第17試合 大帝国のカラス
スポット参戦当日。その日、凌は貴翔と一緒に、大田区総合体育館へやってきた。
最大収容人数五千人。競技用アリーナとして使われる会場は、体育館というより大型イベントホールだ。
会場の外周を、緩やかな曲線に沿って歩く。見た目はまだ新しく、格子状の白い外装とガラス面は、日差しを弾いて輝いている。
「……こんなデカいところでやるなんて。トップ団体って凄いな……」
思わず足を止める凌に、貴翔が振り返る。
「凌、ここ初めて?」
「初めてです。入野間さんは来たことあるんですか?」
「うん。前に一回、ここでレイヴン戦やったことあるよ」
事もなげに笑い、貴翔は颯爽と歩き出す。
時刻は、試合開始三時間前。二人が早々にバックヤードに入ると、広い廊下には、すでにスタッフや大帝国のレスラーの姿がちらほら見え始めていた。
貴翔は、挨拶をしながら堂々と進んでいく。凌はその後ろに縮こまり、一緒にペコペコと頭を下げる。
やがて控え室に辿り着き、二人は息をついた。ゲスト用として割り振られた部屋は、大部屋ではなく個室だ。待遇の良さが窺える。
「オルトは狭い部屋ひとつに、みんな一緒なのにな……」
「そりゃあレスラーの人数も会場も桁違いだし。でも俺、みんながそばでワチャワチャしてんの好きだけどな」
室内をぐるりと見回す。テーブルに椅子、大きな鏡にハンガーラック。テーブルの上には、飲み物やタオルが用意されている。
「思ってたより普通ですね。あ、でもテーピングとか湿布もあるんですね」
「アイシング用の氷もあるよ。ここら辺助かるんだよなぁ。どこかしら痛めて帰ってくるから」
「……なんというか、怪我する前提ってところがプロレスって感じですね」
プロレスラーにとって、怪我は日常だ。オルトでもどこが痛いだの、あの技にやられただの、いつも怪我の話をしている。
レスラーは命と体を張っている。以前貴翔が言った言葉を、凌はひっそりと実感する。
「凌も一緒に行く?」
「どこにですか」
「東条さんとこ。挨拶と打ち合わせに行こうと思って」
「打ち合わせ……」
小さな頃に見た、政宗とロヴィーナのやり取りが浮かぶ。
舞台裏を知った今でも、夢が壊れた瞬間に胸は疼く。けれど今はもう、そんな痛みを気にしてはいられない。試合を作ることは、ブッカーとしての大事な仕事なのだから。
「まぁネタバレになっちゃうし、嫌だったらここにいていいけど。どうする?」
「……行きます。勉強させてください」
「オッケー。じゃあ行こっか」
にっかりと笑って、貴翔は凌を連れて行く。
廊下を進んだ先、個室の並ぶ一画に、東条の控え室はあった。貴翔はノックをして、気軽に声をかける。
「東条さーん。居ますー?」
「入野間か。……開いてる。入れ」
「お邪魔しまーす」
ガチャリとドアを開け、貴翔は遠慮なく部屋に入る。凌もその後ろに続き、頭を下げて挨拶をする。
「お邪魔しま——」
しかし、上げた視線に映った東条の姿に、凌は開いた口をぴたりと止めた。
——大帝国の看板ヒール、レイヴン。
東条の装いは、そのリングネームの通り、まるで漆黒のカラスのようだった。
黒いガウンの肩を覆う羽飾り。ロングタイツに走る、赤い爪痕模様。
マスクは想像していたような覆面ではなく、銀のラインに縁取られた黒いマスカレードマスクだ。そのこめかみにはカラスの羽があしらわれていて、貴族のような品すら感じる。
ザッと髪を流し、固める。ヘアスタイルまで整えば、そこで『レイヴン』は完成した。
「あれ、着替えるの早いですね」
「この後サイン会だからな」
「あー、じゃあ時間なかったりします?」
「問題ない。軽く打ち合わせる程度ならある」
東条がふと凌を見る。凌はぽかんと口を開いたまま、微動だにしない。
「どうした。呆けているぞ」
「え、いや、あの……その格好……」
「あれ?凌、もしかしてレイヴンに見惚れてる?」
「違いますッ!!いや、確かにカッコいいなとは思いましたけど!」
「思ったんだ」
吹き出す貴翔を、凌が睨みつける。東条は二人のやり取りに、柔らかな息をこぼす。
「下調べはしているものだと思っていたがな。その様子だと初見か」
「……過去の試合を見ようと思ったら、入野間さんに『どうせなら今度の試合を初見にして』と止められまして」
「過去を見るより、今の俺たち見て欲しいじゃないですか。ね?東条さん」
「俺は別にどうでもいい」
「えー」
弾む会話に、凌の緊張が解けていく。
試合前だというのに、東条に張り詰めた様子はない。その空気の和やかさに、今しかないと勇気を出す。
「東条さん。先日は、失礼なことを言ってすみませんでした」
小さく一歩前に出て、凌はしっかりと頭を下げる。
「オルトのブッカーをしています、神谷凌と言います。今日は大帝国さんの興行と、入野間さんとの試合を勉強させていただきます」
よろしくお願いしますと顔を上げれば、「そうか」と短く返る。そして一拍おいて、東条は静かに口を開く。
「神谷」
マスク越しの視線に射られ、凌の背筋が伸びる。
「プロレスには格があると言ったのを、覚えているな」
「……覚えています」
「それを今日、お前に見せてやる。大帝国というブランドと、そのトップの試合というものをよく見ておけ」
上から目線とすら思えそうなセリフも、不思議と嫌な感じはしない。それは東条怜央というレスラーが、気高い矜持を抱いているからだと凌は思う。
二人の間に、ピリッとした緊張が走る。そんな空気も読まず、貴翔は軽く口を挟む。
「東条さん、今日フィニッシュ何にします?飛びならちょっと組み立て変えたいんですけど」
晩ご飯でも決めるかのように貴翔が切り出す。東条は視線を貴翔に移すと、すぐさま答える。
「今日はナイトシーカーで行く」
「おっ、レアな飛び技だ。じゃあ俺は序盤と中盤にちょいちょい飛ぼうかな」
「立ち上がりは静かにいく。序盤は俺が押すが、ギアを上げるタイミングと技の選択はお前に任せる」
「任せてくれんのは嬉しいですけど、熱くなってまた流れ吹っ飛ぶかもしれないんで、そん時はフォローよろしくお願いします!」
「……入野間。流れは守れ。守らないことを前提にするな」
「でも俺がうっかりしても、いつもめちゃくちゃ上手く受けて試合作ってくれるじゃないですか」
「俺だから捌けているんだ。少しは迷惑をかけている自覚を持て」
「はーい。いつもすんません」
大雑把な流れにもかかわらず、二人は同じ画を浮かべ、意思疎通をしているようだった。
レスラーにしかわからない、共通の肉体言語なのだろうか。それとも、これが「手が合う」ということなのだろうか。
滲む信頼の奥に、二人が積み重ねてきた歴史を感じる。それは絶対的な聖域で、レスラーではない凌にとって決して踏み入ることのできない領域だった。
「——じゃあ、そんな流れで。直前にまた声かけます」
「ああ」
区切りがついたところで、ノックの音がする。ドア越しにサイン会会場入りを呼びかけられると、東条が了承を返す。
「じゃあ俺たちは戻ります」
貴翔が部屋を退室しようとする。凌は最後にもう一度頭を下げ、後に続こうとする。
「神谷」
ドアを閉めようとして、呼び止められる。振り返る凌に、東条はほんの一瞬、迷うようなそぶりを見せる。
「……ひとつ、言い忘れていた」
慎重な言い回しに、凌は身を固くする。何か気に障っただろうかと構える凌に、東条の視線が、わずかな熱を帯びる。
「お前の姿勢は、悪くない」
「……え?」
「自分の団体とレスラーを守ろうとする気持ちは、捨てるな」
道筋も飾りもない、本質だけの言葉。それが何を指しているのかは、すぐにわかった。
貴翔の負けに異議を唱えたこと。
感情的に声を上げたこと。
咎められたはずの出来事を今、東条が認めてくれている。
オルトの一員として、オルトのブッカーとして、大切なものだと認めてくれている。
それが、あまりにも嬉しくて、仕方がなかった。
「——はい!」
高らかに返事をして、満面の笑みで礼をする。その真っ直ぐな反応に、東条の無表情がふいに崩れる。
パタンと、ドアが閉まる。
去った嵐を見届けた東条は、その静寂の中で一人、静かに笑みを浮かべた。
マスクの奥の目が、ゆっくりと瞬く。
そうして開かれた瞳は、先を見据えるような、深い色を宿していた。




