第13試合 予測不能の熱
試合当日。オルトの四月興行は、地域の貸しホールを舞台に、客入り四割で開催を迎えた。
観衆八十一人。前列は大勢の貴翔ファンが占め、その後方には往年のファンや一見と思われる客が、ちらほらと席を埋めている。
開始時間になり、微かに照明が落ちる。レフェリー兼リングアナの開会宣言と共に、第一試合が始まる。
まずはエランテVS匠。試合内容は匠に合わせたものだが、この日は動きに目を見張るものがあった。
エランテもそれを認め、一段ギアを上げる。
匠相手に初めてパワーボムを繰り出し、そのままテキサスクローバーを完成させると、匠への声援が飛ぶ。
しかし、タップアウトでエランテの勝利。勝ちは付かなかったが、それでも大きな一歩だった。
第二試合、ロヴィーナVSトム。序盤からレフェリーの目を盗み、ロヴィーナが反則行為を繰り返す。
受けるブーイングに、ロヴィーナが投げキッスを返す。反撃を受けながらも、最後はトムの巨体を持ち上げ、フィニッシュ技であるフィアンマダモーレを決める。
勝者・ロヴィーナ。不満に騒つく客席に手を振り、女王は優雅に去っていく。
凌は空いた客席に座り、試合を見守っていた。ここまで反応は悪くない。むしろ、客数の割にあたたまっている。
これから、初めて手がけたメインがやってくる。
バクバクする心臓が、口から飛び出そうだった。けれど頭の中は、大歓声を信じて疑わなかった。
修司の活躍と勝利に、きっと会場は爆発する。
そんな予感にウズウズしていると、貴翔のテーマが流れた。
ギュインと、高らかなイントロに客が沸く。ギターリフと共に疾走する貴翔。客席とハイタッチを交わし、トップロープを越えてリングインすると、女性たちの声が一際大きくなる。
対して、修司の入場も始まる。テーマ曲は貴翔と同じギターサウンド。けれどテンポは控えめで、メロディラインはどこか古い。修司の飾らない人柄通りだが、貴翔の後だと、それが味気なくも感じる。
「赤コーナー、179センチ86キロ、高橋〜!修司〜!!」
リングコールにも、特別なアピールはない。バンテージを確かめる仕草だけをして、静かに貴翔と向かい合う。
一瞬の静寂。ゴングが鳴り、試合が始まる。
間合いを計り、まずは手四つ。定番のロックアップからの立ち上がりは、凌のシナリオ通りでもある。
いつもなら、ここから修司の関節技が押すパターンが多い。けれどこの日は、貴翔が早くも押し始めた。
組み合いを切り上げ、すぐに打撃に入る。得意の掌底と蹴りが入り、修司が派手にマットへ沈む。
スピーディーな展開に、凌は拳を握っていた。しかし貴翔への声援は上がったものの、まだ客の反応は鈍い。
いつもと違う流れに、まだついてきていないのかもしれない。周囲に目を配りながら、凌はそう思い込む。
しかし中盤に差し掛かり、修司の優勢が始まると、会場の空気は明らかに変わり始めた。
貴翔の足を取り、アンクルホールドを仕掛ける。マットに這った貴翔はなんとか外そうとするが、修司はそこからレッグホールドへと移る。
アキレス腱固め、四の字固め。地に縛り付けられた貴翔は、何度もロープに触れて逃れる。
そんな貴翔の劣勢に、明らかに客席の熱が静まり出した。
絡みつく修司を無理やり投げ、倒れたところにその場飛びムーンサルトが入る。一瞬の反撃に歓声が上がったが、続く打ち合いもやがて修司が押し始め、また声は引いていく。
そこでようやく、凌は焦り始めた。
盛り上がっていない。そう気づいた時、握っていた汗が氷のように冷たくなった。
鼓動が嫌な音に変わる。リングの上は終盤に差し掛かっているのに、ボルテージは上がることなく平坦なままだ。
このままだと、盛り上がらないまま終わってしまう。
想定外の状況に取り乱し、客席を見回す。往年のファンはまだいい。修司の攻め手を、物珍しそうに見ている。けれど前列を埋める女性たちは、明らかに顔が曇っている。
その様子に、凌は気づく。
客の大半——要である貴翔ファンは、貴翔の活躍を求めているのだと。
しかし、気づいてももう遅い。始まってしまった試合を、途中で書き換えることはできない。
視線を落とし、奥歯を噛む。自分の熱さは客の熱さではないのだと思い知らされ、考えの浅さに失望する。
あの時何かを言いかけた修司は、きっとこうなることを知っていた。いや、ロヴィーナも貴翔も、わかっていたに違いない。
——全ては、この結果を見せつけるためだったんだ。
ガックリと項垂れ、組んだ手を額に当てる。深く考えもせず、出来る気になっていた自分に恥ずかしさと嫌気がさす。
歓声は上がらないまま、修司の決め技である変形ヒールホールド、ファイナライズが決まる。
このまま貴翔は逃れられず、タップアウトになる。
——はずだった。
「…………え?」
きつく捻りあげられた貴翔が、ずり、ずりとマットを這う。苦悶の表情を浮かべ、それでもなんとか逃れようと、必死に手を伸ばす。
「貴翔ー!」
「頑張ってー!!」
瞬間、声援が飛び始めた。ひとつ、ふたつと増える声に、客席のざわめきが膨らんでいく。
「……くっ!!」
逃がさないようにと、修司がかかとをさらに捻りあげる。しかしその前に、伸ばした貴翔の指先がロープに触れる。
「ブレイク!」
レフェリーの判定に、両者が引き離される。二人は息を切らしあい、よろめきつつも仕切り直す。
——違う。こんな予定じゃない。
想定外の流れに目を見張り、思わず膝の上で拳を握る。
ここから先、一体何が起きるのか。
緊張が張り詰め、リングから目が離せなくなる。
そこでふと、凌は気がついた。
リングを挟んだ向こう。
客席の前列の顔が、同じように真剣な目をしていることに。
——気がつけば、周囲の空気は変わっていた。辛くも逃れた貴翔に、反撃を期待する声援が高まる。
「行けーー!!」
「勝ってーー!!貴翔ーー!!」
この日一番の歓声を浴び、貴翔はわずかに天井を仰ぐ。
白色の蛍光灯に、流れる汗が光る。それを手の甲で拭い、貴翔は表情を引き締めていく。
レフェリーの手が振り下ろされる。
瞬間、二人は再び衝突する。
丁寧さのない、荒い掴み合い。取るか取られるか。その迫真の攻防に、選手と客の熱がひとつになっていく。
次、取られた方が負ける——そう予感した瞬間、膝を打ち込まれた修司が崩れた。
鳩尾を抑え、後ずさる。そこで修司は一転、背走してロープに身を弾ませた。
反動を利用し、加速する。
決着をつけにいったのだとわかる速さに、しかし貴翔も迎え撃つ。
ダンッ!
踏み切る音が響く。くすんだ青いマットが跳ね、貴翔の身体が宙に舞う。
修司の頭さえ越えそうなほど、高く、高く。
——メテオライトだ。
異様な対空時間の長さ。捻る回転の鋭さ。
練習とは桁違いの精度に、首を挟まれた修司が跳ね飛ぶ。
バァン!!
刹那。瞬きすら出来ぬ間に、修司がマットに突き刺さる。
貴翔は首を挟んだまま体重をかけ、修司の脚を上げてフォールに入る。
「ワン!」
レフェリーのカウントが始まる。
貴翔が片手を上げ、指で数える。
「ツー!」
返せない。
修司の脚がもがく。貴翔の指が、ふたつに増える。
「スリー!!」
カンカンカンカンカン!
三本指と同時に、勝利のゴングが鳴り響く。
瞬間、歓声が沸く。貴翔は立ち上がり、汗で張りつく髪を振るい、勝利の拳を高く上げる。
「十七分三十秒!メテオライトにより、勝者!入野間ァー貴翔ーー!!」
黄色い歓声と拍手が巻き起こる。張り詰めた貴翔の表情が緩み、柔らかな笑みで客席に手を振る。
凌は、その結末を唖然と見つめていた。
勝敗も、終盤の流れも違う。けれど客席の盛り上がりぶりに、これは貴翔と修司のアドリブだったのだと知る。
『一流のレスラーほど、お客さんの反応を見ながらその場で組み立てを変えるの』
ロヴィーナの言葉を思い出す。
——変えられた組み立てに救われた。いや、入野間さんと修司さんが、救ってくれた。
凌が立ち上がる。リングの上の貴翔が視線を向ける。
そして、笑う。とびきりの笑顔で。
「……っ!!」
退場していく二人を追い、凌は控え室に走った。飛び込んだバックヤードには、試合を終えたばかりの貴翔と修司、そしてロヴィーナが待っていた。
「入野間さんッ!あの、さっきの——!」
「ごめんっっっ!!」
両手をパン!と合わせて頭を下げ、貴翔が先を奪い取る。
「凌の初めてのブック、つい破っちゃった。勝手に身体が動いてさ」
「怒ってる?」と上目で窺う貴翔に、凌の口がぽかんと開く。
「……どうして、入野間さんが謝るんですか」
「え?だって俺が負けなきゃいけないのに、勝っちゃったし」
「いや、それはそうですけど、でも今回の件は俺が——」
「凌くん」
解けかけたバンテージで汗を拭い、修司が口を挟む。
「すまない。せっかく君が俺の勝ちを考えてくれたのに、客を納得させられるだけの結果が出せなかった」
「っ……!やめてください!そんな、二人して謝らないでください!」
大声が困惑に響く。シャツの裾を握りしめ、凌は行き場のない視線を床に落とす。
「悪いのは、お客さんの気持ちを考えないで作った俺で——」
「はいはい。そこまで」
ボンテージ風のコスチュームを纏った悪の女王——ロヴィーナが、一歩前に出る。
「言ったでしょ、凌ちゃん。リングの上はレスラーのもの。試合は共同作業だって」
長い前髪をかきあげる。メイクの残る艶めいた唇が、妖艶に弧を描く。
「自分だけが悪いなんて言わなくていいの。凌ちゃんは、凌ちゃんなりに考えてブックを書いた。それを守らなかったレスラーがいた。結果、ちゃんと盛り上がった。それだけよ」
凌はもう、それ以上何も言えなかった。
ロヴィーナも、貴翔も、修司も、穏やかに笑っている。言葉に、表情に、苦いまま終わるはずだった心が救われる。
凌が顔を上げる。喉に詰まった謝罪を飲み込み、自責を腹で消化し、新たな気持ちに書き換える。
今度はもっと、上手くやりたい。
お客さんを、もっと夢中にさせたい。
あのリングの上で——この人たちを、もっと輝かせたい。
指先まで届く決意を、ギュッと握りしめる。
強く見据えるその瞳は、誰よりも深く、静かに燃えていた。




