第3話 貴族ってのも大変
シャルクスを取り逃がしたリーアは、アーポット亭へ戻るなり支配人のクリスに報告していた。
クリス:「それで――逃げられちゃったんですか?」
カウンターの奥。
クリスは宿泊者名簿に視線を落としたまま、淡々とリーアの話を聞いている。
リーア:「ああ。もう少しだったんだけどな……結局、逃げられたよ」
リーアは鏡の前に立ち、両手で頬をぐにぐにと揉みながら答えた。
その様子は、不審者を取り逃がした悔しさというより――
どちらかと言えば、顔の筋肉の不調に悩まされている人間のそれだった。
クリス:「闇魔法使いに、人を操る魔女……ですか」
クリスは名簿のページをめくりながら、少しだけ考えるように呟く。
クリス:「確かに、それは怪しいですねぇ」
そこでふと、視界の端に奇妙な光景が映った。
鏡の前で、リーアが延々と頬を揉み続けている。
クリス:「……何を、なさっているんですか?」
怪訝そうに顔を上げて問いかけると、リーアは手を止めないまま答えた。
リーア:「作り笑顔をしすぎてさ。顔の筋肉がおかしくなっちゃったんだよ」
その言葉に――
クリス:「ふふっ」
クリスは小さく吹き出した。
クリス:「ご無理なさらないでくださいね」
そう言って、クリスは自分の口角をきゅっと持ち上げる。
にっこり。
まるでお手本のような、完璧な営業スマイルだった。
そして次の瞬間には、何事もなかったかのように視線を宿泊者名簿へと戻していた。
リーア:「どーせ偽名だろう。名簿見たって無駄だと思うけどな」
鏡の前から離れたリーアは、椅子へとドサッと腰を下ろした。
そのまま背もたれにぐったりと体を預ける。
クリス:「念のためですよ。何事も確認です」
クリスは淡々と答えながら、宿泊者名簿のページをめくった。
リーア:「マジメだな、お前は」
リーアは少し呆れたように言い、天井を見上げる。
木目の走る天井板をぼんやりと眺めながら――
リーア:「そういや、あいつ……」
ぽつり、と独り言のように呟いた。
クリス:「何か思い当たることでも?」
クリスは視線だけを名簿から上げて問いかける。
リーア:「んー……」
リーアは間延びした声を出しながら、ゆるく首を傾けた。
リーア:「レックスに用事があったんじゃないかなぁって」
その言葉に、クリスの眉がぴくりと動く。
クリス:「レックスさんに、ですか?」
リーア:「うん。あいつの受付、あたしがやったんだけどさ」
リーアは腕を組み、思い出すように続けた。
リーア:「その時、『オーナーさんいますか?』って聞いてきたんだよ」
クリス:「……そういうことは、もっと早く思い出してくださいよ」
クリスは口をとがらせ、不満そうに言った。
リーア:「でもさあ」
リーアは椅子から立ち上がると、腰に手を当てる。
リーア:「オーナーはいないけど、オーナー婦人ならここにいるよって言ったんだけどさ」
そう言いながら、わざとらしく腰をくねらせるリーア。
妙に色っぽい声まで作っている。
クリス:「……それで?」
クリスは半分呆れたように続きを促した。
リーア:「変な奴を見るような目で見られた」
思い出したのか、リーアはむっと不機嫌そうに顔を歪める。
クリス:「まあ、僕でもそう見ますけどね」
さらりとした一言だった。
リーア:「失礼な!」
リーアがむっとして言い返す。
クリスは目を細めてくすりと笑うと、何事もなかったかのように再び宿泊者名簿へ視線を落とした。
その時だった。
宿泊者名簿をめくっていたクリスの手が、ぴたりと止まる。
ある名前に、視線が吸い寄せられていた。
クリス:「……ん? シャルクス?」
リーア:「どうした? 知り合いでも見つけたのか?」
リーアが興味津々といった様子で、カウンター越しに身を乗り出す。
クリスは名簿に目を落としたまま、少し記憶を探るように目を細めた。
クリス:「たしか……同じ魔法院に通っていた奴ですよ。子どもの頃の話ですが」
リーア:「へえ。友達だったんだな?」
にやりと笑いながら、リーアはクリスの顔を覗き込む。
クリス:「いえ、友人と呼べるほどではありませんよ」
クリスは小さく笑って、肩をすくめた。
クリス:「でも、不思議と気が合う奴でね。たまに一緒に遊んでいました」
リーア:「ふーん」
リーアは腕を組み、少し怪訝そうに眉を寄せる。
リーア:「でもあいつ、貴族のボンボンだったんだろ?」
その一言に、クリスの表情がほんの少しだけ曇った。
クリス:「風の噂ですが……貴族同士の勢力争いに敗れて、没落したらしいですよ」
淡々とした口調。
けれど、その声はわずかに低くなっていた。
クリス:「今じゃコソ泥に堕ちていても、不思議ではないでしょうね」
リーア:「そうか……」
リーアは小さく頷く。
リーア:「そりゃあ、気の毒にな」
ほんの少しだけ、哀れむような声だった。
だが――次の瞬間には、口元ににやりとした笑みが浮かんでいる。
リーア:「でも、そのシャルクスって奴で間違いなさそうだな」
確信めいた口調。
それに対して、クリスは慎重に首を横へ振った。
クリス:「決めつけるのは、まだ早いですよ」
リーア:「でもさあ……」
リーアは不満げにぼやくと、頬杖をついた。
リーア:「うちにゃ金目の物なんて、ほとんどねぇのにな」
そして、天井を見上げる。
リーア:「いったい何が狙いだったんだろうなぁ」
クリスは名簿を静かに閉じた。
ぱたん、と小さな音がカウンターに落ちる。
しばらく考えるように視線を伏せてから、クリスは口を開いた。
クリス:「地下倉庫に入ろうとしていたということは……」
そこで一拍置く。
クリス:「あそこに、何か秘密があるのかもしれませんね」
リーア:「……そうだな」
リーアも静かに頷いた。
ふざけた調子は、もう消えている。
クリスは顔を上げると、いつもの落ち着いた声で言った。
クリス:「今夜、見張っておきましょう」
そして、少しだけ目を細める。
クリス:「また現れるかもしれませんよ」




