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第21試合 父と夢と息子

 道場に戻り、メンバーは早々に解散した。

 帰宅するのを見届け、ロヴィーナはエプロンを身につける。凌はその後ろをそわそわと追い、一緒に台所へ入る。


「聞きたいことがあるなら、聞いていいわよ」


 くすりと笑って、ロヴィーナは大量の野菜を切り始めた。

 トントンと、包丁がまな板を鳴らす。リズミカルな音に緊張は解け、凌はロヴィーナの横にそっと肩を並べる。


 傾き出した陽が、窓ガラスをすり抜ける。台所が、ロヴィーナの横顔が、茜色に染まる。

 凌はその色に、古い光景を思い出した。

 母の背中と、夕飯の匂い。まだ家に、家族の気配があった頃のことを。


「……ロヴィさんって、父さんのこと、いろいろ知ってるんですね」

「そうね。大帝国の時代に出会ってからもう二十年以上だもの。月日が経つのって早いわよね」


 二人の歴史を、凌は知らない。けれどまだ父を慕っていた幼い頃から、ライバルであるロヴィーナのことは知っていた。

 あの頃は、ロヴィーナを父の敵だと思っていた。リングの上で父を苦しめる、卑怯で悪い奴だと思っていた。


 遠い面影が、細波のように寄せる。するとロヴィーナもまた、過去を思い出したように小さく微笑む。


「ねぇ凌ちゃん。小さい頃、バックヤードでアタシと出会ったこと覚えてる?」

「……はい。俺が一人で父さんに会いに行こうとして、迷子になった時ですよね」

「そうそう。転んで怪我して、泣きそうになっててね。あの頃の凌ちゃん、本当に可愛かったわぁ。お父さんが大好きで、いつも大声で応援してて」


 あたたかな声が弾む。けれどふと、その温度は翳る。


「でも……いつの間にか、来なくなって」


 凌が言葉を失くす。シンクに流れる水が、排水溝に落ちていく。


 政宗とロヴィーナの打ち合わせを見てしまってから、凌は父とプロレスを遠ざけた。二度と見に行くことはなくなり、母もまた足を運ばなくなった。

 その先を、ロヴィーナは振り返る。


「あの時、ムネさんは気が散らなくていいなんて言ってたけど、客席ばかり見るようになってね。気が散らないどころか、よそ見ばっかりだったのよ」


 からかうように笑って、ロヴィーナはキュッと唇を噛み締める。


「凌ちゃんと志乃さんが来なくなって、オルトからどんどん客がいなくなって……経営が苦しくなって。その頃からムネさんはずっと資金のことで悩んで、試合の日も練習の日も関係なく、あちこち援助をお願いして回ってたわ」


 調子を変えずに語るロヴィーナに、ぐっと奥歯を噛む。

 オルトにまともに顔を出さない政宗を、無責任だと思っていた。みんながこんなに頑張っているのにと、怠慢さに怒りさえ覚えていた。

 けれど今、知らなかった父の姿が、ロヴィーナの口から語られる。


「昼間は練習や試合をして、夜は酒の席に出向いて頭を下げて。そんなことばっかりしてたから、目の下のクマがどんどん濃くなって、日に日にやつれていって」


 ロヴィーナが小さく息を吸う。野菜を片す表情が、心痛に歪む。


「正直、見てるだけで辛かったわ。でも、ムネさんは決してリングでその苦労を見せなかった。いつだってお客さんの前では、誰よりも強い神谷政宗だった」


 思い出す。輝くベルトを腰に巻き、大歓声を受ける父の姿を。眩しいライトの下で、誰よりも輝く姿を。

 幼い頃は気がつかなかった。けれど大人になった今、光が落とす影の存在に、凌はようやく気がつく。

 そこにあったのに、見えていなかったもの。父はリングの外でも、ずっと何かと闘っていたのだろうか。

 

「その時、アタシはアタシで道場と若い子たちを見てたけど、先細りしていく不安に堪えられない子も当然居てね。引き留めたりもしたけど、現実としてお金を払えなくなる時もあって……気がついたら、ほとんどの子が居なくなってたの」


 過去のアーカイブを見て、知ってはいた。オルトの最盛期は、二十人以上のレスラーを擁する規模だったことを。

 今やオルトは、たったの六人。興行だって、スポットに頼らなければ三試合しか組めない。


「……そんな、状況だったんですね」


 ぽつりと落ちた声に、ロヴィーナの手が止まる。沈黙の中、夕日が二人の影を伸ばす。


「もしかして、納得しようとしてる?」

「……少しは。俺、父さんのことなんて、知ろうともしてなかったから」


 ロヴィーナが冷蔵庫を開き、ひき肉を取り出す。パタンと閉じる音が、やけに響く。


「自分が辛いのは父さんのせいだって、ずっと思ってました。父さんのことが許せなくて、顔も見たくないって……ずっと思ってて」


 プロレスは嘘だった。だから憎んだのだと思っていた。

 けれど本当は、その嘘の向こうで、自分だけ置いていかれたことが苦しかったのかもしれない。


 政宗は正真正銘、オルトを背負っていた。自分についてきてくれた何人もの人生を預かるのは、並大抵の苦労ではなかっただろう。それを察せるだけ、凌はもう大人になった。


 ——けれど、心についた傷は、癒ない。


「凌ちゃん。許さなくていいのよ」


 凌が、弾かれたように顔を上げる。

 許せと、わかってやれと言われるかと思った。お父さんは苦労したのよと。お母さんも、そんなお父さんを支えたかったのよと。


「ムネさんの苦しみと、アナタの苦しみは別。ムネさんは父親だけど、同時に一人の人間で、あの人にはあの人の夢があった」


 ロヴィーナが、肉団子のタネをこねる。大きな手が、粘つくタネを整えていく。


「親の夢に振り回されて、子どもが取り残されたなら、怒って当然よ。だから、納得しようとしちゃダメ。無理やり許すなんて、しなくていいの」


 ひとつ、ふたつと、丸い団子が並んでいく。

 許された怒りは、けれど行き場に迷う。


「……でも、ぶつけたところで、何も変わりません」


 並んでいく肉団子を見て、ふいに思い出す。

 夕焼けの中、みんなが帰った公園の砂場で、一人で泥団子を作っていたことを。


 両親を待って、一緒に帰ることを期待して。けれどいつのまにか、それもやめてしまった。

 一人でいることに——諦めることに、慣れてしまった。


「たしかに過去は変わらないわ。でも、傷ついた過去の凌ちゃんを、今の凌ちゃんが守ってあげることはできるでしょ」

「俺を……守る?」

「そう。今の凌ちゃんが、代わりに怒ってあげるの。小さい頃、いっぱい泣いて我慢した凌ちゃんのために」


 透き通る水が、粘ついたロヴィーナの手を洗い流していく。夕焼けの中、丸め終えた団子たちはバットの上で身を寄せ合っている。

 

「今はもう、それくらいできる大人でしょ?」


 キュッと、蛇口が閉まる。言い聞かせるようなロヴィーナの声色に、似ていないはずの母の声が重なる。


 大人、なのだろうか。重ねた年に見合うだけ、心は成長したのだろうか。

 引きこもっていた自分。父のせいにし続けてきた自分。そんな自分に、闘い続けた父の人生を非難する資格はあるのだろうか。


「……俺、怒っていいんでしょうか」

「当然よ。アタシだってムネさんに怒ったこといっぱいあるもの。凌ちゃんだって、言ってやりたいことあるでしょ?」

「…………山程あります」

「でしょ?なんなら、親子でリングに上がってもいいのよ?親子ゲンカ一本勝負。アタシがレフェリーしてあげるわ」


 思わず、くすりと笑う。どうしてレスラーというのは、すぐにプロレスに例えたがるのだろう。


 親子ゲンカ、一本勝負。


 冗談めいたその言葉が、凌の中で、ゆっくりと形を変えていく。


「……ロヴィさん」

「なぁに?」

「俺……考えてたブックがあるんです」


 鍋に張られた水が、ゆらゆらと揺れる。


「大帝国のリングで活躍する入野間さんを見てから、オルトを新しいオルトにするためにって、俺なりに考えてたんです」


 黙ったまま、ロヴィーナが鍋に昆布を入れる。


「けどそれは、父さんにとって酷なシナリオです。だから、出さずにいようかとも考えました」


 揺れる水面に沈んで、そのまま。動かなくなる昆布に、凌は自分を重ねる。


「でも——」


 恐る恐る、顔を上げる。ロヴィーナは何も言わず、言葉の続きを待つ。


「父さんにぶつかるなら、俺は、このブックを叩きつけてやりたい」

 

 もう、飲み込まなくていい。

 閉じなくたっていい。


 許しを与えれば、置き去りだった小さな自分が、顔を上げた気がした。閉じていた重い扉を、自分の手で開いた気がした。

 

 凌の顔が、強さを取り戻していく。ロヴィーナはそんな凌を、じっと見つめる。

 政宗に似た凛々しい眉と、母の志乃に似た精悍な瞳。そのどちらもが黒く輝いて、夕日に染まるのを拒んでいる。


「……いいじゃない」

 

 一瞬、ロヴィーナの指が、濡れた布巾を握りしめる。けれどすぐに息を吐き、鍋に蓋をする。


「アナタをブッカーにしたのはムネさんなんだから、今度はアナタのブックで、あの人を振り回してやりなさい」

「……はい」

「声が小さいわねぇ。そんなんじゃ、ムネさんの馬鹿デカい声に負けちゃうわよ?」

「それは嫌です。やるからには、負けたくないです」

「なら、腹から声を出す!胸を張って、真っ直ぐ睨みつけて、思ってること全部ぶつけてやりなさい」


 指導するように、けれど茶目っけを交え、ロヴィーナが人差し指を立てる。

 凌はふと、道場で声を張るみんなの姿を思い出す。その輪の中に今、自分も立ったような気がした。


「……はい!」


 今度は、腹の底から声が出る。ロヴィーナは満足げに笑い、エプロンを外す。


「凌ちゃんの初めての親子ゲンカ、応援してるから。存分にやってやりなさい」


 大きく頷く。一度だけ深呼吸して、凌は台所を出る。


 ——このブックで、変えてみせる。

 今までの自分も、オルトの未来も。



 沈めていた怒りは、もう、ただの怒りじゃない。


 それは凌にとっての、本当の最初の一歩だった。

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