第61話:折れない心
リアラが連れ去られた夜。
アルトとミラは、遺跡の広場でそのまま動けなかった。
身体中の傷が痛む。だがそれ以上に——心が砕けかけていた。
また守れなかった。二年前と同じだ。目の前で大切な人を奪われて、何もできなかった。あの時はユートとバルを失い、今度はリアラを失った。二度も。同じ相手に。
ミラが壁に背を預け、膝を抱えていた。髪が顔を覆って表情が見えない。
「……私さ、二年間一人で戦ってきたのよ。強くなったって思ってた。拠点を潰して、何十体も魔族を焼いて、もう二度と、あんな思いはしないって。……なのに、また同じだった。ディアルの前じゃ、何も変わってない」
声が震えている。二年間の意地と覚悟が、今夜一日で崩れ落ちようとしていた。
「あいつの前に出ると、足が竦むの。ユートが貫かれた時のことを思い出して……身体が動かなくなる。ユートに杖を向けるだけで精一杯で、ディアルに対しては……全然ダメだった。全力の炎が——片手で消された」
「ミラさん……」
「私、弱いわ。二年間何やってたのかしら。魔族の拠点を焼いて回って、強くなったつもりで——結局、一番肝心な時に何もできない」
アルトは何も言えなかった。
自分も同じだったから。あの圧倒的な力の前では、成長も努力も、砂上の楼閣のように崩された。魔法剣も、観察眼も、二年間の修業も——片手で弾かれた。
沈黙が、夜の遺跡に横たわった。虫の声もしない。世界から音が消えたようだった。
『…………おい、二人とも。聞こえてるか?』
バルの声だった。低く、静かに。いつもの軽い調子ではない。
『しんどいのは俺もだ。口しか動かねぇ俺は……何一つ力になれなかった。武器が出せりゃ、少しは——なんてのは、言い訳だ。出せたところでディアル相手にどこまでやれたか。今の俺は、ただの口うるさい袋だ。それは認める。今夜だけは認める』
「バル……」
『でもな。ここで全員揃って泣いてても、何も変わんねぇ。あの小娘——リアラが、今あのバケモノの手の中にいる。のんびり泣いてる暇はねぇぞ。泣くのは後にしろ。まず考えろ。何ができるかを。何を変えれば、次は違う結果になるかを』
バルの声には、いつもの軽薄さがなかった。
重く、真剣で——それでいて、どこか温かかった。口だけの存在であることの歯痒さを、バルは誰よりも感じているはずだ。それでも、こうして声を出し続ける。仲間を立たせるために。
「……バルの、言う通りだ」
アルトが立ち上がった。
全身が軋む。肋骨が痛い。左腕が上がらない。だが、足は動く。まだ立てる。
「リアラが待ってる。できることを全部やる。リアラを取り戻すために。ユートさんを助けるために」
ミラも顔を上げた。涙の跡が残る頬を手の甲で乱暴に拭い、立ち上がった。
「……あんたに泣き言聞かせて、私が元気づけられてどうすんのよ。情けない。本当に情けない。……でも、ありがと」
「いえ。ミラさんが弱音を言ってくれたから、楽になりました。僕も同じこと思ってたから。一人で抱え込まなくて済んだ」
ミラが小さく笑った。それは、あの二年前の、余裕のある笑みではない。傷だらけの、情けない、でも——折れていない笑み。
「……そう。じゃあ、おあいこね」
* * *
翌朝。日が昇る前に二人は遺跡を離れた。
近くの街で最低限の治療を受けながら、情報を集める。一分一秒が惜しかった。
「黒の祭壇。その名前に心当たりは?」
ミラが治療師に包帯を巻かれながら答えた。
「ギルドの古い文献で見たことがある。魔族が太古に使っていたとされる儀式場よ。世界の魔力の流れが集中する地点に建てられた場所。場所は——北の果て、ナグリア山脈の最深部だったと思う」
「ナグリア山脈か……。最速で何日かかる?」
「街道を行けば五日。でも途中の森を突っ切る近道を通れば、三日で着けるかもしれない。ただし魔物が多い」
「近道を行きましょう」
アルトは即答した。一秒でも、一分でも、リアラを待たせる時間を減らしたい。
「……わかったわ。最短ルートを使う。でも無茶はしないで。辿り着く前に倒れたら意味がないんだから」
「わかってます」
わかっている。頭では。だが——足が、意識するより先に速くなる。リアラが今も一人で怯えているかもしれない。そう考えるだけで、じっとしていられない。
『おいノロマ。そのペースだと日が暮れる前にぶっ倒れるぞ。もうちょい頭使って足を動かせ』
「……うん」
強引にペースを落とす。焦りを噛み殺して、ただ前へ。
* * *
一日目の夜。
街道を外れた森の中で野営を張った。焚き火の明かりが、三人の影を揺らしている。
アルトは傷だらけの身体を横たえながらも、眠る気になれなかった。目を閉じるたびにリアラの叫び声が蘇る——「アルト……ッ!」。あの手を掴み損ねた感触が、まだ残っている。
「ねえ、アルト。一つ試したいことがあるの」
ミラが杖を手に、バルの前に座った。
「バルの封印。この銀色の紋様、妖精族の魔力に近い構造をしてるわ。リアラの魔力で一度緩んだ実績がある。なら——似た性質の魔力で揺さぶりをかけたら、私にも何かできるかもしれない」
『おお、マジか。やってくれよ。こっちはずっと身体中が鎖でグルグル巻きにされてるような感じなんだ。痒くてたまんねぇ』
「痒いの……? まあいいわ。少し触るわよ」
ミラは杖を通じて繊細な魔力を流し込んだ。銀色の紋様に干渉しようと、妖精族の魔力に似た振動数を再現して当てる。
——弾かれた。
まるで壁にぶつかるような反発。ミラの魔力が弾き返される。
「……硬い。もう一回」
角度を変え、強さを変え、波長を変え。何度も何度も。
そのたびに——弾かれる。一枚岩のような壁が、封印の内側から押し返してくる。
「くっ……」
ミラの額に汗が浮かんだ。一時間近く続けた頃、杖を下ろして深く息を吐いた。
「……直接は、無理ね」
落胆が声ににじむ。だが、ミラの目は死んでいなかった。何かを掴みかけている目だった。
「でも——もう少しやってみれば、何か掴めるかもしれない。封印の構造がおぼろげに見えてきたの。妖精族の魔力で縫い込まれたような、精緻な編み目がある。あれの一本でも緩められたら……」
言いかけて、ミラは杖を膝に置いた。
「ただ今日はもう無理だわ。魔力と集中力をごっそり持っていかれた。明日、もう一度やらせて」
『おうよ。今のな、痛かったけど——奥の方にちくっと来た気がするぜ。可能性はゼロじゃねぇぞ、トマト女』
「……その呼び方やめてって言ってるのに」
ミラが苦笑しながら毛布にくるまった。
バルは口では軽口を叩いているが、声に微かな期待がにじんでいる。二年間沈黙し、復活してからも力を出せずにいた自分が、少しでも仲間の役に立てるかもしれない——そんな光が、封印の奥で瞬いていた。
アルトは焚き火を見つめながら、静かに呟いた。
「明日で二日目か。あと二日で着けるかな」
「着くわよ。着かなきゃいけないのよ」
ミラの声は、眠気に沈みながらも——折れていなかった。
「……おやすみなさい、ミラさん」
「おやすみ。——明日は、もう少し上手くやるわ」
焚き火が爆ぜた。
闇の向こうに、リアラが見ている空と同じ空がある。
(待ってて。——必ず行く)
アルトは目を閉じた。短い眠りの中でも、握った拳は解かなかった。




