第11話 殺伐とした食卓
薄暗い大広間に、燭台の炎だけが揺れていた。
石造りの壁に伸びる影が、ゆらゆらと踊る。
その中央。
長い食卓の端に、銀髪の老婦人が一人、静かに座っていた。
カチャリ。
ナイフとフォークが触れ合う、かすかな金属音。
広すぎる部屋に響くのは、それだけだった。
皿の上の肉を、老婦人は丁寧に切り分けていく。
ひと切れ、またひと切れ。
その所作は優雅だった。
だが、どこか奇妙だった。
食事を楽しんでいるというより、決められた手順を淡々となぞっているだけのように見える。
そこへ――。
ワッツ:「メディルは……まだ戻ってきてねぇようだな」
低い声が、闇の奥から響いた。
ずん。
重たい足音が床を踏む。
ずん、ずん、と音を響かせながら姿を現したのは、ワッツだった。
蝋燭の明かりに照らされ、無骨な顔が闇の中から浮かび上がる。
老婦人は、ちらりともそちらを見ない。
ただ、皿の肉を切り、口へ運ぶ。
それだけだった。
ワッツ:「まだ、くたばっちゃいねぇようだがな」
冷めた声で言いながら、ワッツは近くの椅子を引いた。
ギィ、と脚が床を擦る。
そのまま、どかりと腰を下ろした。
次の瞬間。
銀髪の老婦人:「……ここには来るなと申したはずですよ、ワッツ」
ぴたり。
ナイフの動きが止まった。
老婦人の瞳が、ゆっくりと持ち上がる。
氷のように冷たい視線が、まっすぐワッツを射抜いた。
ワッツ:「そうかい。悪かったな」
だが、ワッツは少しも動じない。
肩をすくめ、目を閉じて、わざとらしくすました顔をする。
ワッツ:「だがな――黄金は、アーポットの手の内にあるみてぇだぞ」
ぴくり。
老婦人の眉が、わずかに動いた。
銀髪の老婦人:「……それは、本当なの」
声は低く抑えられていた。
けれど、その奥に確かな揺らぎがあった。
クリストファー:「本当さ」
闇の向こうから、別の声がした。
ワッツの目が、鋭く細まる。
次の瞬間。
灯りの届かない影の中から、霧がほどけるように一人の男が姿を現した。
クリストファーだった。
ワッツ:「……テメェ」
唸るような声。
ワッツは椅子を蹴って立ち上がった。
背に負っていた剣闘士の剣――分厚い鉄の刃が、重たい音を立てて抜き放たれる。
だが、老婦人は微動だにしなかった。
まるで、その場で剣が抜かれたことなど関係ないとでも言うように、再びナイフとフォークを動かし始める。
カチャリ。
金属音だけが、静かに響いた。
クリストファー:「……なるほどな。なかなか姿を見せねぇと思ったら、そういうカラクリだったか」
顎をさすりながら、クリストファーは老婦人を見やった。
その目には、敵意よりも興味の色が強い。
ワッツ:「るっあぁッ!!」
怒号が炸裂した。
ワッツの剣闘士の剣が、唸りを上げて振り抜かれる。
ブオォォンッ!!
分厚い刃が空気を引き裂き、重い風圧が食卓の上を叩いた。
だが――。
クリストファーの身体が、蜃気楼のように揺らいだ。
刃は、その胴を捉えることなく、虚空を斬る。
ワッツ:「なにっ!?」
ワッツの目が見開かれた。
額に、じわりと脂汗が浮かぶ。
一歩。
さらに一歩。
後ずさる足音が、妙に大きく広間に響いた。
クリストファー:「残念。――オメェは俺に触れられねぇ」
クリストファーは、軽く片手を掲げた。
次の瞬間。
その掌から放たれた衝撃が、目に見えるほどの風圧となってワッツへ襲いかかる。
ワッツ:「ぐっ……!」
ワッツは剣を盾のように構え、必死に踏ん張った。
床板が軋む。
埃が舞い上がる。
クリストファー:「だが――俺は触れられるんだぜ」
そう言って、クリストファーは視線を横へ流した。
喧騒の中心にいながら、ただ一人、何事もなかったかのように食事を続けている老婦人へ。
クリストファー:「お食事中のところ、失礼いたします――マダム」
胸に手を当て、芝居がかったほど丁寧に頭を下げる。
老婦人は、やはり見向きもしなかった。
ナイフが肉を切る。
フォークがそれを持ち上げる。
カチャ、カチャ。
一定のリズムだけが、食卓の上で刻まれていた。
クリストファー:「今日は、直接交渉に参りました」
老婦人の手は止まらない。
けれど――。
カチャリ。
ほんのわずか、金属音の調子が変わった。
クリストファー:「僭越ながら、マダムには少々つまらぬ案件かと。ラッズ卿と代わっていただけないでしょうか」
深く一礼したまま、クリストファーは視線だけを持ち上げる。
その瞬間。
ガスパー:「いいぞ。……何の用だ、クリストファー・アーポット」
老婦人の口から出た声が、がらりと変わった。
先ほどまでの上品で冷えた響きは、跡形もない。
粗野で、下卑ていて、どこか人を見下したような声。
空気が、別物になった。
優雅だった所作も消える。
老婦人の身体は荒々しく椅子に身を乗り出し、テーブルに肘をついた。
そして大口を開け、肉を歯で噛み切る。
ただし――。
その冷たく鋭い視線だけは変わらない。
真正面から、クリストファーを射抜いていた。
クリストファー:「黄金の――取引ですよ」
クリストファーはゆっくりと頭を上げた。
口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。
ガスパー:「黄金?」
ガスパーはワイングラスを軽く傾け、横目でクリストファーを見る。
クリストファー:「バルデン・ローガス様より、お預かりしている黄金です」
静かな声だった。
冷たく、澄み切っている。
その一言に、ワッツが思わず息を呑んだ。
ガスパー:「……それで?」
ガスパーはグラスを卓上に置いた。
コトン。
乾いた音が、広間の奥まで届く。
クリストファー:「近いうちに、正当な受取人のもとへ渡ることになるでしょう」
ガシャンッ!!
拳が食卓を叩いた。
ワイングラスが跳ね、赤い液体が揺れる。
銀髪の老婦人:「私が――正式な相続人です!」
叫びは、老婦人の声だった。
だがそこには、先ほどまでの品位など一片も残っていない。
顔に浮かんでいるのは、剥き出しの憎悪。
その迫力に、ワッツでさえ思わず一歩引いた。
クリストファーは静かに目を閉じる。
そして、小さく首を横に振った。
クリストファー:「いいえ。正規の遺言書にも明記されています」
ゆっくりと、言葉を置く。
クリストファー:「黄金は――アルジェリカ様のご子孫のものです」
沈黙が落ちた。
燭台の炎が揺れ、壁に映る影が細く伸びる。
ガスパーの瞳は、氷のように冷たい。
それを受け止めるクリストファーの微笑は、少しも揺らがない。
二つの視線が、食卓越しにぶつかり合う。
だが、その緊張は長く続かなかった。
ふいに、ガスパーが視線を逸らす。
そして、深いため息をついた。
ガスパー:「おいおい。儂と交渉したかったんじゃなかったのか? クリストファー・アーポット」
何事もなかったように、再び肉を切る。
それを一口で頬張り、にやりと笑った。
ガスパー:「小僧には商いはちと難しかったかな。ガハハハッ!」
下卑た笑い声が、大広間に響き渡る。
老婦人の姿をしたまま、そこにいるのはもう完全にガスパーだった。
クリストファー:「勉強にさせてもらってますよ。ガスパー・ラッズ」
こめかみに青筋を浮かべながらも、クリストファーは恭しく頭を下げる。
その横で。
ワッツ:「ふわぁぁあ……」
ワッツは興味なさそうに大きく伸びをした。
そして、退屈げにあくびを噛み殺す。
命がけの交渉が始まろうとしている広間で。
彼だけが、心底どうでもよさそうな顔をしていた。




