第18試合 ふたつの頂き ー入野間貴翔VSレイヴンー
試合開始十五分前。凌は会場に入り、西に用意してもらったリングサイド席に座っていた。
見回した広さに息を飲む。二階まである客席は端まで並び、リングをぐるりと囲んでいる。
客席はすでに埋まりつつある。膨れた期待感と騒めきが、高い天井に吸い込まれていく。
凌は心細さを感じながら、そわそわと視線を迷わせていた。スケールの大きさに飲まれ、興行のフライヤーをギュッと握りしめていると、天井の四面モニターがVTRを終えて切り替わった。
『まもなく、試合開始となります』
大型の照明機が、光を強める。
リングのマットは、艶のある黒だ。中央には大帝国の銀のロゴが刻まれていて、白い光を跳ね返している。
凌の心臓が、ドキドキと高鳴っていく。するとふっと照明が落ち、開始のアナウンスと共に、大音量で入場曲が流れる。
第一試合は、若手同士のシングルマッチだ。黒いショートタイツの坊主頭二人が、気迫を声に出し激しいロックアップを始める。
二人は、匠と同じ新人同士。けれど身体の厚みも、技の精度や迫力も、段違いなのがすぐにわかる。
ドロップキックひとつ。ジャーマンひとつ。馴染みのある技でさえ、完成度の違いは明らかだった。
——若手の試合でこれなのか。
トップ団体の技術を前座で思い知らされ、凌は複雑な悔しさを抱く。
この先、ベテランが出てきたらどうなるんだろう。そう思っているうちに、第二試合、第三試合と進行していく。
十人タッグマッチ。大帝国内のベビーユニットとヒールユニットが、五対五で闘う形式。リングの上で一対一を見せながらも、タッチワークで次々と入れ替わり、果ては多人数の場外乱闘にまで発展していく。
乱闘は凌の側にもやってきて、慌てて席から離れた。客席に向けて投げられた選手がパイプ椅子を薙ぎ倒し、その臨場感にバクバクと心拍数が上がる。
次は八人タッグマッチ。タッグベルトの前哨戦と位置付けられた試合は、手を確かめ合うような探り合いだった。
しかし、抑えたやり合いがかえって本番を待ち遠しくさせる。ベルトを賭けるその時、どんな攻防になるのだろうと想像が膨らむ。
その後も多人数の試合が続いていく。国籍もスタイルも問わない、バラエティ豊かなレスラーが次々と現れる中、凌はいつのまにか夢中で手を叩いていた。
照明、演出、マッチングにストーリーライン。目に見える全てが華やかで、自然と惹きつけられる。けれどそれら全ては上辺だけではなく、確かなプロレスの技術の上に成り立っているのだとわかる。
東条の言葉に、偽りはなかった。老舗団体として培った歴史が、信頼と価値が、こんなにも目に見えるものだとは思わなかった。
オルトと比べることすら烏滸がましいのかもしれない。
圧倒的な格の違いを思い知らされ、盛り上がっていく会場とは反対に、凌の心が静かに沈んでいく。
項垂れる凌の耳に、アナウンスが届く。
一際高らかな声が、次のカードを読み上げる。
『これよりセミファイナル、スペシャルシングルマッチを行います!』
瞬間、大音量のギターリフが駆け上がる。
高音に踊るリズムと疾走感——入野間の登場曲、『Thrill×Trigger』だ。
登場曲の一音目から、会場が大きく湧く。悲鳴に近い女性の歓声と、野太い男性の銅鑼声が混じり合う。
爆発しそうな期待感の中、青く照らされた入場ゲートから貴翔が現れた。
煌びやかなガウンもない、白いボクサーパンツ型タイツ一枚の姿。けれど引き締まった肉体は、ライトを浴びただけで衣装以上の存在感を放っていた。
上がっていく熱量に注目が集まる。貴翔は立ち止まり、真っ直ぐにリングを指差す。
いつも通りの笑顔なのに、目の奥の光が違う。天井のモニターいっぱいに映された貴翔の表情に、凌の息が詰まる。
貴翔が花道を駆け出す。客とハイタッチを交わし、リング前でゆっくりと目を閉じる。
祈りのようなルーティンは、今日は少しだけその間が長い。
まぶたを開くと同時に顔を上げ、リングの縁に上がる。そしてトップロープを軽々飛び超え、リングインする。
「181センチ88キロ、プロレスリング・オルト所属。入野間〜!貴翔〜〜!!」
貴翔の人差し指が、天を指す。声援が高まる中、登場曲が徐々にフェードアウトしていく。
照明が落ちる。
ふっと歓声が止む。
一瞬の静けさに、会場の全員が対角線に立つ者を待つ。
——パイプオルガンの音色が、怪しく響く。
厳かな旋律とコーラスが、ぞわりと肌を撫でた。一変した空気に総毛立った瞬間、オルガンは冷たく重いギターの鳴き声に変わり、暗いベースラインの上を踊り出す。
——漆黒のカラスが、闇夜を裂いている。
浮かんだイメージが、赤いライトに照らされたレイヴンと重なる。一層濃くなる気配の中、手拍子が鳴り始める。
待ちかねるファンの視線と、ピンスポットの光。注ぐ全てを、黒いガウンとマスクが飲み込む。
その立ち姿ひとつでわかってしまう。
——レイヴンは、強者だ。
ゆっくりと花道を進む。急ぎはしない。焦らしもしない。ただ真っ直ぐに前だけを見据え、一歩ずつ着実にリングへと近づく。
リングの上では貴翔がロープから身を乗り出し、レイヴンの到着を今かと待っている。レイヴンはその視線を、静かに見つめ返す。
二人の目にはもう、互いの存在しか映っていない。そう思わせるほど張り詰めた空気に、目に見えないはずの闘志が火花を散らす。
凌は手拍子を打つことも出来ず、固く両手を握っていた。
この試合は、ただの対レスラーじゃない。オルトのエースと大帝国のトップという、団体の威信がかかっている。
試合の流れも勝敗も決まっている。だが重要なのは、その過程だ。技ひとつ、動作ひとつ見劣りすれば、団体の優劣に直結しかねない。
「身長183センチ、90キロ。レイ〜ヴン〜!!」
コールと共に、レイヴンがトップロープを潜る。黒いガウンの裾が、ロープにかかりたなびく。
貴翔とは対極な、静かなリングイン。けれどその静けさこそが、レイヴンの底知れぬ怖さを想像させる。
レフェリーが間に立った。レイヴンがガウンを脱ぎ、鍛えられた厚い肉体が露わになると、会場がどよめく。
「レイヴンー!」
「貴翔ー!」
ゴングが鳴る。せめぎ合う声援の中、二人は静かに腰を落とす。
貴翔が手を上げ、ひらひらと誘う。レイヴンも手を伸ばし、指を絡ませる——と見せかけて、間合いを外す。
焦らされた貴翔がニヤリと笑う。もう一度組もうぜと誘えば、今度は素直に乗ってくる。
ダンッ!
揃って踏み込む足が、マットを鳴らす。互いの後ろ首を取り合い、ロックアップが始まる。
力比べは、徐々にレイヴンへと傾いていく。押し込まれた貴翔はロープに追いやられ、ブレイクをアピールする。
「ブレイク!」
レフェリーが二人を引き離す。けれどレイヴンはそれを無視し、大きく右手を引き絞る。
バチィッ!!
肌を打つ音が、耳をつんざいた。
挨拶がわりの重い逆水平が、貴翔の胸元をじわりと赤くする。
「うっわ、重っ……!」
「レイヴン様、見た目はいつも通りだけど、やっぱ貴翔相手だと熱いよね!」
すぐ側で、二人組の女性が興奮に息を飲む。
——レイヴン様なんて呼ばれてるのか。いや、でもあの雰囲気だもんな……。
納得しかけて頭を振る。視線をリングに戻せば、今度は腕の取り合いが始まる。
取った、取り返した、抜けた、倒された。
変わるがわるの攻守は速い。探り合いの序盤さえ、その目まぐるしさに息をつけない。
オルトでの貴翔の試合は、アーカイブで何度も見た。けれどオルトのレスラー相手に、ここまでのテクニックを見せたことはなかった。
——もしかして入野間さんって、俺が思っていたよりすごいんじゃ。
予感がざわりと肌を撫でる。呼吸がわずかに早くなる。
腕の取り合いも、やがてレイヴンが押し始める。きつく固められた貴翔は、顔をしかめながらも軽やかに側転を決める。
するりと捻りが解ける。そんな解き方があるのかと凌が瞬くと、貴翔は着地と同時にグッと低く沈み込んだ。
長い脚がマットスレスレを薙ぐ。片足を刈られたレイヴンはそれでも崩れず、片膝をつくだけに留まる。
だが、生まれた隙を貴翔は逃さない。
ロープへ走り、一気に加速してからの低空ドロップキック。正面から受けたレイヴンに、間髪入れずその場飛びムーンサルト。
怒涛の攻勢を浴びせ、フォールに入る。しかしカウント1でレイヴンが返す。
二人はまた仕切り直す。けれどそこからは、完全に貴翔のペースだった。
鋭いソバットを叩き込む。折れた体勢を狙い、トラースキックで顎を蹴り上げる。
再び体勢を崩したところに、追撃を狙う。しかしレイヴンはここで初めて、逃げに徹した。
素早くリング外にエスケープし、間合いを取る。凌の席の正面に、レイヴンの逞しい背中が近づく。
——そのタイミングを、貴翔は待っていた。
すかさずコーナーポストに走り、トップに登る。不安定なはずのロープにスッと立ち、貴翔は遥か高みから眩いライトを背負う。
「貴翔ー!!」
一段と高い声援が上がる。短い間に、凌の緊張が高まる。
貴翔が手を広げる。
その構えに、凌の胸が大きく跳ねた。
——父さんの技だ。
かつて何度も見た、政宗のフィニッシュ技——『オルト・ノヴァ』。
団体の名を冠した技を迷わず選び、貴翔は高く飛ぶ。
長い長い、滞空時間。
落下の勢いを乗せた肘が、身体ごとレイヴンに突き刺さる。
「うわあぁぁ!!」
「入ったーー!!」
「貴翔ーーーー!!」
歓声が爆ぜる。
大きな衝撃が弾け、二人の身体が場外マットに叩きつけられる。
二分していたファンはいつのまにかひとつになり、貴翔の名を何度もコールする。
貴翔が膝を立て、先に立ち上がる。そして客席に向かって、拳を高々と上げる。
その姿はまるで、試合の勝者のようだった。
「……入野間さん」
あふれる情感に、小さな声がこぼれる。熱くなる胸の理由もわからないまま、凌は一人、痛いほどの鼓動を抑える。
今この瞬間、客の心を奪っているのは明らかに貴翔だ。視線も拍手も声援も、全てが貴翔に集まっている。
——入野間貴翔は本物だ。
大帝国という格上にだって、負けていない。
大歓声に、ギュッと胸を潰される。急に貴翔が遠い存在に思えて、普段はあんなに近いのにと、凌の認識が揺れる。
目の前で、貴翔が長い髪を払った。振り向いた瞬間、目が合った。
——笑う。
凌がよく知る笑顔で。
「……ワン!ツー!スリー!」
レフェリーが場外カウントを始める。貴翔はすぐにリングへ戻り、レイヴンの帰りを待つ。
レイヴンは膝をついたまま、なかなか立てずにいる。肘が入った肩を押さえる表情に、ダメージの大きさが見える。
カウントは進んでいく。近づくリングアウト負けに、観客が騒めき出す。
ようやく立ち上がったのは、16カウント目だった。レイヴンはわずかによろめきながら、リングへと手をかける。
場外20カウント負けまで、あと1カウント。リングアウト負けが決まるその直前に、レイヴンがリングに滑り込む。
わっと歓声が上がる。余裕十分で迎える貴翔に、レイヴンのマスク越しの視線が殺気を増す。
「レイヴンー!」
「やれーー!!」
一転、レイヴンに反撃の期待がかかる。けれど貴翔の勢いは止まらない。
得意の掌底とハイキックのコンボ。背後を取って鋭いジャーマンスープレックスホールド。
カウント2で返したレイヴンは、すぐには立てない。
そこに今度は、貴翔がトップロープからのフットスタンプを仕掛ける。
だがここで、レイヴンが大きく動いた。
素早く転がって回避をし、中腰に構える。そして貴翔の着地を狙い澄まし、下から腕を振り抜いた。
鈍い衝撃音。カウンターのヨーロピアンアッパーカットに顎を撃ち抜かれ、貴翔がぐらりと崩れ落ちる。
高みから見下ろしたのは、今度はレイヴンだった。
すぐに追撃はせず、静かに立ち上がりを待つ。けれど貴翔が膝を立てた瞬間、ロープを使って加速し、サッカーボールキックを叩き込む。
レイヴンは決して乱打しない。だが一発一発が的確で、異様に重い。
貴翔とは正反対の打撃感に、優勢はたった二発で覆された。今度はレイヴンがフォールをするが、貴翔もカウント2で返す。
立ち上がった貴翔の目が、ギラギラとレイヴンを追う。パワースラムで叩きつけられても、スパインバスターでカウンターを食らっても、執拗に立ち向かう。
レイヴンもまた、マスク越しの冷たい炎が加熱する。それまでのどこか余裕ある振る舞いは消え、貴翔と同じだけの熱量で技を返す。
一進一退。勝つのはどっちなのか。
凌は知っているはずの勝敗も忘れ、手に汗を握りしめていた。
歓声は遠のき、今はもう、肌を打つ音とマットが跳ねる音しか聞こえない。
——息が苦しい。酸素が燃えて、無くなってるみたいだ。
ただ見ているだけなのに、汗が噴き出る。瞬きを忘れた目が、ひどく乾いていく。
リングの上では、喉を掴まれた貴翔が高く持ち上げられていた。
黒く塗られた爪が捕える姿は、まるで獲物を攫うカラスだ。貴翔は逃れることもできず、そのまま餌食になる。
バァンッ!!
脅威的な力で、レイヴンが貴翔をマットに叩きつける。貴翔の身体が大きく弾み、そのまま動けなくなる。
レイヴンは、そこで初めてコーナーに足をかけた。
会場の騒めきが大きく膨らむ。これまで飛ばなかった男が飛ぶ。その意味を、誰もがわかっていた。
ロープをバネに、ひらりとトップに立ち上がる。そして貴翔を指で差し、そのまま、首を切る仕草をする。
——これで終わる。
その予感と同時に、レイヴンが空を舞った。
白色のライトを、黒が割く。
黒いリングシューズの両足が、獲物を啄む嘴のように、貴翔の腹部へ突き刺さる。
ダンッッ!!
重たい着地にマットが揺れる。踏み抜かれた貴翔の身体が、苦悶に折り曲がる。
けれどレイヴンはその苦しみすら許さず、無慈悲にマットへ押さえつける。
「ワン!」
貴翔は動けない。
レイヴンが、肩を押す手をグッと強める。
「ツー!」
ワンカウントが長く感じる。
レイヴンの固めた髪が、汗で崩れる。
「スリー!」
カンカンカンカンカン!!
ゴングが高らかに鳴る。
立ち上がり、レフェリーに腕を挙げられたレイヴンが、肩で大きく息をする。
瞬間、爆発した歓声が、一斉にレイヴンを讃えた。
「二十一分十七秒、ナイトシーカーにより、勝者・レイヴン〜〜!!」
リングアナのコールが、勝利を告げる。盛大な拍手の中、凌もまた夢中で手を叩く。
——こんな凄い試合が、ノンタイトルマッチなのか。
オルトとは、技術も密度も熱量も、桁が違う。プロレス界のトップが作る試合が、どれだけ人を白熱させるのか、凌は知ってしまった。
『プロレスには格があると言ったのを、覚えているな』
——東条のセリフが、生々しく蘇る。
『それを今日、お前に見せてやる。大帝国というブランドと、そのトップの試合というものを、よく見ておけ』
言葉通り——いや、言葉以上のものを、骨の髄まで思い知らされた。
四千人の歓声は止まない。
その高揚の頂きが、この大帝国プロレスという団体の、確かな現在地だった。




