第15試合 白い朝
翌朝。早朝の道場に一番乗りしたのは、珍しく貴翔だった。
「はよっすー」
中から音がしない。なのに鍵は開いている。いつもならロヴィーナが来てるはずなのにと、貴翔は首を捻る。
「泥棒……は、ないか。盗むもんないし」
ひとりごちて笑い、休憩所に顔を覗かせる。するとそこに広がっていた光景に、貴翔は目を丸くした。
「…………凌?」
ちゃぶ台に広がったノートと、何枚もの切れ端。その上に顔を伏せ、凌がぐっすりと眠っている。
服装は昨日のまま。テレビは点きっぱなしで、手にはペンが握られている。
——どう見ても、力尽きたって感じだな。
足を忍ばせ、そっと近づく。凌はすやすやと寝息を立てたまま、起きる気配はない。
視線が、寝顔の下の開かれたページに移る。その瞬間、思わず貴翔は息を飲んだ。
・ファンには方向性がある
①推しがいるファン→応援温度高め。積極的に声を出す人が多い。
推しの活躍が見たい=人によっては試合はそんなに?見せ場があればいい?
②昔からのプロレスファン→応援温度低〜中。決まったレスラーじゃなく、団体やプロレス自体を見てる?静かに見る人が多い気がする。
・初見はどこをどう見ていいのかわからない→ロヴィさんの言った「とにかく大きい」「とにかく技がすごい」が効く?わかりやすさ第一は初見に優しいかも。入口が大事。
・試合にストーリーがない時は、純粋にレスラーや試合を見る?→わかりやすい「凄い」がないと、見始めたばかりの人には伝わりにくいかも……
・投げ技、飛び技は音や見た目で凄さが伝わる→関節技は何をしているのか、どう痛いのかがわかりにくい。
「うわ、すごっ……」
隙間なく書かれていたのは、試合と観客の分析だった。
書き殴られた字に、迷いと勢いを感じる。なのにどこか整っているのが凌らしいと、貴翔は唇を緩ませる。
ノート周りには、クシャクシャの切れ端も散らばっている。貴翔はそのひとつを手に取り、シワを伸ばして開いてみる。
『プロレスとは?』
そう書かれた見出しの下は、ごちゃごちゃだった。打ち消し線が引かれた答えがいくつも連なり、苦悩の後が見える。
しかしその答えの中には、たったひとつだけ、消されずに残ったものがある。
『プロレスは、勝てなくても、負けないもの』
その一文を、貴翔は深く噛み締める。
「……いいこと言うなぁ」
切れ端を目の上に掲げる。差し込む朝の光に、白いノートがきらきらと透ける。
眩しさに、ほんの少しだけ目を細める。
まるで、宝物を見つけたかのように。
「あら、ノマちゃん。今日は早かったのね——って、凌ちゃん!?」
遅れてやってきたロヴィーナが、貴翔と同じように驚く。ちゃぶ台の上の惨状を目にするとすぐに状況を理解し、大きなため息つく。
「もう……ちゃんと帰りなさいって言ったのに。仕方ない子ね」
膝を折り、凌の寝顔を覗く。呆れたようでいて、その目も口調もどこか柔らかい。そんなロヴィーナに、貴翔はニヤリと唇の端を上げる。
「そんなこと言って、ロヴィ嬉しそうじゃん」
「そういうノマちゃんこそ、顔が緩々だけど?」
顔を見合わせ、クスッと笑い合う。
話題の主役は、笑われたことにも気づかず寝息を立てたまま。ロヴィーナが軽く揺すってみても、起きる気配はない。
「これはしばらく起きなさそうね。ノマちゃん、凌ちゃんを二階の仮眠室に運んでくれる?」
「いいけど、俺?」
「ええ。この様子だと絶対お腹空かせてるでしょ?アタシはご飯作っとくわ」
ポンと貴翔の肩を叩き、ロヴィーナは台所へと去っていく。貴翔は手に持ったままの切れ端を丁寧に折り、そっとポケットにしまいこむ。
しゃがみ込み、手を伸ばす。動かせばさすがに起きるかもと心配したが、その必要はなかった。
「うわ、軽っ」
持ち上げた重さにも、思わず声が出る。普段屈強なレスラーを持ち上げているだけに、凌の軽さは空気のようだとすら思う。
抱き上げ、二階に運んでベッドに横たえても、凌は全く起きる気配を見せない。軽く寝返りをうって、うーんと小さく唸っただけだった。
ブランケットをかけて戻ろうとして、貴翔は立ち止まる。くるりと振り返り、しゃがみ込んで顔を近づける。
こんなに近くで見るのは、初めて会った時以来だ。そう思いながら、貴翔はまじまじと寝顔を見つめる。
第一印象は変わらず、線は細い。起きている時はキリッとしてるのに、寝顔はどこかあどけない。
朝の光に照らされた頬は、触れて確かめたくなるほど柔らかそうだと思う。
「……可愛い寝顔しちゃって」
和んだ声がもれる。同時に、今のセリフを聞かれていたら、凌は怒っただろうなと思う。
『子どもじゃないんですから、可愛いはやめてください』
キッパリと跳ね除けられたことを思い出し、唇が緩む。いつもはツンツンしてるのになぁと、ギャップに頬も緩む。
気がつけば、貴翔はずっと凌を眺めていた。
くるくる変わる表情が可愛いと思った。
プロレスが嫌いだと言っていたのに、今では真剣にプロレスのことを考えているのが面白いと思った。
そして、何より。
『プロレスは、勝てなくても、負けないもの』
そんな風に、プロレスの楽しさを見つけて言葉にしてくれたことが、嬉しくて仕方なかった。
レスラーとして。
入野間貴翔という、一人のプロレスバカとして。
プロレスの表面だけじゃなく、もっと深い場所に触れてくれた喜びが、感謝へと変わっていく。
「……ありがとう、凌」
呟きは届かない。けれどいつか、ちゃんと伝えようと思った。
好きになってくれて、ありがとう。
そう伝えたら、どんな顔をするだろう。
『紛らわしい言い方はやめてください!』
怒る顔が浮かんで、思わず笑って。
貴翔はそのまま、飽きることなく、凌の寝顔を見つめ続けていた。




