔は立ち上がり、崩れかけた政宗を見下ろす。
ロープに両腕をかけてもたれる姿は、磔にされた罪人のようだ。その無慈悲な光景に、客席が騒めく。
貴翔の目にはもう、憧れの輝きはない。目の前の老兵に引導を渡そうとする、暗い闘志だけが燃えている。
ぞくりと、凌は身震いする。ノートの表紙を、恐る恐る指でなぞる。
——これは、俺が書いたシナリオだ。
『試合の序盤、入野間さんは父さんへの憧れを見せながら挑んでください』
『反対に父さんは、初めから入野間さんに厳しい攻撃を加える。攻撃を受けた入野間さんはそこで憧れを捨て、容赦のない姿勢に転じてください』
二人にそう伝えた。けれどここにある熱気は、俺が生み出したものじゃない。
——リングの上は、レスラーのもの。
リングの上で生まれる熱は、誰にも書けない。
政宗が反撃を試みる。貴翔をグラウンドに引き込み、太い腕でフェイスロックをかける。けれど支点をずらされ、するりと抜けられる。
貴翔が政宗の背を素早く転がり、右側の位置を取る。そのまま右脚を抱え込み、膝関節を捻り上げる。
またも膝を攻められ、政宗がマットに爪を立てる。左脚で蹴りを浴びせてなんとか振り解くが、貴翔はすぐにその場飛びで高く飛ぶ。
ダンッ!
マットが沈む音に、凌は顔をしかめる。右膝の破壊を狙った貴翔のニードロップに、政宗の身体が反り上がる。
徹底した膝攻めは、勝利への執念だ。けれどその徹底ぶりに、貴翔のファンさえも声援を飲み込んでいる。
貴翔がフォールに入る。政宗が即座に返す。そして二人は仕切り直す。
客席は、息を潜めていた。
誰もが迫真の闘いに目を奪われ、ただリングを見つめていた。
——そこからは、まさに死闘だった。
掌底とキックのコンボ。延髄斬りからのフィッシャーマンズスープレックス。
貴翔の怒涛の攻めに、政宗は防戦一方だった。けれど中盤に差し掛かり、政宗は転機を得る。
貴翔がエルボーを振り抜くその瞬間、政宗が身を屈めて躱す。そのまま横から貴翔を抱え、角度のついたバックドロップを繰り出す。
肩から落ちた貴翔を、今度は政宗が攻め立てる。
右膝への膝十字を選んだのは飛び技を警戒してか——それとも、序盤の膝責めへの報復か。
渾身の力で膝を伸ばされた貴翔は、苦痛に這いずり必死にロープを掴む。
「ブレイク!」
逃れた貴翔の膝を解く。だが次の瞬間、政宗は大きく膝を持ち上げ、マットに強く叩きつけた。そしてさらに、膝裏を何度も踏みつける。
「やれぇ!政宗ッ!!」
加熱する潰し合いに、血の気の多い男性ファンが叫ぶ。それを引き金に、固唾を飲んで見守っていた女性ファンが貴翔を応援しだす。
「貴翔ーーッ!!」
「立ってーーーッ!!」
声援が対立する。波紋のように広がる声が、会場を飲み込んでいく。
その混沌とした熱狂に、凌の肌が粟立つ。
——これは、本当に俺が書いた試合なんだろうか。
一段と増した熱気に、凌のこめかみから汗が流れる。
ここまで、政宗はほとんど走っていない。それは間違いなく、政宗のコンディションを配慮してのことだ。
そうした配慮は、ともすれば「わざと」に見えてしまう。なのに、それを覆って余りあるほどのこの熱はなんなんだと、凌は震え上がる。
二人の闘いが、理解の範疇を超える。
考えるより先に、熱が胸を焦がす。
リングの上でぶつかり合うのは、理屈のさらに先にある、闘争本能そのものだった。
——主導権の奪い合いが始まる。
貴翔がヘッドシザースホイップで投げ飛ばせば、政宗がボディスラムで打ちつける。
政宗がブレーンバスターを叩きつければ、貴翔がトップロープからのミサイルキックで倒し返す。
立ち上がるたび、歓声が大きくなる。
『十分経過。十分経過』
会場が騒つく。経過時間を知らせるアナウンスが現実へ引き戻す。開始から十分しか経っていないのに、もう何時間も闘っている気がする。
ギアを上げ続けていた二人に、消耗が見え始める。
貴翔も政宗も、すでに汗だくだ。立ち上がるまでの時間が長くなり、ひと攻撃ごとの間も長くなっている。
二人と決めた試合時間は十五分。
残り五分の最後の攻防が、ここから始まる。
同時に出し合ったラリアットに、二人が倒れ込む。青いリングに沈む二人を、大声援が後押しする。
責め合った膝はもう、互いに力を失いかけている。それでも気力を振り絞り、二人はリング中央で這い上がる。
「入野間さん…………父さん……」
握りしめた手を、祈るように組む。指と汗をきつく握り、凌は最高の結末を願う。
二人の膝が立つ。よろめき、荒い息に肩を弾ませ、それでも額と額をぶつけ合う。
そこから始まったのは、エルボーの打ち合いだ。小細工を捨て、互いの横面に肘を打つたび、オイ!オイ!と客席から声が上がる。
二人の決着を、誰もが待っていた。席に着く客も、立ち見の客も、前のめりで声を枯らしていた。その渦巻く膨大な熱量が、リングの上をさらに燃え上がらせていく。
バチィッッ!!
渾身のエルボーが、貴翔の頬を派手に打ち鳴らした。頭を振り、貴翔がわずかに後ずさる。その機を逃さず、政宗は強引に踏み込んだ。
痛むはずの右脚で、マットを踏みしめる。捕まえた貴翔の体を力任せに持ち上げる。
——貴翔の足が、ピンと天を向く。
「垂直落下式っ……!」
逆さに掲げられた貴翔に、興奮と悲鳴が沸く。静止した対空時間に、落下のイメージが先行する。
ほんの数秒。短くも長いその先で、ぐらりと二人が傾く。
スローモーションのような瞬間。倒れる政宗とともに、貴翔の身体が真っ逆さまに落ちる。
バァンッッ!!
頭から突き刺さった——ように見えた。
マットが大きく波打つ。貴翔の身体が大きく跳ねる。そして、力なく崩れ落ちる。
「いやあぁぁぁッ!!」
「貴翔ーーーッ!!」
悲痛が響く。前列の貴翔ファンが、顔を覆いながら絶叫する。
ゆっくりと、政宗が立ち上がる。大の字になった貴翔を見下ろし、荒れ狂う呼吸のまま踵を返す。
——来る。最後の技が。
固く息を飲む。
決戦前夜、二人に伝えた結末を思い浮かべる。
『——最後に、父さんがコーナーポストからオルトノヴァを決める』
『だけど入野間さんはカウントギリギリで返す。掟破りのオルトノヴァを決め、最後は自身の決め技、メテオライトで勝利する』
『その勝利で、入野間さんは頂点に立つ』
それが二人と決めた、最後の流れ(フィニッシュ)だった。
見つめるロープの向こう。
父の夢であり続けた、オルトのリングの上。
その聖域で、パーライトを浴びた政宗の背中が光る。
『……父さん。最後に、飛べる?』
不安げな息子に、父は応えた。
『誰に言ってんだ』
ぶっきらぼうに言って、笑って。
——かつてのヒーローは、最高の技を約束した。
「父さん…………っ」
祈る凌の手が、きつく握られる。
「負けるな…………っ」
——政宗が、コーナーポストに手をかける。
オルトノヴァ。
デビューから引退まで貫き通した、神谷政宗の絶対的な決め技。
その予感に、ファンの声援が爆発する。
「決めろぉぉ!!政宗ぇぇぇ!!!!」
セカンドロープに足をかけ、コーナートップに立つ。巨大な体躯が背負う光に、期待が暴走する。
「いけえぇぇぇぇぇぇ!!!!」
貴翔が、落ちた影を見上げる。
弱く顎を上げ、越えるべき憧れを見上げる。
昔よりも痩せた身体。細くなった脚。色艶を失った髪。
リングの外で生きていた時間が、衰えとなって目に映る。けれど変わったはずのシルエットに、全盛期の姿が見える。
壊れた膝でも、政宗は揺らがない。
何百、何千と飛んできた歴史が、政宗を立たせる。
そして——
「政宗ッ!!政宗ッ!!」
同じ時代を生きてきたファンの声が、政宗を支える。
——政宗が、大きく手を広げた。
トップロープを踏み切る。巨体が空を飛ぶ。
かつて一時代を照らした星が、最後の光をまとって落ちていく。
ダンッッッ!!!!
マットが軋む。同時に、この試合最大の歓声と悲鳴が上がる。
全体重を乗せた衝撃に、貴翔の身体がくの字に跳ねた。政宗はそのまま、貴翔の上に倒れ込む。フォールの体勢を取ることもできず、ただ折り重なってカウントを待つ。
「ワン!」
レフェリーがマットを叩く。
貴翔は動かない。
「ツー!」
貴翔が肩を上げるその時を、誰もが待つ。
貴翔はまだ動かない。
カウント、2.9。
約束の時が来た。
——けれど。
「…………スリー!」
カンカンカンカンカン!!
ゴングは無情に鳴った。
貴翔が、立ち上がることのないまま。
「…………え……っ?」
凌の瞳が見開く。
会場中が、戸惑いに騒つく。
勝者として腕を上げられた政宗も、呆然としたまま貴翔を見つめている。
「十三分二十五秒!オルトノヴァにより、勝者・神谷政宗ッ!!」
勝者コールを受け、政宗を讃える拍手がまばらに起きる。けれどその意外過ぎる結末に誰もが騒めき、動揺していた。
貴翔は立ち上がらない。
かつての憧れを。
この試合の勝者を。
ただ、ずっと、見上げていた。




