第22試合 衝突、目指すその先
夜が明け、新しい朝が来た。
その日、ロヴィーナに集められたメンバーは、リングではなく道場の休憩所に集合し、互いに顔を合わせていた。
「どうしたんすか?練習するんじゃないんすか?」
やけに重い空気を感じて、匠がそわそわと身体を揺らす。
貴翔、エランテ、修司、トム。今日はそこに政宗も加わり、一人立っている凌と、側に控えるロヴィーナを黙って見つめている。
「凌。俺たちを呼んだのはお前か?」
政宗が切り出す。凌は大きく息を吸って、真っ直ぐに向かい合う。
「俺だよ。ロヴィさんに頼んで、みんなを集めてもらった」
揃った顔を見回す。物々しい雰囲気を感じているのか、視線には少しの困惑や動揺が混じっている。
ドキドキと胸が鳴る。平静を保とうと、凌は小さな咳払いをする。
「今日は俺から、みんなに話があります。内容は、次の旗揚げ記念興行についてです」
手にしていたノートを開く。迷いながらも書いたプランに一度だけ目を落とし、すぐに顔を上げる。
「次の旗揚げ記念興行でひとつ、大きなコンセプトを打ち出したいと思ってます」
「コンセプト?興行自体に?」
背筋を伸ばした修司の疑問に、凌が頷く。
「はい。次の旗揚げ記念興行のタイトルを、『継承』にします」
ざわりと、空気が騒ぐ。
「そしてこの興行を、新しいオルトの始まりにするために、メインでスペシャルマッチを組みます」
「スペシャルマッチって、外からレスラーでも呼ぶの?」
「いえ。外ではありません」
発言した貴翔をちらりと見る。それから、政宗へと向き直る。
「メインは、入野間貴翔対神谷政宗です。引退した父さんを、リングに上げます」
「は!?マサムネを!?」
だるそうに頬杖をついていたエランテが声を跳ね上げる。その横ではトムが、青い瞳を丸くする。
「引退を撤回するんでい?」
「撤回はしません。現役に戻るのではなく、一試合限りの『継承戦』です」
ノートに書いた記述を追う。いくつもの打ち消し線が並ぶ中、ひとつだけ残った行を目でなぞる。
「父さんは、入野間さんが海外に武者修行へ行っている期間に引退しました。今現在、オルトの顔として父さんを継いだ位置にいるのに、入野間さんは引退するその場にいなかったんです」
瞬きも言葉も忘れ、貴翔はじっと凌を見つめる。凌はノートをぱたりと閉じ、貴翔を見つめ返す。
「だからこそ、ここでファンにきちんと示します。神谷政宗の後継は、入野間貴翔だと。そこから、オルトの次世代をやり直します」
「……そう。だから『継承』なのね」
ロヴィーナが深く頷く。みんなの視線が貴翔を通り、政宗に集まる。
「……待て、凌」
黙っていた政宗が、重い口を開く。
「お前が言いてぇことはわかる。今の俺にリングに上がれってのも、無茶言いやがるなとは思うが面白ぇ。ただ、オルトはもう——」
「辞めるなんて、俺が言わせない」
鋭い声が、空気を打った。いつにないその強さに、それが凌の発言だと、誰もが気づくのに遅れる。
政宗が息を飲む。不意を突かれた表情に、凌の胸につかえていたものが、わずかに下りる。
「散々自分の夢に人を巻き込んでおいて、もう満足だから畳みますなんて、俺は絶対に認めない」
「…………お前」
「俺はここで、みんなと頑張るって決めたんだ。みんなをリングで輝かせたいって、もっとたくさんの人にオルトを見てほしいって、そう思ったんだよ」
言葉にするほど、胸の奥に沈めていたものが熱を持つ。
そこにあるのは、怒りのはずだった。けれど今、激しい感情が凌を飲み込むことはない。
「父さんが始めた夢なんだろ。だったら、最後まで責任取れよ」
静かに、燃える。凌を奮い立たせる火が、政宗を睨みつける。
「俺を置いていった場所で、勝手に終わろうとするな」
政宗が言葉を失う。凌は、その沈黙を振り切る。
「オルトは失くさせない。父さんには土下座してもらってでも金を工面してもらうし、ボロボロの身体でもリングに上がってもらう。その代わり——」
口にしようとした言葉の大きさに、喉が塞がる。けれど凌は飲み下すことなく、腹の底から声を出す。
「絶対に、次の興行を成功させる。その次も、その次の次も、もっとお客さんを呼んで、オルトを復活させてみせる」
「凌……お前、そこまで……」
政宗の声が怯む。座椅子に座り、無意識で膝に当てていた手が、ギュッと拳に変わる。
凌と政宗の間に、張り詰めた空気が満ちる。凌の宣言に誰もが目を見張り、対立する親と子を見守っている。
長い空白だった。けれどその膠着した刻を、場違いなまでに明るい声が壊した。
「やろうよ。政宗さん」
二人が同時に、貴翔へ振り向く。政宗に熱い視線を向けた貴翔が、興奮気味に身を乗り出す。
「政宗さんの引退は、俺の中でもスッキリしないままだったからさ。政宗さんと引退試合やれるの、めっちゃ楽しみだよ、俺」
「……そう簡単に言うがな。俺にどれだけブランクあると思ってんだよ」
「政宗さんなら、やろうと思えば次の興行までに取り戻せるでしょ」
けろりと笑う貴翔に、政宗が大きなため息をつく。凌もまた、ふいに差し込んだ弛みに深く息継ぎをする。
無茶振りだとわかっていた。怪我と衰えを抱えた政宗をリングに上げることが、どれだけ残酷なことかと何度も考えた。
もし、試合にならなかったら。
もし、足がもっと悪くなったら。
観客の前で、父さんが笑い者になったら。
客の目に、かつての英雄が見えるとは限らない。リングでの闘いがどう映って、何を生むかはわからない。
——本当は、怖い。
けれど神谷政宗が手渡さなければいけないものが、オルトにはまだ残っている。
貴翔の目に、揺らぎはない。
まだ立てる。まだ出来る。神谷政宗というレスラーに憧れ、追い続けた次代の新星だけが、堕ちた巨星のかつての輝きを今も信じている。
「それに俺は、凌の見たい景色を見せるって約束したからさ」
ふいにバトンを渡される。
目と目が合った瞬間、大帝国の控え室で言われたセリフが、鮮明に蘇る。
「凌が成功させるって言うなら、俺も全力でお客さんを呼ぶ。会場満員にして、俺がオルトのプロレスの良さを伝えてみせる」
ぐらつく凌の決意を、貴翔の決意が支える。見えない手が、共に立とうと差し伸べられる。
凌はその手を、胸の奥で握り返す。
「……入野間さんには、名実ともに、オルトを背負ってもらうことになります」
「うん。やる」
「父さんと試合をして、勝った後のマイクで、オルトの中心に立つと宣言してもらいます。……それでもいいですか」
「いいよ。みんなも、それでいい?」
迷いなく言い切って、貴翔はぐるりと見回す。
全員の瞳と順に合わせる。黙っていたままのみんなが、ふっと表情を崩していく。
「いいもなにも、すでにノマがエースじゃん」
「ですよね。ノマさんしかいないっすよ」
「俺も、出来る限り協力する」
「ノマにはみんながついてるんでい!」
エランテが、匠が、修司が、トムが。揃って賛同し、貴翔は一際明るい笑顔で頷く。
ロヴィーナが、長い前髪の奥に潤んだ目を隠す。凌もまた、じわりと込み上げそうになるものをまぶたの裏に閉じ込める。
「政宗さん」
期待を一身に背負い、それでも軽やかに、貴翔は手を差し出す。
「俺と、闘ってくれますか」
差し出された手は大きく、手のひらは分厚い。節くれだった指には小さな傷と、テーピングを巻いた跡が残っている。
長い間導き、育ててきたものが今、政宗の前に伸べられている。肩を並べ、これから超えていこうという若い手を、政宗はすぐには掴めない。
「……はぁ。諦めの悪い奴らだな」
政宗が、わざとらしく肩を落とす。その往生際の悪さに、ロヴィーナがキッパリと声を上げる。
「諦めの悪さなら、みんなムネさんに教わったのよ」
「観念なさい」と、逃げ道を塞がれる。政宗はそこで初めて、くっと喉を鳴らす。
それは悔しさでもあり、清々しさでもあるような——そんな、意地っ張りな響きだった。
「わかったよ。やってやるよ。ただし、見ての通りのコンディションだから、お前には手厚い介護させることになるぞ」
「そんなの全然っすよ。お客さんに、今の政宗さんもカッコいいんだって、ちゃんと見てもらいましょ」
「……ずいぶん言うようになったじゃねぇか」
「俺、オルトのエースですから」
呆れたように、けれど頼もしそうに、政宗は笑う。それを見届けると、ロヴィーナがパン、と大きな手を叩く。
「じゃあ、決まりね」
張り詰めていた空気が、明るい一声に解ける。
「ムネさんは身体を作る。ノマちゃんはムネさんとしっかり試合の準備。凌ちゃんは全体のブックを書いて、みんなは宣伝活動。当日は、自分の試合をきっちりやること」
「ロヴィさん、仕切りが早いっす」
「当然でしょ。やるって決めたらすぐ始めるのよ」
朗らかに笑うロヴィーナに、いつものオルトが帰ってくる。けれどその目元には、まだ少しだけ涙が光っている。
「オルトはまだ終わらない。そう決めたんだから。ね、凌ちゃん?」
「はい」
ハッキリと頷く。一人立ったまま、凌が閉じたノートを胸に当てる。
そして、誓う。
もう二度と、逃げたりしないと。
「オルトは、ここからまた、始まります」
しん、と休憩所が静まる。
そして次の瞬間、貴翔が誰よりも早く笑う。
「うん。やろう、凌」
その一言を合図に、みんなが目を合わせ、頷きを揃える。
胸に当てたノートを、強く抱きしめる。
怖さはまだある。不安も消えていない。けれどもう、立ち止まらないと決めた。一人じゃなく、みんなで進むと決めた。
プロレスリング・オルトの、新たな始まり。
旗揚げ記念興行のテーマは、『継承』。
メインは、入野間貴翔対神谷政宗。
父と、オルトと、自分自身に叩きつけた初めてのブックで、ここから変えていく。
——まだ、俺は立ち上がったばかりだ。
足りないものも知らないものも、たくさんある。逃げてきた時間に、得られないまま残してきたものもある。
それでもみんなとなら、俺は、きっと強くなれる。
いや——なってみせる。
胸の奥で叫ぶ。
その声は、神谷凌にとっての、二度目の産声だった。




