第16試合 大帝国プロレス
凌がオルトに通い出してから、一ヶ月が経った。
初めての興業が終わり、早二週間。早起きに慣れた凌は、その日も朝から出かける用意をしていた。
カバンにノートを入れる。一冊目は、昨日まで使っていたもの。この一ヶ月で学んだプロレスの基礎や歴史、初めてのブックに反省や分析が、最後のページまでびっしりと埋まっている。
二冊目は、今日から使うまっさらなノート。高校時代に買ったものの、引きこもってからは余らせていたものだ。
透明なビニールを破りながら思う。もう、使うことはないと思ってたのにと。
振り返れば、学生時代の苦い記憶が押し寄せてくる。経験するはずだったたくさんのことを思うと、やるせなさがあふれてくる。
だけど今は、悔やんでも仕方ないと思えた。
逃げた過去は変わらない。ならせめて、今は出来ることをしよう。
そう前向きに考えられるようになったのは、今の生活が、思いの外充実しているからだ。
初めて触れた、ブッカーという仕事。
知れば知るほど深まる、プロレスの世界。
みんなの頑張りを見ていると、自分も頑張りたいと思う。一緒に、もっといい試合を作りたいと思う。
いつの間にかオルトは、凌にとって、家よりも居たい場所になっていた。けれどそう気づいていても、素直に認めたくない気持ちもある。
それは——
「よぉ。ずいぶん熱心にやってるみたいだな」
この父親のニヤけ面が、どうしても気に食わないからだ。
「あれだけ嫌がってたのに、変われば変わるもんだな」
——その言い方がムカつくんだよ!
ピクリとこめかみが動く。用意する手を止めないまま、横目でじとりと睨みつける。
「無理やりやらせといて、楽しんでるみたいな言い方やめろよ」
「頼まれもしてねぇのに毎日通ってんの見たら、誰だってそう思うだろ」
即座に返され、奥歯を噛む。
政宗は昔からこうだ。引きこもっていた時も、遠征帰りにやたらとウザ絡みをしてきて、それがずっと鬱陶しかった。
前までは、苛立ちをただ飲み込んでいた。部屋にこもって聞こえないふりをして、関わり合う事を避けてきた。
けれど今の凌は、少しだけ変わりつつあった。
「そういう父さんは毎日何してんだよ。社長のくせに、ろくに道場いないだろ」
「言ったろ?社長ってのは忙しいんだって」
「そうやってロヴィさんに丸投げしてんだろ」
認めたくない。負けたくない。
反発を口に出し、非難する。政宗はほんの一瞬片眉を上げ、しかしすぐにほくそ笑む。
「なんだ、随分とロヴィの肩持つじゃねぇか。すっかり懐いてんな」
「そうじゃなくて!父さんのせいで迷惑してる人がいるって言いたいんだよ!」
声を荒げても、政宗に堪えた様子はない。それどころか、指に引っ掛けた車の鍵を軽くちらつかせてくる。
「行くんだろ?乗ってけよ」
「いい。一人で行く」
「突っぱんなって。電車代だってバカになんねぇだろ」
半ば強引に連れ出され、車に押し込められる。
すぐに車は走り出すが、会話はない。それでもバックミラー越しに、チラチラと見られている気配がする。
「で、どうなんだ」
「なにが」
「ブッカーの仕事だよ。ロヴィに教わってんだろ?」
「別に。父さんに言うことなんて何もない」
言い捨てると、政宗はそれ以上何も言ってこなかった。
本当はいろいろ教わっている。失敗も、次に活かそうとしていることもある。
けれどそれを、政宗に伝えたくはなかった。
——どうせ、ロヴィさんから聞いてるくせに。
口を閉ざしたまま、車はスピードを上げる。重たい空気の中、やがてオルトの道場が見えてくる。
停車した途端、即座にドアを開ける。政宗はいつもなら、このまますぐに出かけるはずだった。だがこの日は政宗も降り、道場へ入ろうとする。
「なんで降りるんだよ。社長はやることあるんだろ?」
冷ややかな目を向けられ、政宗はふん、と鼻を鳴らす。
「今日は大事な客がウチに来んだよ。客の相手すんのも、俺の仕事のうちだ」
「大事な客?」
首を捻る凌を置いて、政宗が先を行く。
引き摺る足は、今日もぎこちない。凌はその後ろを追いながら、道場へと入る。
「おはよう凌ちゃん、ムネさん」
「政宗さん!おはようございます!」
「おう。おはようさん」
「おはようございます」
中では、先に来ていたロヴィーナと貴翔が待っていた。
軽く手を上げ、政宗は事務スペースへと歩いていく。凌も後に続くと、走り寄って来た貴翔が笑顔で覗き込んでくる。
「凌もおはよ」
「おはようございます。近いので一歩下がってください」
「えー」
「えー、じゃないです」
じゃれつく貴翔を軽くあしらう。この一ヶ月で見慣れたやり取りに、ロヴィーナがくすりと笑う。
「ノマちゃんたら、すっかり犬みたいなんだから。凌ちゃんのこと気に入ってんのはいいけど、邪魔するんじゃないわよ」
「犬ってひどくない?てか俺、邪魔なんかしてないけど」
「時々されてます」
「えー」
「だからえー、じゃないです」
めげない貴翔と、遠慮なく突き放す凌。二人の気やすげな空気に、政宗の目が細くなる。
「なんだお前。随分と貴翔に気に入られてんじゃねぇか。なんかあったのか?」
「別に何も」
心当たりはない。ただ、初めての興行の後からやけに絡むようになってきたのは、何となく気づいている。
しかし凌は、特に気にしていなかった。誰にでもフレンドリーな人だしなと、適当に相手をし続けている。
「時間、そろそろね」
時計を目にしたロヴィーナが、ぽつりと呟く。
何を待っているのだろうと考えて、「大事な客」のことを思い出す。その瞬間インターフォンが鳴り、ロヴィーナが出迎えに行く。
「いらっしゃい。待ってたわ」
「お邪魔します。政宗さんはいらっしゃいますか?」
「おう、こっちだ。西、久しぶりだな」
ロヴィーナと政宗が親しげに迎えたのは、四十代後半くらいの、高級スーツを着た男だった。西と呼ばれたその男はネクタイを正し、きっちりと頭を下げる。
「ご無沙汰してます。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
「堅苦しい挨拶はいらねぇって。適当にくつろいでくれや」
「どうぞ。奥で話しましょ」
西を連れ立ち、政宗が休憩所に案内する。凌はそれを見送ろうとするが、ロヴィーナに手招かれる。
「興行に関することだから、凌ちゃんも一緒に来てくれる?」
「それはいいですけど、入野間さんは?」
「もちろんノマちゃんも。そのために呼んだんだしね」
話が見えないまま、揃ってちゃぶ台に着く。
座椅子に座る政宗を中心に、両隣に並ぶのは貴翔とロヴィーナ。凌は貴翔の隣で、ひっそりと足を揃える。
「初めましてですね。新しく入られた方ですか?」
着席した途端、西の視線が向く。どう名乗るべきか戸惑っていると、すかさず政宗が割って入る。
「俺の息子の凌だよ。今、ウチのブッカーさせてんだ」
「政宗さんのご子息でしたか!これは失礼しました」
西は凌へと向きを正す。そして懐から名刺を取り出し、両手で差し出す。
「大帝国プロレスで編成部長をしております、西貴弘と申します。よろしくお願いします」
——大帝国プロレス。
日本プロレスの礎を築いた老舗であり、政宗とロヴィの古巣であり、今もなお、日本のトップに君臨する団体。
そのビッグネームに、凌は思わず尻込みする。
「……神谷、凌です。一応、オルトのブッカーをしています。こちらこそ、よろしくお願いします」
そわそわする凌に、貴翔がぷっと吹き出す。
「凌、めっちゃ固まってる」
「そりゃ固まりますよ。大帝国って、テレビでもよく聞く団体じゃないですか」
恐れ入りますと、西が微笑む。ロヴィーナも笑みを浮かべ、お盆に乗せたお茶を差し出す。
「そんなに緊張しなくていいわよ。西さんとは付き合い長いし、いつも良くしてくれてるから」
「そうなんですか?」
「はい。政宗さんには昔よくお世話になっていたので、私としては、協力出来ることはしたいなと思っているんですよ」
西はそう言って、持参したビジネスバッグを開く。
「つきましては、事前にお話しておきました通り、入野間選手のスポット参戦についてお願いに参りました」
ファイルから取り出したのは、一枚の用紙。それをちゃぶ台の上に置き、政宗に向けて差し出す。
『出場契約書』
そう書かれた見出しの下には、大帝国プロレスへの出場に関する要項が書かれている。
『株式会社大帝国プロレス(以下「甲」という)と、入野間貴翔(以下「乙」という)は、以下の通り出場契約を締結する』
視線を横目に、書かれた本人の横顔を盗み見る。
当の貴翔はのほほんとしている。凌の視線に気づいて振り返り、へらっと笑い返してくるのを見て、ちゃんと前を向けと念じる。
「三日前という急遽のオファーにも関わらず、承諾いただきありがとうございます。ご迷惑をおかけする分、報酬は上乗せさせていただいてます」
報酬。そうか、報酬ってものがあるよな。
漠然と聞きながら、凌の目が契約書を追う。
——金五十万円。
その高額に、一試合で!?と思わず声が出そうになる。
「相変わらず大帝国さんは気前がいいな」
「ご無理を聞いていただきましたから。入野間さんも、快諾いただきありがとうございます」
「いーえ。こっちとしては、一試合でも多く出来るのはありがたいですし。それに大帝国さん相手だと、いつも強いレスラーと闘えるからワクワクしてますよ」
貴翔の声も顔も、言葉通りワクワクしている。あまりの緊張感のなさに、大物なのか無神経なのかを測りかねる。
「むしろシングルマッチ、それもセミファイナルなんて美味しい指名ありがとうございます。レイヴンと闘うの久しぶりだし、めちゃくちゃ楽しみですよ」
「レイヴン?相手の選手、入野間さんの知ってる人なんですか?」
「知らない?大帝国のトップレスラーの一人で、めちゃくちゃ人気のマスクマン」
「俺、まだ他団体まで調べられてなくて……」
不勉強ですみませんと頭を下げれば、西がやんわりと手を振る。
「レイヴンは、ウチの看板ヒールなんですよ。入野間さんとは過去何回か対戦してるんですが、毎回盛り上がる好カードでして」
「レイヴンとは手が合ってさ。何回やっても楽しいんだよね」
——入野間さんにそんな相手がいたのか。
オルトだけで手一杯だったけど、他団体もリサーチしなきゃな。そう考えてふと、凌は顔を上げる。
「あの、そういえば、こういうスポット参戦の勝敗ってどう決めるんですか?」
凌の問いに視線が集まる。思わず縮こまると、西が静かに口を開く。
「契約書にある通り、基本は両団体での協議となります。ですので今回は、当人も交えてご相談しようと思っています」
西は腕時計を確かめ、視線を入口へと向ける。その時、インターフォンがまた鳴り響いた。
席を立ち、ロヴィーナが出迎えに行く。わずかに留まった場に、妙な緊張が高まる。
誰かの声と、足音が聞こえる。
近づく気配に、凌の心臓が高鳴る。
「狭いところだけど、どうぞ」
ロヴィーナに促され、後ろから黒いロングシャツの男が現れる。
男が、一歩踏み出す。
そのただならぬ気配に、凌の背筋がピンと伸びる。
「遅くなり、申し訳ありません」
凛と響く声に、空気が張り詰める。
男は、華やかで明るい貴翔とは正反対だった。
整った容貌は動きが乏しいのに、かえってそれが美しく見える。静かなのに、視線が強く惹きつけられる。
一瞬、目が合う。
——冷たい。なのに、熱い。
相反した温度を残し、男は切れ長の瞳を政宗へと移す。
「政宗さん。ご無沙汰しています」
「おう、東条。元気そうじゃねぇか」
「おかげさまで」
現れた男——東条が、西の隣に膝を折る。その着席を待って、西が話を再開する。
「ご紹介します。今回入野間さんと対戦する、レイヴンこと東条怜央です」
「よろしくお願いします」
乱れのない姿勢で、東条が頭を下げる。長い前髪が、さらりと揺れる。
「揃ったところで、先ほどの話に戻ります」
西が仕切り出す。愛嬌のある声が、突然硬質に変わる。
「試合に関してですが、こちらとしては、大帝国側の意向を全面的に汲んでいただくことを望みます」
「大帝国側の意向……?」
沈黙が落ちる。耳に残る言葉が、遅れて意味に届く。
「それって……入野間さんに負けろってことですか!」
凌の声が静寂を破る。集まる視線にも、凌は止まらない。
「そんな一方的な話、協議でも何でもないじゃないですか!こういうのって、本当はもっと——」
「何か、勘違いしていないか」
加熱する凌に、冷徹な声が刺さる。
言葉の先を止めたのは——東条だった。
「プロレスには、格ってものがある。団体にもレスラーにも、それぞれ積み上げてきた価値と信頼がある」
怜悧な瞳が、凌を立ち塞ぐ。
「大帝国のトップレスラーであるレイヴンが、オルトの顔とはいえ、弱小団体の選手に負ければ、どれだけの価値が壊れるかわかっているのか」
誇りが、凌の喉を突き刺す。訴えようとしていた言葉が、許されないまま胸に滞る。
「でも……それじゃあ入野間さんは……」
飲み込みきれず、わだかまりがこぼれる。
視線を落とす凌を一瞥した政宗は、言葉の先を奪う。
「東条。ウチの息子が出しゃばってすまねぇな」
緊張に張り詰めた場が、笑い混じりの声に砕かれる。
「まだ業界ってものを知らねぇ、駆け出しのブッカーなんだ。ここは俺の顔に免じて、許してやってくれねぇか」
「……いえ。こちらこそ、差し出がましいことを言いました。あとのことは、西さんと政宗さんにお任せします」
「おう」
控えた東条から、西へ。政宗の視線が、ゆっくりと流れる。
「西。勝敗もやり方もそっちに任せる。貴翔のこと、好きに使ってくれ」
「父さん!入野間さんの話も聞かないで——!」
「俺も別にいいけど」
あっさりと了承する貴翔に、またも凌の言葉は続かない。
「入野間さんまで……っ」
「レイヴンとやるの好きだし。それに、勝った負けたがどうだろうと、良い試合は出来るし」
てらいのない笑顔に、凌は自分で書いた一文をハッと思い出す。
『プロレスは、勝てなくても、負けないもの』
——勝つことだけが、本当の価値じゃない。
入野間さんはきっと、そう思っているんだ。
凌の瞳が揺れ、不服が色を失くす。西はそれを認め、了承を受け取る。
「ご理解いただき、ありがとうございます」
話がまとまり、細かい説明やサインが行われる。最後に西が書類を確認すると、東条とともに席を立つ。
「ありがとうございます。では入野間さん。三日後、よろしくお願いします」
「はい。東条さんも、当日よろしくです」
「ああ。コンディションは整えておけよ」
西と東条が、政宗に深く頭を下げる。その扱いに、元トップレスラーという肩書は飾りじゃないんだと実感する。
オルトを後にする二人を、全員で見送る。パタンとドアが閉まった途端、突然つん、と肩をつつかれる。
「凌、ありがと」
「……?何がですか」
貴翔がキュッと目を細め、顔を寄せてくる。
「さっき凌が、俺に負けてほしくないって言ったの、嬉しかった」
「…………は?」
そんなこと言っていない。
覚えのない話に、凌は心当たりを探す。だが貴翔は、マイペースに満面の笑みを浮かべる。
「さっき、俺の負け気にしてくれたじゃん。『負けろってことですか!』ってさ」
貴翔の人差し指がくるくると回る。凌の顔に、パッと血が昇る。
「違いますっ!いや、そういう意味でしたけど、俺の個人的な感情じゃなくて、オルトという団体の顔が負けるってことに反対したんです!」
「あれ、そうなの?凌が俺に勝ってほしいんじゃなくて?」
「だから違いますって!」
客がいなくなった途端、いつものオルトの風景に戻る。騒ぐ二人の横で、ロヴィーナと政宗が笑みをこぼす。
——三日後、大帝国のリングに、オルトのエースが上がる。
団体の垣根を超えての興行は一体、どんな影響をもたらすのか。
この時の凌はまだ、想像も出来ずにいた。




