第20試合 父の影
大帝国スポット参戦から二週間。今日は凌にとって二度目の興行だった。リベンジのつもりで書いた貴翔VSロヴィーナは無事盛況となり、凌は今、胸をほっと撫で下ろしている。
大帝国の興行を観たことは、凌にとって大きな刺激になっていた。多彩なレスラーが作る試合には学べる点が山程あり、凌はそれから、大帝国の動画をいくつも観て勉強した。
とりわけヒールとベビーフェイスの見せ方は、今回のブック作りに大きく役立った。試合を分析し、流れを解釈し、貴翔とロヴィーナにふさわしい形へ変えられた時、凌は目の前が少し拓けた気がした。
ブッカーとして、見識を広げることの大切さを知った。けれどそれだけでなく、いち観客として、純粋にプロレスの奥深さに魅了されつつもあった。
中でも一際凄いと感じたのは、あの日貴翔と対戦した東条怜央——いや、レイヴンだった。
レイヴンというレスラーは、計算し尽くされたヒールだった。
凶器攻撃や強襲といった、わかりやすいムーブはほとんどしない。けれど間の外し方や非情な煽り、追い詰められた時にだけ出す反則に、ヒールとしての品性すら感じた。
気高さを持つ孤高の悪。
高みから獲物を狙う、冷徹なカラス。
細部まで練り上げられたコンセプトと、それをどう見せるかという演出が、東条はずば抜けて上手かった。
——そう、分析しているつもりだった。けれど気づけば、分析のために開いたはずのレイヴンの試合を、ただ見入っていることも多かった。
これはオルトでもやるべきだ。「魅せるプロレス」を目指すなら、レスリング技術だけじゃなく、キャラクター性も打ち出した方がいい。
凌は、オルトの先を思い描いていた。どうしたらもっと見てもらえるか。どうしたらみんなが魅力的に見えるか。そう考え始めると、自然とブック以外の導線やギミックにも、思考は広がり始めていた。
興行の終わった会場は、すっかり熱気が冷めていた。リングのばらしを見届け、売店の片付けを終えた凌は、ふらりとやってきた匠に手を上げた。
「お疲れ様。会場の片付けは終わった?」
「終わった。そろそろ撤収しようかって話してたんだけど、ロヴィさんどこ行ったか知らね?」
「あれ、さっきまで居たと思ったんだけど」
辺りを見回しても、確かに姿は見えない。
凌が記憶を辿る。その横で、匠が凌の私物に目をつける。
「ていうかさ、それなに?」
「え?ただのショルダーバッグだけど」
「そうじゃなくて、それ、レイヴンのグッズだよな」
真っ黒なナイロン地に描かれた、銀のカラス羽模様。赤く刻まれた「Raven」の文字に、匠の目が細くなる。
「……違います」
「いや、大帝国のロゴ入ってるし。名前入ってるし。てか急に敬語になってんの何?」
びしっと指を差される。凌は目を泳がせながらも、真面目な顔で答える。
「これは……グッズの敵情視察です」
「ファンじゃん!」
「違います!こういう普段使いできるようなデザインのグッズは、オルトにも増やすべきだって思っただけです!」
「買ってんじゃん!え、ていうかそのボールペンなに?バッグと同じ模様だけど」
「これは……俺の筆記用具です」
「ファンじゃん!!」
「だから違うって!!」
わーわーと言い合い、二人はすっかり本題を忘れる。そこに修司が、「何をやってるんだ」と呆れてやってくる。
「タク、ロヴィを探してたんじゃないのか」
「あ、そうだった。凌のガチオタっぷりのせいで忘れてた」
「俺のせいにするなよ!」
ケタケタと笑いながら、匠は探してくるとその場を去った。凌もまた、修司に探してくると言ってその場を任せる。
試合会場にはいない。なら、会場の外だろうか。
当てもないまま探し回り、搬入口へ足を運ぶ。すると廊下の行き止まりにある非常口に、見慣れた人影を見つけた。
防火扉に嵌め込まれた、網入りガラスの向こう。外に面した非常階段に、ロヴィーナの大きな後ろ姿が見える。
わずかに開いた扉に近づき、声をかけようとした。けれど突然、いつになく低いロヴィーナの声が聞こえ、ノブを握る手を止めた。
「病院、どうだったの?」
ロヴィーナの肩越しに見えたのは、政宗だった。スーツの襟元を緩め、壁にもたれてヒゲを弄る姿に、凌は思わず死角へ隠れる。
——朝から出かけたきりだったのに、どうしてこんなところに。
疑問に覗き込む凌の存在に気が付かず、二人は話を続ける。
「どうもこうも、いつも通りの脅しだよ。このままだと、まともに足が動かなくなるぞってな」
その言葉に、凌は息を止めた。
昔から、右足を引き摺る仕草はあった。けれどそこまで悪かったなんて、思いもしていなかった。
いや——知ろうとも、していなかった。
「……どうしても、手術は受けないつもり?」
「受けたところで完全に治りゃしねぇし、そんな金もねぇのわかってんだろ。それに、社長の俺がのんきに休んでるわけにもいかねぇしな」
軽く笑い飛ばす政宗に、俯いたロヴィーナの髪が揺れる。
政宗が、階段の手すりに身を預ける。右膝に触れかけて、すぐに手を離す。
「使える金があんなら、若い奴らに使ってやらなきゃいけねぇだろ。ろくに金も出せねぇのに、こんな潰れかけの場所で踏ん張ってくれてんだからな」
「それはアタシも同じ気持ちよ。でもだからって、放置してていいわけないでしょ。本当に動かなくなったらどうするのよ」
「そん時はそん時だろ。大体、二度目に足やった時にはもう覚悟してたんだ。プロレスを続けられねぇってことも、杖ついて歩くようになるだろうってのもな」
張り詰めたロヴィーナの肩が、小さく萎む。ため息をついたのだと、それだけでわかる。
「……資金繰りの方はどうなの?」
「あちこち頭下げに行ったけど、ずっと支援してくれてた三宅さんとこも、これで最後だってよ。万策尽きたってやつだな」
「そう。じゃあ……いつ畳むの?」
凌が、また息を止める。宙に浮いたままの手を握ると、冷たくなった指先の温度に気づく。
言葉の意味は、すぐにわかった。けれどわかりたくない自分が、どうしても認めようとはしなかった。
——畳む?オルトを?
みんながいるこの場所を?
母さんやロヴィさんが、必死で支えてきたこの場所を?
俺がこれから……頑張るんだって、決めた場所を?
呆然と立ちすくむ凌の目に、扉に隔てられた政宗が見える。政宗はふーっと息を吐き、視線を遠くへ投げる。
「そうだなぁ。持って、次の旗揚げ記念興行までか。誕生日が命日みてぇで、なんだか癪だけどな」
「……みんなにも伝えなきゃね」
「近いうちに俺から言うさ。他のとこで続けてぇなら、可能な限り口利きもしてやりてぇしな。西にはすでに頼んであるが、まずはこの先どうしたいか、ちゃんと話してみねぇとな」
西の名前に、凌はハッとする。
貴翔が持ちかけられた、引き抜きの話。主戦場を変えるならという誘いは、すでにオルトがなくなることを見越していたのかもしれない。
「お前には、迷惑かけっぱなしだったな。俺がいねぇ間、道場も若い奴らの面倒も押しつけちまった。今さらだけど……ありがとよ」
ふと、政宗の声が影を帯びる。長い時を経てようやくこぼれた感謝に、ロヴィーナが首を横に振る。
「やめてよ。そんなしんみりする言い方」
声が微かに乱れる。けれどすぐにロヴィーナは背筋を伸ばし、言葉を返す。
「アタシは自分で選んだの。ムネさんについていくことも、オルトに居続けることも。だから、謝罪も感謝もいらないわ」
政宗が薄く笑う。「適わねぇな」と呟き、肩をすくめる。
「ムネさんだって、後悔はしてないんでしょ」
「そうだな。……悔いはねぇよ」
柵越しに空を見上げる。厳しい目つきが、懐古に揺れる。
「青くせぇ理想掲げた俺についてきてくれる奴がいて、応援してくれる客がいて。一時とはいえ、でけぇハコも埋められて」
五月の抜けるような青空に、ちぎれた雲が流れていく。
「身体はボロボロんなったし、落ち目になってからは金のことばっかりだったけどよ。それでも、ここはずっと、俺の理想の場所だった」
視線を地に戻す。そして、ロヴィーナを見つめ返す。
オルトのリングで、何度も闘ってきた二人。けれど政宗はもう、リングにはいない。
理想も、客席も、今はもう埋まりきらない。それでも政宗は、やり切ったように顔を上げる。
「こんな終わり方になっちまったけど、最後に凌とオルトのプロレス作るってのも叶ったしな。俺はもう、心残りはねぇよ」
突然出された名前に、凌は目を見開く。
「無理やりやらせといてなんだけどよ。夢だったんだよ。息子と一緒に、プロレスすんの」
その身勝手な響きに、凌の身体が熱くなる。
一瞬だけ、喜びが湧いた。けれどその喜びごと、じわりと燃え上がった怒りに呑まれていく。
——夢、夢、夢。
その綺麗な言葉に、何度俺を巻き込むんだ。
腐ってた俺を無理やり引き摺り出して、自分のプロレスに関わらせて、もういい、夢は叶ったって?
じゃあ、俺はどうなるんだよ。
この場所に、この仕事に——父さんのプロレスに、夢を見たいと思った俺はどうなるんだよ!
心の奥が叫びたがった。今すぐこの扉を開けて怒鳴りつけて、殴ってやりたかった。
けれど、凌は動けなかった。
——睨みつけた父の顔が、未練と悔しさに歪むのを見つけてしまったから。
「……ほんと、身勝手な人ね」
責めるような、呆れるような呟きに、政宗が力なく笑う。ロヴィーナはその笑顔から目を背け、身を翻す。
ガチャリと、扉が開いた。
開けたロヴィーナが、凌の存在に気がついた。ノブを引く手が止まり、開きかけた唇は、音を立てずにそっと閉じられる。
政宗は気づいていない。一人背を向け、遠くを見つめる姿に、凌はいっそ安堵する。
ロヴィーナが、後ろ手に扉を閉める。決まりの悪さに黙り込む凌に、かける言葉を探す。けれどすぐに、ふっと笑みを灯す。
「凌ちゃん。オルトに帰ったら、明日の鍋の仕込み手伝ってくれる?」
凌が顔を上げる。返事をするより先にポンと肩を叩かれ、凌はすれ違うロヴィーナを目で追う。
ロヴィーナが、ゆっくりと振り返る。
穏やかな微笑みが不安を、戸惑いを、怒りを包み込んでくれる。けれどその笑顔に、オルトのことや政宗のことを包み隠していたのかもしれない。
そう思った凌の胸が、やるせなさに痛む。
「オルトに帰りましょう。みんなで、ね」
目頭が熱くなる。同時に、強く頷く。
そして知る。今はもう、オルトは帰る場所なのだと。




