第7話 人生は楽しんだ者の勝ち
その日の深夜――。
宿の喧騒は、とうに消えていた。
廊下を軋ませていた足音も、酒場から漏れていた笑い声も、今はもうない。
すべてが、夜の底へ沈んでいる。
淡い月明かりが差し込む馬小屋の中で、ひとつだけ影が動いていた。
シャルクスだ。
藁の匂いが立ちこめる狭い通路を、彼は足音を殺して進む。
柱の陰。
窓の外。
扉の隙間。
視線を巡らせ、誰もいないことを何度も確かめる。
やがて、彼は一頭の馬の前で足を止めた。
幌馬車を引いてきた馬だ。
シャルクス:「……疲れているだろうが、また頼むぞ」
荒れた掌で首筋を撫でる。
馬は小さく鼻を鳴らし、わずかに頭を寄せてきた。
シャルクスは手綱を取り、蹄の音が響かないよう、ゆっくりと馬を歩かせる。
馬小屋の脇に停めてある幌馬車まで来ると、手早く、しかし確実に馬具を繋いでいった。
革紐を締める。
金具を留める。
最後に、車輪の脇へ目を走らせる。
問題はない。
これで行ける。
シャルクスは深く息を吸い込み――
御者台へ飛び乗った。
その瞬間。
カミーア:「シャル」
シャルクス:「っ……!?」
背中が強張った。
握りかけた手綱が、指の間でぎしりと鳴る。
柱の影。
そこに、カミーアが立っていた。
腕を組み、じっとこちらを見ている。
月明かりを受けた瞳は、まっすぐだった。
カミーア:「あたいも行くって言ったじゃないか」
一歩。
また一歩。
迷いのない足取りで、御者台へ近づいてくる。
シャルクス:「ダメだ」
シャルクスは御者台の上で立ち上がり、彼女の前に立ちはだかった。
カミーア:「……やっぱり、あたいを置いていくつもりなんだな」
そこで、一度だけ声が沈む。
カミーア:「親父みたいに」
その言葉が、馬小屋の冷えた空気を切った。
シャルクス:「違う」
すぐに首を振る。
シャルクス:「これは俺の因縁だ。君を巻き込みたくない」
静まり返った馬小屋に、張り詰めた沈黙が落ちた。
カミーアは一歩も引かない。
シャルクスも退かない。
二人の視線が、月明かりの中でぶつかる。
そのときだった。
ワッツ:「抜け駆けは、こいつの得意技だったろうがよぉ。カミーア」
場違いなほど気の抜けた声が、荷台の奥から響いた。
ガタン、と幌が揺れる。
次の瞬間、ひらりと荷台から飛び降りた影が、月光の下に姿を現した。
シャルクス:「ワッツ……」
ワッツはにやりと口の端を吊り上げる。
そして、背負っていた剣闘士の剣をすらりと抜き放った。
冷たい刃が、シャルクスの喉元へ突きつけられる。
ワッツ:「一人で格好つけるのは感心しねぇな。シャルクス」
馬小屋の空気が、一瞬で凍りついた。
カミーア:「ワッツ……!」
名を呼ぶと同時に、カミーアは腰の剣を抜いた。
銀の刃が月光を弾く。
そのまま御者台へ跳び乗ろうと、足を掛けた――
ワッツ:「おりゃあ!」
風を裂く一閃。
剣闘士の剣が横薙ぎに振るわれ、カミーアの身体を弾き飛ばした。
カミーア:「ぐっ……!」
藁の上に叩きつけられ、息が詰まる。
それでも、彼女はすぐに地面へ手をつき、跳ね起きた。
剣を構え直し、鋭い眼差しでワッツを睨み据える。
ワッツ:「悪ぃな、カミーア」
軽く肩をすくめる。
けれど、その剣先は少しも揺れない。
ワッツ:「ご招待できるのはこいつだけだ。お前は後から来な」
シャルクス:「ご招待……?」
シャルクスの眉が寄る。
ワッツ:「ガスパーに会わせてやるって言ってんだよ」
舌打ち混じりに、ワッツは剣をさらに近づけた。
刃の冷たさが、喉元に触れる。
シャルクス:「なぜ、お前が……」
ワッツ:「ガタガタうるせぇな」
にやりと笑う。
ワッツ:「その方が面白ぇからだ。四の五の言ってねぇで、さっさと手綱を握れ」
シャルクスは奥歯を噛み締めた。
逆らえば、首が飛ぶ。
それくらいは、分かる。
ゆっくりと御者台へ座り直し、手綱に指をかけた。
そのとき。
レックス:「どういうつもりだ、ワッツ」
低く、よく通る声が、闇を切り裂いた。
物陰から現れたのは、レックスだった。
彼は幌馬車の前へ歩み出ると、進路を塞ぐように立ちはだかる。
その目は、ワッツから一瞬たりとも逸れない。
ワッツ:「人生なんてもんはな、楽しんだもん勝ちなんだよ。アーポット」
わざとらしく肩をすくめ、ワッツは笑った。
レックス:「……あくまでも、勝つことにこだわるってわけか」
レックスの口元が、わずかに動く。
ワッツ:「そうだよ」
即答だった。
言い終えるや否や、ワッツは剣闘士の剣をぐいっと押しつける。
ワッツ:「行け」
シャルクス:「しかし……」
ワッツ:「首を失いたくなけりゃ、行け」
刃が、薄く皮膚を噛んだ。
――くそっ。
シャルクスは歯を食いしばり、手綱を強く引いた。
ヒヒンッ!
馬が嘶く。
次の瞬間、幌馬車は勢いよく走り出した。
カミーア:「レックスさん!」
叫びが夜を裂く。
だが、レックスは動かない。
迫る馬車を、ぎりぎりまで引きつける。
そして――
ひらり、と横へ跳んだ。
疾走する幌馬車が、風を巻き起こしながら脇をすり抜ける。
車輪が石畳を蹴る。
土煙が舞い上がる。
街道へ出た幌馬車は、そのまま闇の向こう――街の出口へと消えていった。
あとに残ったのは、揺れる藁と、遠ざかる車輪の音だけだった。
カミーア:「……」
カミーアは唇を噛みしめる。
握った剣の柄が、小さく軋んだ。
その背後から、足音が近づいてくる。
振り返れば、クリス、リーア、セドウィックがいた。
三人は物陰から現れ、黙ってカミーアのそばへ歩み寄る。
カミーア:「……シャル」
遠ざかっていく馬車の影を、カミーアは見つめ続けた。
レックス:「大丈夫だよ」
土埃を払いながら、レックスが静かに近づいてくる。
レックス:「あの様子なら、ワッツはすぐにシャル君を殺したりはしない」
淡々とした声だった。
けれど、その視線は幌馬車が消えた街道の闇へ向けられたままだ。
カミーア:「……だといいけど」
剣の切っ先が、わずかに下がる。
それでも、カミーアの目は街道から離れなかった。
レックス:「君たちに掛けられた因縁は――俺たちが横から断ち切ってやれるものじゃない」
静かな声が、夜に落ちる。
レックス:「自分たちでケリをつけるしかない」
一拍。
レックス:「あの二人は、そのつもりで動いている」
カミーア:「……」
返事はない。
ただ、握られた拳だけが強くなっていく。
レックスは、ゆっくりと彼女へ振り返った。
レックス:「君もそうだろ」
その一言に、カミーアの顔が上がる。
夜風が、乱れた髪を揺らした。
カミーア:「……とっくにできているさ」
強い声だった。
レックスの口元が、かすかに上がる。
レックス:「ならば――これを君に預けよう」
レックスは腰に差していた魔剣を、鞘に収めたまま抜き放った。
重厚な意匠が施された一振り。
月光を受けた鞘が、鈍く光る。
それを、カミーアへ差し出した。
カミーア:「これは……魔剣」
両手で受け取り、まじまじと見つめる。
柄から、微かな鼓動のような震えが伝わってきた。
レックス:「“レディの剣”だ」
レックスは、まっすぐに言い切った。
レックス:「これで君は負けん」
しん……。
なんとも言えない沈黙が流れた。
クリスが微妙な顔をする。
リーアが、そっと視線を逸らす。
セドウィックが、気まずそうに咳払いをした。
レックス:「……き、君に力を貸してくれるはずだ」
レックスはわずかに顔を引きつらせながら、取り繕うように続ける。
レックス:「そうだろ、トレント」
すると――
トレント:「おうよ」
カミーア:「うわっ!? なんだ!?」
手にした“レディの剣”が、ぶるりと震えた。
声は、耳元ではない。
頭の奥へ、直接響いてきた。
カミーア:(剣が……喋ったのか!?)
目を見開く。
だが、それも一瞬だった。
カミーアはすぐに表情を引き締め、剣を握り直す。
レックス:「これから、すべてのケリをつけに行く」
レックスの声が、馬小屋の闇を払うように響いた。
レックス:「行くぞ、みんな」
カミーア・クリス・リーア・セドウィック:「おー!」
次の瞬間、五つの影が一斉に馬小屋へ飛び込んだ。
それぞれが馬に跨り、手綱を握る。
蹄が地面を蹴った。
土煙が舞い、夜の空気が裂ける。
彼らは馬車の消えた街道へ向かい、闇に沈む街の出口へと駆け出していった。




