第73話:喪失のあとに
崩壊した祭壇を離れ、三人は山を下りた。
ユートは自力で歩けるようになっていた。エイルの残滓が、仮の心臓として体を動かしている。だがいつまで保つかはわからない。不安定な鼓動が、胸の奥で微かに脈打っていた。金色の紋様が首筋と腕に浮き出ているが、その光は弱々しく、時折明滅している。
バルは——沈黙したままだった。
アルトが何度も呼びかけるが、返事はない。背中に背負ったバルは、軽い。中身が抜けたように、軽い。
夜明け前。
山の麓の洞穴で、三人は身を休めた。体中の傷が痛む。ミラの左腕は動かない。アルトの右腕には斬り傷が幾筋も走っている。ユートは体のあちこちが軋んでいる。
そして——心が、軋んでいた。
リアラを失った。
バルの声が聞こえない。
ディアルは消え、魔王が復活し、世界の空は赤黒く濁っている。
何を得て、何を失ったのか。
その計算すら、今はできなかった。
「アルト」
ユートが静かに言った。洞穴の壁に背を預けて、焚き火の薄い炎を見つめている。
「あの人の——エイルの話。お前、全部聞いてたよな」
「はい」
「ルーナが……あの子だった。月が好きだった女の子。俺が故郷で三ヶ月一緒にいた——あの子が、魔王だった」
ユートは膝を抱えていた。大きな体が、今は小さく見えた。
「あの子はふらっと現れた。名前も覚えてない、どこから来たかもわからない。でも月を見て笑ってた。桜の木の下で、綺麗だね、って。俺はただ——一緒にいた。それだけだった。何もしてないし、何も知らなかった」
声が震えた。
「それが——魔王だった。迫害されて、力に呑まれて、世界中から憎まれる存在になってた。あの子が笑ってた頃はまだ——人間と妖精が仲良くしてた頃で。それが全部壊されて。俺は何も知らなかった。何も——できなかった」
「ユートさん……」
「あの子、『ごめんなさい』って言ったんだろ。封印される直前に。——何を謝ってたんだろうな。守りたかっただけなのに。迫害されて追い詰められて、力を暴走させただけなのに。誰が悪いんだ。誰も悪くないだろ……」
ユートの声が詰まった。
ミラが何も言わずに、ユートの隣に座った。
左腕を庇いながら、右手でユートの手を握った。二年間、この手を握りたかった。その思いが、今ようやく——。
「……ユート。あんた泣いていいのよ。二年間操られて、ずっと我慢してたでしょ。声も出せずに、ずっと一人で。もう——我慢しなくていいから」
「……っ」
ユートが顔を覆い、声を殺して泣いた。
大きな背中が震えている。この人が泣くのを、アルトもミラも——初めて見た。
アルトはバルの残骸を膝に置いて、二人を静かに見守った。
自分も泣きたかった。リアラのことを思うと、胸が潰れそうだった。あの笑顔。「一人が怖いのは、あなただけじゃない」と言ってくれた声。「何があっても、帰ってきてね」と言った目。でも——今は、泣かない。
まだ——終わっていない。
* * *
夜明けが来た。
赤黒い筋が残る空に、太陽が昇る。世界はまだ——ここにある。傷だらけで、歪んでいるけれど——まだ朝は来る。
アルトが立ち上がった。
「ユートさん。ミラさん。——話があります」
二人が顔を上げた。泣いた跡の残る顔で。
「リアラは、まだ生きてます。魔王——ルーナさんがリアラを傷つけるなら、あの場で殺していたはずです。でもそうしなかった。壊れ物を扱うように、抱き上げた。——ルーナさんの意識は完全には消えていない」
「……確かに。リアラも——最後に何か、呟いてたわね。『大丈夫』って。あの子は——魔王に向かって、大丈夫って言ったのよ」
「はい。だから——リアラは生きてる。バルも」
アルトがバルの残骸に手を置いた。冷たい布地。もう脈動は感じない。でも——信じる。
「バルは応答しません。でも——エイルさんが言ってた。バルの意識はバッグの奥底に刻まれてるかもしれないって。まだ消えたと決まったわけじゃない」
「希望的観測だけど——」
ユートが目を拭いながら言った。
「でも——そうだな。諦めるには、早すぎる」
アルトが頷いた。
「リアラを取り戻す。ルーナを救う。バルを復活させる。——全部やります」
ミラが苦笑した。
「……本当に、欲張りね。あんた」
「ですから。バルに似たんです」
アルトは——目を少し赤くしたまま、笑った。
その目には、確かな決意が灯っていた。




