第60話:届かない手
ユートの黒い剣が、再びアルトに襲いかかった。
だが今度は——容赦がなかった。
ディアルの「動けなくすればいい」という命令は、「殺すな」という制限と引き換えに、ユートの身体から自我による抵抗の余地を奪っていた。先ほどまでの「急所を僅かにズラす」猶予すら消え、正確無比な斬撃がアルトの全身を襲う。腕を狙い、脚を狙い、身動きを封じることだけを目的とした冷徹な剣。
ギィン! ガキィン! ガキィィィン!!
アルトは必死で防御する。魔法剣の出力を全開にして、ユートの斬撃を受け止め、いなし、躱す。
だが一方的だった。ユートの剣速は、魔核の出力全開で人間の域を超えている。一太刀ごとにアルトの腕が痺れ、足が後退する。守るだけで精一杯。反撃の隙など存在しない。
『おいノロマ! 右から来る——ッ! いや左だ! 両方だ! フェイントだ右が本命——クソッ、速すぎんだよ!! しゃがめ! 次は上だ!!』
バルが必死で警告するが、追いつかない。ユートの剣は予告なく軌道を変え、バルの予測すら超えていく。
ガッ!!
ユートの蹴りがアルトの腹を捉えた。容赦のない一撃。アルトが吹き飛ばされ、石壁に叩きつけられる。背中に衝撃が走り、視界が明滅する。
「がっ……はっ……!」
「アルト!!」
ミラがディアルに向かって最大火力の魔法を放つ。牽制ではなく、本気の一撃。二年間の修業のすべてを込めた炎が、灼熱の柱となってディアルを襲う。
だがディアルは片手で受け止め——表情すら変えずに——もう片方の手から放った魔力の奔流でミラを横に弾き飛ばした。
「くっ……!」
ミラも地面を転がる。だがすぐに立ち上がり、唇の血を拭い、再び杖を構えた。折れていない。まだ折れない。
「何度撃っても同じですよ」
ディアルの声は退屈そうだった。
蟻を踏み潰すような——あまりにも一方的な戦いだった。二年間で死に物狂いで強くなった二人の全力が、ディアルにとっては遊びですらない。
* * *
アルトが石壁の前で膝をつく。口から血が零れた。肋骨が軋んでいる。左腕が上がらない。
(……強い。二年前と同じだ。何も変わっていない。いや——こっちは強くなったはずなのに、まだこんなに……差がある。魔法剣も、ミラさんの魔法も、何一つ通じない)
絶望が、冷たい水のようにアルトの胸を満たしていく。
(魔法剣を覚えた。ミラさんと合流した。バルも戻ってきてくれた。それでも——届かないのか? ディアルには——)
あの日と同じだ。何もできない。また同じだ。
『……おい、ノロマ。下向いてんじゃねぇぞ』
バルの声が、低く響いた。いつもの軽い調子ではない。腹の底から絞り出すような、真剣な声。
『お前はな、二年前のお前じゃねぇんだ。あの時は泣いてるだけだったかもしれねぇ。でも今は違う。お前には剣がある。魔法剣がある。仲間がいる。そして——このバル様がついてる。口だけだけどな。だからまだだ。まだ終わってねぇ。立て。立てよ、アルト』
アルトの手が、床の小石を掴んだ。
立ち上がる。
血まみれで。折れかけた身体で。左腕はもう上がらない。剣を片手で構える。
それでも——立ち上がった。
「……まだ、だ……!」
「……しぶとい虫ですね」
ディアルがため息をついた。
「もういいでしょう。これ以上遊んでいる暇はありません」
ディアルが歩き始めた。アルトの方へ。バルを奪うために。ゆっくりと、確実に。
「渡さない……バルは……渡さないっ!」
アルトが渾身の魔法剣を叩き込む。片手で振るった刃に、持てるすべての魔力を注ぎ込んだ。
ディアルは焦りもせず、義肢の右手をアルトに向けた。純粋な魔力の壁がアルトの魔法剣を弾き返す。全力の一撃が、片手で受け止められた。
ミラも同時に最大火力を放つ。炎の奔流がディアルを包み込む——だが煙が晴れた時、ディアルは無傷だった。
「やめてッ!!」
リアラが岩陰から飛び出した。
もう見ていられなかった。アルトが殴られ、吹き飛ばされ、それでも立ち上がり、また殴られる。その光景を、黙って隠れて見ていることが——もう、できなかった。
「やめて……アルトをこれ以上傷つけないで……っ!」
リアラの瞳がエメラルドに変色した。
感情の昂りに呼応して、体内に秘められた魔力が爆発的に溢れ出す。緑色の光が、リアラの全身から脈動するように放たれた。本能的な防御反応——妖精の血が、仲間を守るために叫んでいる。
その瞬間——ディアルの足が、止まった。
嘲りも退屈も消え、初めて——驚愕の表情が、あの冷たい顔に浮かんだ。
「……これは」
ディアルの目が、大きく見開かれた。氷のように冷たかった瞳に、火が灯ったように光が宿る。贪欲な、飢えた光。
リアラから溢れ出す魔力の波動を、その全身で感じ取っている。
「妖精族の……純血に近い個体——まさか、こんなところに——」
ディアルの声が震えた。それは恐怖ではない。歓喜だ。予想もしなかった獲物を前にした、抑えきれない歓喜。
「なんと。なんという巡り合わせだ。バッグを回収に来ただけだというのに——最後のピースが目の前に転がってくるとは」
ディアルの視線が、アルトからリアラへと移った。バルへの興味が、一瞬で消し飛んでいる。
「封印を解くにはもう一つ——妖精族の血が必要だった。この世界にほとんど残っていない、純度の高い妖精の力。それが——ここにいるとは」
ディアルが歩き出す。リアラに向かって。ゆっくりと、確実に。さっきまでとは違う——獲物を見定めた捕食者の目で。
「来ないで……!」
リアラが後ずさる。足が震えて、岩に背中がぶつかった。もう逃げ場がない。だが、ディアルの足は止まらない。
「怖がらなくて結構です。痛いことはしません。あなたの力を、少しだけお借りするだけですから。妖精族の力は、扱いを間違えると壊れてしまう。だから丁重に扱いますよ」
「やめろォォォ!!」
アルトが駆ける。片手で剣を握り、持てるすべての魔力を注ぎ込んだ。
ディアルは振り返らず、義肢の右手を背後に向けた。純粋な魔力の壁がアルトを弾き返す。
ミラも同時に最大火力を放つ。炎の奔流がディアルを包み込む——だが煙が晴れた時、ディアルは無傷だった。
ディアルがリアラの前に立った。
リアラの瞳が再びエメラルドに輝き、魔力が本能的に放出される。だがディアルはそれを片手で掴み取るように吸収した。リアラの全力の魔力を——まるで水を飲むように。
「ほう……見事な魔力です。やはり、妖精の血は美しい。この純度……期待以上だ」
「離して……ッ! アルト……ッ!」
リアラがアルトの名を叫んだ。アルトが手を伸ばす。届かない。
「この子は預からせていただきますよ。……取り返したければ、『黒の祭壇』へ来なさい。あのバッグも忘れずに」
ディアルが嘲るように微笑んだ。
「もっとも——来たところで、また今日のように無様に転がるだけでしょうがね」
ディアルの身体が、空間に溶けるように消えた。
リアラを連れて。リアラの「アルト」という叫びが、最後まで耳に残った。
ユートも、主人の後を追うように——消えた。
遺跡の広場に残されたのは、ボロボロのアルトと、地面に座り込んだミラと、口しか動かないバルだけだった。
* * *
「リアラァァァッ!!」
アルトの叫びが、無人の遺跡に虚しく響いた。
返事はない。
リアラの姿は、どこにもなかった。
アルトは膝から崩れ落ち、地面を拳で殴りつけた。石板が砕けて、拳から血が滴る。
「くそ……くそッ! また……また、守れなかった……ッ! 約束した……約束したのに……!」
帰ってきてね。何があっても。
そう言ったリアラの声が、嘲笑のように蘇る。
ミラが泣いていた。声を上げず、ただ涙を流しながら拳を握りしめていた。ユートをまた失い、リアラまで奪われた。二度目の喪失。
『…………』
バルは、珍しく何も言わなかった。
言葉が見つからないのだ。毒舌の天才が、何も言えずに黙っている。それが——何よりも重い沈黙だった。
黒の祭壇。
リアラの叫びが耳から消えない。一秒でも早く——追いかけなければ。




