第131話:お前はバルだ
アルトの魔力が、バルの中に、流れ込んだ。
手のひらから、バルの傷ついた表皮を通って、内部へ。バルの中は、空っぽだった。本当に、空っぽだった。エイルが封じた勇者と魔王の力は、もう、ほとんど残っていなかった。リアラの干渉でくっつけた妖精の力も、剣で砕けた時に、霧散した。
バルの中の、空っぽの空間に、アルトの魔力が、最初に、満ち始めた。
水が、器に、注がれるように。
バルが——震えた。
軋みではなかった。歓迎の震えだった。アルトには、分かった。バルが、アルトの魔力を、嬉しそうに、受け取っているのが。バルの中の、空っぽの場所が、一つ一つ、アルトの魔力で、埋められていくのが。
手のひらに伝わる感触が、変わった。さっきまで、薄く、頼りなかったバルの表皮が、徐々に、しっかりとした弾力を、取り戻していった。中身が、戻ってきていた。
『——温けぇな』
バルが、呟いた。
声に、初めて、温度があった。アルトの魔力で、バルが、温まっていた。冷たかったバルの体が、人肌のような温かさを、帯び始めていた。
アルトは、目を閉じたまま、魔力を、流し続けた。バルとの繋がりが、深くなった。バルの内側が、見えるような感覚があった。空っぽの空間が、徐々に、形を取り戻していくのが。
「いきます」
ユートが、低く、言った。
ユートの掌の中に、銀色の光が、固まっていた。勇者の力。剣を通さない、ユート自身の中にあった、純粋な力。それを、ユートが、両手で、抱えるように、形作っていた。
「ミラさん」
ユートが、ミラを、呼んだ。
「いつでも」
ミラの杖から、青い光が、走った。空間に、新しい魔法陣が、完成していた。三本の経路が、空中に、描かれていた。バルへの、三本の道。
「経路、開通したわ。——ユートから、まず、流して」
ユートが、頷いた。
両手の銀色の光を、ミラの経路に、乗せた。光が、空中の経路を、滑って、バルに向かって、流れた。空中に描かれた銀の線が、ミラの杖の指揮で、ぶれず、まっすぐ、バルに届いた。バルの表皮に、銀色が、触れた。
バルが、もう一度、震えた。
『——重い、なこれ』
バルが、呟いた。
『勇者の、力か。——懐かしい、感じだ。エイルの中にあった奴と、似てる。あいつが俺を作った時に、最初に入れた力と、同じだ』
その言葉に——ユートの胸の奥が、応えた。
仮の心臓。エイルの残滓。借り物の鼓動が、ユートの意志とは別に、脈を、速めた。掌を流れる銀色の光の、その奥から、金色の光が、にじみ出していた。誘われるように。自分から。
道中、ずっと、取っておいた力だった。重ねれば命を削ると分かっていて、いざという時のためにと、握り潰すように、温存してきた力。それが今、ユートが命じるより先に、流れ出そうとしていた。
エイルが、力を貸そうとしている。
かつて、止めに行った魔王へ。止めきれなかった、あの少女へ。今度こそ、その手が、届くように。
ユートは、止めなかった。胸の奥の鼓動に、心の中で、語りかけた。——ああ。連れて行きますよ、エイルさん。あんたの分も、一緒に。
銀色の光に、金色が、溶けた。
ユートの掌から、銀と金の光が、絶え間なく、流れ続けた。剣を握っていない手で、二人分の勇者の力を、流し続けるのは、消耗が大きかった。だが、ユートは、止めなかった。額に、汗が、滲んだ。
バルの中で、アルトの魔力と、勇者の力が、混じり始めた。混じり合うのではなく、それぞれの場所に、収まり始めた。アルトの魔力が、土台。その上に、勇者の力が、別の階層として、納まる。器としてのバルが、それを、整然と、配置していた。
「——リアラ」
ミラが、呼んだ。
「うん」
リアラが、両手を、伸ばした。バルの方へ。指先から、翠の光が、滲み出ていた。妖精族の力。底をついていたはずの力を、リアラが、最後の一滴まで、絞り出していた。
「いくよ。——バル」
『——ああ』
翠の光が、ミラの経路を、滑った。三本目の経路を、通って、バルへ。バルの表皮に、翠が、触れた。
バルが、震えた。今度は、強く、震えた。
三つの力が、バルの中で、揃った。
アルトの魔力。ユートの勇者の力。リアラの妖精族の力。それらが、バルに元から残っていた魔族の残滓と合わさって、勇者と魔族と妖精族の力が、バルという器の中で、別々の階層に、整然と、収まっていった。
ミラの制御が、完璧に、機能していた。剣の時とは、違った。剣は、三種族の力を、同じ場所に押し込めようとして、砕けた。だが、バルは、三つの場所を、別々に、用意できる器だった。元から、勇者と魔王の二つの力を、別々に抱えていた器。三つになっても——いける。
バルの表皮の裂け目が、ゆっくりと、塞がり始めた。
その瞬間。
ナナシの魔力が、跳ねた。
ルーナの黒い瞳が、輝いた。アルトたちの集中を、察知した。完成寸前を、察知した。試練の時間が、終わりに近づいているのを、察知した。
ルーナの腕が、上がった。
「アルト——来るわ!」
ミラが、叫んだ。
黒い槍が、十本、空中に出現した。狙いは——アルト。バルに集中している、無防備な、アルト。
アルトは、目を、閉じたままだった。バルとの繋がりを、切るわけには、いかなかった。
「ユート!」
ミラが、叫んだ。
「分かってる!」
ユートが、銀と金の光を、もう一段、絞り出した。両手から、二人分の勇者の力を、空中に、放った。アルトの周囲に、銀と金の壁が、立ち上った。だが、薄い。十本の槍を、全部受け止めるには、足りない。
その時。
バルが——動いた。
いや、バル自身は、動かなかった。だが、バルの表皮から、紫の光が、噴き上がった。
バル本来の魔力。アルトの魔力で、再生し始めていた、バルの魔力。それが、自分から、外へ、出た。アルトの周囲に、紫の壁が、立ち上った。銀色の壁の、外側に、もう一枚。
二枚の壁が、十本の槍を、受け止めた。
着弾。爆発。衝撃。
銀の壁が、揺らいだ。紫の壁が、その分を、補った。一本、二本、三本——槍が、二枚の壁の間で、潰れた。最後の一本が、紫の壁を、半分まで貫いた。だが、その時には、勢いが、削がれていた。アルトの体に、届く前に、止まった。
十本、全部。——アルトには、一本も、届かなかった。
『——おう』
バルの声が、戦場に、響いた。
『動けるじゃねぇか、俺』
声に、力が、戻り始めていた。掠れていた声が、しっかりとした声に、戻っていた。今までで、一番、はっきりとした、バルの声だった。
バルの中の、三種族の力が、アルトの魔力を媒介に、繋がり始めていた。バルが、新しい在り方として、目覚めかけていた。
アルトは、目を、開けた。
バルの表皮が、変わり始めていた。
黄色いバッグの形は、保っていた。だが、表皮の表面に、銀と紫と翠の、細い筋が、走っていた。三色の筋が、バルの全体に、模様のように、織り込まれていた。バルが、新しい形に、変わっていた。
器としての、新しいバル。
アルトは、最後の魔力を、絞り出した。バルの中に、流し込んだ。
バルの中で、三種族の力が、完全に、繋がった。
その瞬間。
アルトが、口を、開いた。
「——お前は」
声が、戦場に、響いた。
戦場の風が、止まった。ナナシの黒い瞳が、こちらを、見ていた。ルーナの体が、立ったままだった。ユートが、ミラが、リアラが、息を、止めていた。
アルトの言葉を、戦場全体が、待っていた。
「お前は、バルだ」
アルトが、言った。
はっきりと。迷いなく。出会ってから、ずっと傍にいた相棒に、向かって。三種族の力で満たされた、新しい器に、向かって。
「僕が決めて、僕が満たした、僕のバルだ。——お前は、バルだ」
言葉が、戦場に、染み込んだ。バルの中に、刻まれた。アルトが、決めたものが、バルの本質に、なった。
バルが、戦場で、輝いた。
三色の光が、バルの表皮から、噴き上がった。銀。紫。翠。三色が、バルの周囲に、渦を巻いた。アルトの体を、光が、包んだ。手のひらに、バルの形が、変わっていく感触が、伝わってきた。
黄色いバッグの形が、変わった。表皮が、伸びた。広がった。形が、再構成された。バッグでもなく、盾でもなく、剣でもない、新しい形へ。
最終的に、形は、二つに、なった。
アルトの右手に——剣が、生まれた。
黒い柄。銀と紫と翠の、三色の刀身。魔族の赤は、もう、そこに、なかった。残滓は、バル自身の紫に、溶けて、変わっていた。三色が、混じらず、刀身の中で、螺旋を描いていた。だが、剣の時のような、争う螺旋では、なかった。三色が、互いを、支え合うように、螺旋を、保っていた。剣全体に、安定した力が、満ちていた。剣を握るアルトの手のひらに、確かな重みが、伝わった。
アルトの左手に——盾が、生まれた。
黄色い表皮で覆われた、円形の盾。表面に、三色の筋が、模様のように、走っていた。バル本来の表皮の感触を、残した盾。手に取ると、軽かった。だが、軽すぎず、ちゃんと、防御の役目を果たす重みが、あった。
剣にして、盾。
両方が、バルだった。一つの存在が、二つの形を、同時に、取っていた。これが、新しいバルの姿だった。
『——おう、ノロマ』
バルの声が、剣と盾の、両方から、響いた。
『俺、戻ってきたぞ』
声に、満ちていた。力が。今までで、一番、はっきりとした、バルの声だった。掠れていた最後の言葉とは、まるで違う、生き生きとした声。
「——うん」
アルトの目から、もう一度、涙が、溢れた。
でも、今度は、違う涙だった。失う涙ではなく、迎える涙だった。
「——おかえり、バル」
戦場の風が、動いた。止まっていた風が、もう一度、動き始めた。アルトの髪を、撫でて、抜けていった。風が戻ってきたことが、世界が、動き出したことを、教えていた。
ナナシの黒い瞳が、わずかに、細くなった。
「——なるほど、ね」
声が、淡々と、言った。
「託された言葉が、本物だった、ということか。——それは、認めよう」
声に、初めて、わずかな、評価の色があった。だが、すぐに、消えた。
「だが、ここからが、本番だよ。——その新しい器で、ルーナを、本当に、救えるかどうか。私は、見させてもらう」
ルーナの体から、新しい魔力が、立ち上った。今までで、一番、深い、黒。ナナシが、本気を、出し始めていた。これまでの試しの戦いは、終わった。次は、本当の意味での、決戦になる。
アルトは、剣と盾を、構えた。
ユートが、隣に、立ち上がっていた。火傷の手を、握り直していた。ミラが、杖を、構え直していた。リアラが、ユートの肩から、自分の足で、立っていた。
全員が、揃っていた。
バルが、戻ってきた。
最後の戦いが、ここから、始まる。
アルトは、剣を、構え直した。盾を、左腕に、しっかりと、固定した。両手の感触が、確かだった。バルの重みが、剣と盾の両方から、伝わってきた。一つの存在が、二つの形で、隣にいる感覚だった。
「——いきます」
アルトが、低く、言った。
剣と盾が、戦場で、三色に、輝いた。
ルーナの体から立ち上る黒い魔力に、向かって。




