第4話 ワッツとクリストファー
クリストファー:「なんだと、この野郎!」
怒鳴り声が、応接室の扉を突き抜けて廊下まで響いた。
ちょうどそこを歩いていたワッツの耳に、その声が刺さる。
ワッツ:(喧嘩か? ……面白ぇ)
足が、ぴたりと止まった。
眉ひとつ動かさない。
だが、その口元だけが、わずかに吊り上がる。
ノックする気など、最初からない。
ワッツはそのままドアノブを掴み――押し開けた。
バタン。
応接室の中の光景が、視界に飛び込んでくる。
ロイドスが、大柄な男に胸倉を掴まれ、壁際へ追い詰められていた。
ロイドス:「あっ、ワッツさん! いいところに!」
溺れる者が藁を掴むような顔で、ロイドスが叫ぶ。
ワッツ:「……」
ワッツは何も言わない。
ただ、ゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。
重い足音が、応接室の床に落ちる。
男との距離を詰めながら、ワッツは淡々と口を開いた。
ワッツ:「見た顔だな。どっかで会ったか?」
クリストファー:「ねぇよ。よく言われるがな」
即答だった。
クリストファーはあっさりとロイドスの胸倉を放す。
解放されたロイドスは、弾かれたように後ずさり――そのままワッツの背後へ逃げ込んだ。
ロイドス:「や、やっちゃってください。ワッツさん」
震えた声で、情けなく促してくる。
ワッツ:「……」
こいつ、本当にガスパーの側近か。
内心で呆れながらも、ワッツは視線を目の前の男へ戻した。
鋭い眼光がぶつかる。
クリストファー:「やる気かぁ?」
クリストファーは不敵に笑い、拳をゴキリと鳴らした。
ワッツの口元も、ゆっくりと吊り上がる。
ワッツ:「いいぜ」
その言葉が落ちた――次の瞬間。
エリーゼ:「やめなさいよ」
すっと。
女が二人の間へ割って入った。
エリーゼだった。
彼女はクリストファーを見上げ、呆れたようにため息をつく。
エリーゼ:「あなた、喧嘩弱いんだから。無駄に仕掛けないの」
さらりと言い放つ。
そして、追い打ちのように続けた。
エリーゼ:「どうせまた負けるでしょ?」
ワッツ:「……は?」
思わず、眉が跳ね上がった。
今のは――聞き間違いか?
ワッツ:「弱い……? こいつが?」
信じられないものを見るように、ワッツはクリストファーを見た。
目の前の男からは、どう見ても弱者の匂いなどしない。
むしろ、少しでも気を抜けば噛みついてくる猛獣のような圧がある。
だが、当の本人は――。
クリストファー:「殺し合いなら、負けねぇんだけどな」
頭をかきながら、妙に素直に認めた。
ワッツ:「おいおい、物騒な奴だな……」
思わず苦笑が漏れる。
だが、その上をいく声が飛んできた。
エリーゼ:「それも、やっちゃダメ。単なる暴力よ」
ぴしゃり。
一切の反論を許さない声音だった。
その瞬間、ワッツの背中にじわりと汗が滲む。
ワッツ:「……なんだよ、この二人……」
喧嘩が強いとか弱いとか。
殺し合いなら負けないとか。
暴力だから駄目だとか。
会話の軸が、どこかおかしい。
得体の知れない空気に、さすがのワッツもわずかに身を引いた。
クリストファーは肩をすくめる。
クリストファー:「……しょうがねぇ。ここは引いてやるよ」
静かな声だった。
だが、そこには確かな圧が残っている。
クリストファーは視線を動かした。
ワッツの背後で、小刻みに震えているロイドスへ。
クリストファー:「ガスパーに伝えとけ」
低く。
ゆっくりと。
一語ずつ刻むように言う。
クリストファー:「俺たち商人を締め上げるつもりなら――代償、高くつくぞ」
その言葉に、ロイドスの肩がびくりと跳ねた。
だが次の瞬間。
ロイドスは深く息を吸い、襟元を整えた。
そして、一歩前へ出る。
ロイドス:「承知いたしました」
そこにいたのは、先ほどまで怯えていた男ではなかった。
いつもの端正な笑みを浮かべた、ガスパーの腹心。
ロイドス:「必ず、お伝えいたします」
クリストファーは満足そうに頷く。
そして、再びワッツへ視線を戻した。
クリストファー:「おめぇもだ、ワッツ。覚悟しとけよ」
ワッツ:「……」
ワッツは無言のまま、その視線を受け止めた。
目は逸らさない。
数秒の沈黙。
互いの間に、見えない火花が散る。
やがて、クリストファーは踵を返した。
エリーゼもまた、何事もなかったかのようにその後に続く。
バタン。
扉が閉まり、応接室に静寂が戻った。
しばらくして――。
ワッツが、ぽつりと呟く。
ワッツ:「……何者だ、あいつら」
ロイドス:「クリストファー・アーポットと、奥様ですよ」
即答だった。
だが、その声にはわずかな緊張と畏怖が滲んでいる。
ワッツ:「そうか……」
ワッツは閉ざされた扉を、じっと見つめた。
ワッツ:「あいつが、“アーポット”か」
低く呟きながら、二人が去っていった扉を睨み続ける。
胸の奥で、得体の知れない熱がくすぶっていた。
苛立ちか。
警戒か。
あるいは――期待か。
ワッツは舌打ち混じりに吐き捨てた。
ワッツ:「ちっ……何しに来やがったんだ、あの野郎は?」
クリストファーたちが出ていった扉を睨みつけたまま、苛立ちを隠そうともせずロイドスへ問いかける。
ロイドスはというと、もう何事もなかったかのようにソファへ身を沈めていた。
先ほどまでの情けない姿など、最初から存在しなかったかのような顔で。
ロイドス:「表向きは、苦情を言いに来たようですが……」
一拍置く。
口元に、薄い笑みが浮かんだ。
ロイドス:「まあ、違うでしょうね」
ワッツ:「なに?」
低く唸るように問い返す。
ワッツはロイドスの正面のソファへ、ドスンと腰を下ろした。
重たい身体が沈み込み、テーブルがわずかに軋む。
握り締めた拳には、まだ力がこもっていた。
今にもテーブルを叩き割りそうな勢いだ。
そんなワッツを気にも留めず、ロイドスはわずかに身を乗り出した。
そして、じっと彼の瞳を覗き込む。
ロイドス:「あなたの手下が、彼の商館にお邪魔したようですね」
淡々とした口調だった。
ロイドス:「その件で、牽制しに来た……といったところでしょう」
ワッツ:「……そうかい」
ワッツは視線をふいっと逸らした。
そして、唇の端を歪める。
面白くない。
実に、面白くない。
ワッツ:「わざわざ俺に釘を刺しに来たってわけか」
低く呟く。
ロイドス:「おそらくは」
ロイドスは穏やかに答えた。
ロイドス:「少なくとも、こちらがバルデンの黄金を狙っていることは、向こうも察しているでしょう」
ワッツ:「……」
ワッツは黙った。
その目が、ふたたび扉へ向く。
クリストファー・アーポット。
喧嘩は弱い。
殺し合いなら負けない。
そんなふざけたことを、平然と言う男。
ワッツ:「へっ……」
低く笑う。
ワッツ:「ますます気に食わねぇな」
だがその声には、怒りだけではない。
獣が獲物を見つけた時のような、荒々しい昂ぶりが混じっていた。




