第7話 回想:燃える屋敷を後にして
カツ、カツ、カツ――。
夜の帳が降りた屋敷の廊下に、乾いた足音だけが響いていた。
歩いているのは、シャルクスただ一人。
広い屋敷の中に、人の気配はない。
つい先ほどまで誰かがいたはずの場所は、まるで屋敷ごと眠りについたかのように
静まり返っている。
開け放たれた窓から、冷たい夜風が流れ込む。
廊下に並ぶ燭台の火が、かすかに揺れた。
ゆらり、ゆらり――。
頼りない炎が、これから起こる何かを告げるように、暗い廊下を淡く照らしている。
やがてシャルクスは、一つの扉の前で足を止めた。
ノックはしない。
扉を一瞬だけ見つめると、迷いなく取っ手に手をかける。
そして――静かに押し開けた。
部屋の中もまた、廊下と同じように静まり返っていた。
窓から吹き込む風にカーテンが揺れ、差し込む月明かりが室内を青白く照らしてい
る。
その光の中に、一人の男が立っていた。
ドナルドだった。
窓辺に立ったまま、外の闇を見つめている。
シャルクスが入ってきても、振り返ろうとはしなかった。
ドナルド:「……皆は、もう行ったのか」
低く、落ち着いた声が部屋に響く。
シャルクス:「……ああ。もう全員出ていった。誰も残ってないよ」
入口に立ったまま、シャルクスは短く答えた。
その言葉のあと、しばらく沈黙が落ちる。
やがて――ドナルドがゆっくりと振り返った。
月光に照らされたその顔には、深い疲れが刻まれていた。
それでも、瞳だけは揺らいでいない。
ドナルド:「そうか。なら、お前ももう行きなさい」
穏やかな声だった。
だが、シャルクスは動かなかった。
一歩も。
ドナルド:「どうした?」
問いかける声は静かだった。
窓の外では、夜風が木々を揺らしている。
葉擦れの音だけが、やけに大きく聞こえた。
シャルクスは兄を見つめたまま、唇を噛む。
そして、ようやく声を絞り出した。
シャルクス:「……ほんとに、ここまでやらなきゃいけないのかよ」
使用人たちは、すでに全員解雇された。
この広い屋敷に残るのは、ドナルドただ一人。
それが何を意味するのか。
わからないほど、シャルクスは子どもではなかった。
ドナルドは弟を見据えた。
ドナルド:「言ったはずだ。これくらいやらねば、奴の目は誤魔化せん」
その一言で、シャルクスの脳裏に一人の男の名が浮かぶ。
――ガスパー・ラッズ。
ラスパル家を破滅へと追い込んだ貴族。
ガスパーはファーミストの交易圏を狙い、巧妙に手を回してきた。
領主として抗い続けたドナルドだったが、資金源を断たれ、味方を削られ、逃げ道
を塞がれ――。
ついに、破産へと追い込まれた。
シャルクス:「……ガスパーめ……!」
拳が、ぎり、と鳴る。
顔を伏せたシャルクスの肩が、かすかに震えていた。
そんな弟を見つめながら、ドナルドは静かに口を開いた。
ドナルド:「復讐など果たしたところで、虚しさしか残らんぞ」
落ち着いた声だった。
けれど、その言葉は軽くなかった。
シャルクス:「だけど、兄さん……!」
思わず声が荒くなる。
だが、ドナルドは首を横に振った。
ドナルド:「怒りは胸にしまっておけ」
そして、まっすぐに弟を見据える。
ドナルド:「それよりも……お前には、先にやるべきことがあるはずだ」
その言葉に、シャルクスは息を呑んだ。
返す言葉が見つからない。
握りしめていた拳から、少しずつ力が抜けていく。
やがて彼は視線を落とし、ただ黙って肩を落とした。
シャルクス:「……それなんだけどさ、兄さん」
部屋を出かけた足が、ふと止まる。
シャルクスは振り返らないまま、低く問いかけた。
シャルクス:「本当に残ってるのかよ。バルデンの黄金が」
疑い。
そして、捨てきれない希望。
その二つが混じった声だった。
ドナルドはわずかに眉をひそめると、困ったように苦笑した。
ドナルド:「そう言われると……私も正直、半信半疑なんだがな」
シャルクス:「今さらなんだよ、それ……」
思わず、シャルクスの口元にも笑みが浮かんだ。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけほどける。
だが――それも一瞬だった。
ドナルドの表情から笑みが消える。
月光に照らされた横顔に、静かな厳しさが戻っていた。
ドナルド:「だがな。父さんは、バルデンから譲り受けた黄金のおかげで今の地位を築いた」
その声は、穏やかだった。
けれど、揺らぎはない。
ドナルド:「その父さんが、私に教えてくれたんだ」
ドナルドはまっすぐにシャルクスを見る。
ドナルド:「だから――黄金は必ずある」
迷いのない言葉だった。
その一言に、シャルクスの背筋が自然と伸びる。
ドナルド:「必ず黄金を見つけ出せ。そして、ラスパル家を復興させてくれ」
一拍置いて。
ドナルドは静かに告げた。
ドナルド:「頼んだぞ、シャルクス」
シャルクス:「……わかったよ」
短い返事だった。
だが、その声にはもう迷いはなかった。
兄の覚悟を受け取った。
ならば、自分も進むしかない。
重い沈黙が、二人の間に落ちる。
言葉にすれば、きっと崩れてしまうものがある。
だから二人は、何も言わなかった。
やがて――
ドナルドが静かに口を開いた。
ドナルド:「お別れだ」
その一言が、夜の静けさを断ち切った。
シャルクスは目を伏せる。
わずかに口元を歪め、それでも顔は上げなかった。
シャルクス:「ああ」
そして、背を向ける。
シャルクス:「さよならは言わないけどな」
それだけを残し、シャルクスは部屋を出た。
振り返らない。
振り返ってしまえば、足が止まる。
そうわかっていたからだ。
ドナルドは、その背中を黙って見送った。
扉が閉まる。
部屋に残されたのは、月明かりと、夜風に揺れるカーテンだけ。
ドナルドはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
深く、長い息を吐く。
ドナルド:「……無事に戻って来い、シャルクス」
ぽつりと落とされた声は、もう弟には届かない。
屋敷の廊下は、時間が止まったかのように静まり返っていた。
カツ、カツ、カツ――。
夜の闇の中に響くのは、シャルクスの足音だけ。
玄関を抜ける。
門を越える。
屋敷から続く一本道へと、シャルクスは歩き出した。
誰もいない屋敷。
誰も残っていない家。
その背後で――
突如、赤い光が弾けた。
ドナルドの部屋のあたりから、火の手が上がる。
炎は瞬く間に広がり、屋敷の壁を舐め、窓を割り、夜空へと立ち昇っていく。
赤い光が、闇を染めた。
それでも――
シャルクスは振り返らなかった。
足を止めない。
顔も上げたまま。
その瞳が見据えているのは、ただ前だけだった。
シャルクス:(……必ず戻ってくるから、兄さん)
胸の奥で、静かに誓う。
シャルクスは歩き続けた。
燃え盛る屋敷の光を背に受けながら。
その炎は、まるでラスパル家の終わりを告げる弔いの火のように――
闇の中へ進む弟の背中を、いつまでも照らし続けていた。




