第19試合 目指す星 追いかける星
メインの試合は、シングルのベルトを賭けた一戦だった。けれど凌の意識は、まだ貴翔とレイヴンの影を追いかけていた。
抜けない熱が、目の前の試合をぼやかせる。ぶつかり合う音もマットが跳ねる音も、二人の試合に重なってしまう。
気づけば興行は終わり、周囲は席を立ち始めていた。ハッと我に返った凌は、慌ててバックヤードへと向かう。
——入野間さん、今頃何してるんだろう。
あれだけの激しい試合だ。どこか痛めてるかもしれない。そう心配してみても、「良かったでしょ?」と、けろっと笑う顔が浮かぶ。
勝っても負けても、良い試合は出来る。その言葉通り、割れんばかりの大歓声に締められた試合に、貴翔は満足している気がした。
控え室の前に着き、ノブに手を伸ばす。するとちょうど、中から西が出てきた。
「ああ、凌さん。今日はお疲れ様でした」
会釈をする西に、凌は深くお辞儀を返す。
「西さんこそお疲れ様でした。素晴らしい試合を見せていただいて、本当にありがとうございます」
「楽しんでいただけたならよかった。ぜひまた観に来てくださいね」
「はい」
挨拶もそこそこに、西は去っていく。遅れて控え室に入ると、凌を見つけた貴翔がパッと表情を弾けさせる。
「凌!どうだった!?俺とレイヴンの試合!」
即座に感想を求められ、凌は思わず笑う。
「凄かったです。入野間さんも東条さんも。今まで観た試合の中で、一番凄かったです」
「ホント?そう言ってもらえんの嬉しいな!凌的にはどこが良かった?」
「……あの、父さんの技で飛んだところですね。オルトを背負って戦ってるんだって感じて、グッときました」
「そう思ってもらえた?ならよかった〜。あれ、完全にその場の思いつきだったからさ。飛ぼうとした瞬間、コレだ!ってなって」
「えっ?あれ、計算してやったんじゃないんですか?」
「うん。本当は、普通に身体から行くつもりだった」
唖然としながらも、凌は思う。貴翔のプロレスには、どれだけ父とオルトの闘いが染み付いているのだろうと。
羽織っただけのパーカーから、逆水平の跡がくっきりと見える。けれど貴翔は痛がるどころか、まるで勲章のように胸を張る。
「——でさ、西さんも褒めてくれたんだよね。ぜひまた大帝国のリングに上がってくださいって」
「今日の盛り上がりを見たら、そうなりますよね。またすぐ、声がかかるかもしれないですね」
「うん。『主戦場を変えようと思った時は、大帝国にぜひ』とも言ってくれたし、いつもめっちゃ評価してくれるんだよね。ありがたいことに」
「…………え?」
軽々しく出された話に、凌の思考が止まる。
大帝国にぜひって——それって。
「それ……引き抜き、ですか」
「え?あー、うん。今までも何回かあったよ」
「……なんて、返したんですか」
「ありがとうございます、考えておきますって」
事もなげに返され、凌は言葉を失った。
——大帝国プロレスが、入野間さんを欲しがっている。
それは、弱小団体に所属する選手へ向けられるには、あまりにも大きな話だ。待遇も注目度も、オルトとは比べものにならないだろう。
でも、もしそうなったら、オルトは——
「凌、どうかした?」
——これは、祝うべき話だ。レスラーにとっては名誉なことで、おめでとうと、快く送り出すべき話だ。
そう思っていても、動揺は消えない。
表情はスッと冷え、視線はゆっくりと床に落ちていく。
「……大帝国に、移るんですか」
温度のない声で問いかける。怖いのに、踏み込んでしまう。
「今日の試合見て、俺も思いました。入野間さんはオルトみたいな小さいところじゃなく、大帝国とか、もっと上とか……行こうと思えば、きっとどんな大舞台にだって立てるんじゃないかって」
言いたくない。
なのにどうして、止められないんだろう。
貴翔は黙ったまま先を待っている。
小さく息を吸うと、凌の喉が震える。
聞きたくない。
でも、知りたい。
「——入野間さんは」
ブッカーとして。オルトの仲間として。
そして、ひとりの入野間貴翔のファンとして。
——知らないままで、いたくない。
「レスラーとして、オルトのトップじゃなくて……プロレス界のトップに立ちたいって、思わないんですか?」
沈黙が、二人の間に落ちた。
凌はそっと顔を上げる。ちゃんと受け止めようと、ようやく貴翔の瞳と向き合う。
貴翔は、珍しく真面目な顔をしていた。けれど目が合った瞬間、ふっと、優しく笑った。
「なってみたい!とは思うよ」
柔らかな声。飾りのない、嘘のない答えを、貴翔は差し出す。
「でもそれって、俺の中で、優先順位低いんだよね」
長い前髪を指で払う。天井を仰ぎ、貴翔は遠くを見つめる。
「俺はさ、オルトが好きなんだよ。レスラーも少ないし、興行も多くないし、金だって全然もらえないけど、俺にとってはそれ以上のものがオルトにはあるんだ」
大切な思いを詰めた宝箱を、開くように。
穏やかに、切実に、貴翔は語る。
「政宗さんに憧れてプロレス好きになってから、ずっとオルトでやりたいって思ってた。それで実際入ってみたら、その憧れの政宗さんが、直々にプロレスを教えてくれてさ。
——あの時、決めたんだよ。絶対ここで政宗さんを超えて、オルトのエースになるんだって」
めちゃくちゃ厳しくて、辛い時もいっぱいあったけど。そう言った顔すら、笑顔で満ち足りていて。
「俺が入った時、オルトはもう傾き出してて、当時の仲間ももういなくなっちゃったけど……それでも今のメンバーはみんな好きだし、なにより、政宗さんの信念が好きだからさ」
すっと、貴翔のまぶたが落ちる。
遠い昔に聞いた政宗の言葉と、貴翔の声が重なる。
「プロレスは、一番強くて、一番楽しい」
力強く唱えて、貴翔は、堂々と胸を張る。
「——俺もずっと、そう思ってる」
まぶたが、ゆっくりと開く。
夢見る子どものように、瞳は無垢に輝く。
その眩しさに、凌は見覚えがあった。
いつか憧れていたもの。
いつのまにか、憎んでいたもの。
——目を背けてきた大きな影が、目の前で笑う若者と、重なる。
「入野間さんも……父さんも。人の人生、狂わせる人ですよね」
眩しさに目を逸らす。奥底でうねる複雑な想いを、凌は今、静かに解きだす。
「父さんや入野間さんに夢を見て、支えたくなる人がいて……なのに本人はただ夢を追いかけてて、周りのことなんて、何にも気にしてなくて」
母とロヴィーナの顔を浮かべる。
政宗の夢を支えるため、献身する二人。それはずっと、夢への犠牲なのだと思っていた。見返りもなく、ただひたすら、父の夢を守らされていると。
だけど——今は、わかってしまう。
犠牲だと思っていたものは、母やロヴィーナが選んだものかもしれないと。
父も母もロヴィーナも、自分の人生を懸命に生きているのかもしれないと。
けれど——幼い頃の凌は、救われない。
父と母のいない、ひとりきりの家。
暗いリビングで帰りを待ち続けた、寂しい記憶。
両親に囲まれる友達を見て、何度妬んだかわからない。どうして自分は一人なのかと、何度泣いたかわからない。
全ては、夢のせいだと思っていた。
父さんがプロレスなんてしていなければ、家族で暮らせた。誰も辛い思いなんてしなかった。
そう、ずっと思い続けていた。
——その想いだけはまだ、解ききれない。
「でも……それだけ純粋だから、応援したくなるのかもしれないですね」
それでも思う。何かに憧れ、好きでい続けることがどれだけ尊いことか。
現実にすり減らされていく夢を守ることが、どれだけ難しいか。
大人になるにつれて、ぼやけて、誤魔化して、手放していくものを追い続けることが、どれだけ眩しいことなのか。
「凌も?俺のこと、応援してくれてる?」
「……してますよ。してるに決まってるじゃないですか」
貴翔の真っ直ぐな瞳に、強がりが緩む。
素直に認めて、けれどすぐに恥ずかしくなって、凌はふいっと視線を逸らす。
「入野間さんがいなかったら、俺は今ここにいません。ブッカーなんかやらずに、きっとまた、父さんから逃げてた」
——オルトに行かなければ。入野間貴翔に出会わなければ。
今もきっと、あの暗い部屋でひとりきりのまま、父さんを恨み続けていた。
「……俺は、たぶん、あなたに狂わされたんです」
父とプロレスが好きだった気持ち。
信じていたものが壊れた悲しみ。
そこから生まれた怒りも恨みも、抱えた感情の何もかもが、このたった一人のレスラーのせいで変わってしまった。
——負けたままだと思っていた人生が、ひっくり返るほどに。
「だから……責任、取ってください」
「え?責任?なんの?」
「俺の人生を狂わせた責任です」
勢いで言って、急に顔が熱くなる。おかしな言い方になってしまったと、慌てて言葉を付け足す。
「あなたはオルトに必要な存在なんですから、これからもずっと、オルトにいてください」
逸らしていた視線を戻す。もう一度目が合った瞬間、貴翔はひどく驚いた顔をしていた。瞬きも忘れ、つぶらな瞳に凌を映し続けていた。
けれどその驚きは、ゆっくりと蕩けていく。
「……うん。任せといて」
熱が残る貴翔の頬に、隠しきれない幸せが浮かぶ。
無邪気な笑顔に、凌の胸がギュッと縮まる。初めて微笑まれた瞬間と同じように、心が揺さぶられる。
「凌が見たい景色は、俺が見せるよ」
貴翔が席を立つ。一歩、二歩と近づく距離に、凌の鼓動が高鳴る。
目の前で見つめられる。強い引力に惹きつけられ、凌は見上げてしまう。
透き通る瞳に映るのは、真っ直ぐな眼差しの、知らない自分。
その姿が眩しく見えるのは、貴翔の輝きのせいだと、凌は思う。
「だからさ、俺からも、お願い」
貴翔の唇が、緩やかに弧を描く。
聞いたことのない、熱を帯びた声が、凌の耳に届く。
「これからもずっと、俺を見てて」
その言葉に、一瞬、凌の心臓が止まった。
——そのセリフは、どうなんですか。
いつもなら言える文句が言えない。軽くもない、ふざけてもない貴翔の真剣さに、胸の奥を刺されて言葉が出ない。
だから凌は、答えの代わりに、小さく頷いた。
あなたをずっと応援します。
あなたを、オルトを、輝かせてみせます。
今はまだ、言葉に出来ない想い。それでもきっと、貴翔はわかってくれると——
凌は、信じていた。




