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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第94話:誰のための剣か

 二日目の朝。再挑戦。


 ユートは一晩中眠らなかった目を擦りもせず、加工台の前に立った。朝の光——ではない。この地下空間に光はない。壁面の脈動と炉の炎だけが照らす。だが炉の炎が最も安定する時間帯——ケイスが言っていた「朝」に相当するタイミングだ。妖精族の暦では、炉の明滅周期で一日を計る。


 ケイスが加工台の横に立っていた。腕を組み、無言。昨夜は炉の傍で眠ったはずだが、疲れの色はない。むしろ——炉に近いほど、この鍛冶師は安定するらしい。


 アルトとミラとバルは、昨日と同じ壁際の位置にいる。アルトは観察ノートを開いているが、ペンは走っていない。ユートを見ている。ミラは杖を膝の上に横たえ、目を閉じている——だが眠っていない。魔力感知を広げて、鍛冶場全体の波形を記録し続けている。


「——始める」


 ユートが自分に言い聞かせるように呟き、柄を握った。


 昨日とは違う。エイルの真似をしない。エイルの記憶を引き出さない。首筋の紋様が脈打っているが——無視する。あれはエイルの残滓だ。俺の魔力ではない。

 自分の魔力だけを——指先に集める。小さい。弱い。勇者の力に比べれば微量だ。だが、これが——ユートの力だ。


 流し込む。


 ——弾かれなかった。


「……っ!」


 ユートの目が見開かれた。弾かれない。魔力が柄を通って——刃に向かって流れている。細い川のように。途切れそうなほど細いが——流れている。


 だが——刃の折れた断面に到達した瞬間、流れが止まった。

 折れた先——存在しない刃の続きへ向かおうとして、魔力が行き場を失った。堰き止められたように溜まり、圧力が上がり——


「くっ——」


 弾かれた。昨日ほど強くはないが——魔力が逆流して指先に返ってきた。手が痺れる。


「流れ自体は通った。だが——剣が完全ではない。折れた先がないから、魔力の循環が成立しない」


 ケイスが淡々と分析した。


「お前の魔力は——受け入れかけた。だが、折れた剣の構造がそれを完結させられない。再鍛造が先に必要なのではない。お前の魔力が剣に受け入れられることが先だ。順序が逆だった」


「……どうすればいいんだ」


「剣の魂に——お前を受け入れろと伝えろ。魔力ではなく。意志で」


「意志?」


「魔力を流すのではない。手のひらから、心を通せ。お前が何者で、何のためにこの剣を握るのか。それを——剣に聞かせろ」


 ケイスの声は冷たかったが——初めて、具体的な指示だった。


 * * *


 しかし——「心を通す」とはどうすればいいのか。


 ユートは加工台の前に座り込み、折れた剣を前にして目を閉じた。ケイスは離れた場所に立ち、口を挟まない。


 心を通す。自分が何者かを、剣に聞かせる。

 ——俺は、何者だ。


 名前はユート。故郷は滅んだ村。旅に出た理由は——月を見ていた女の子を探すため。途中でエイルの残滓を宿した。勇者の記憶が流れ込み、自分と他人の境界が曖昧になった。

 それでも——俺はユートだ。フィーナにもそう答えた。アルトにもそう言った。

 だが——「ユートだ」という答えだけでは、剣は応えなかった。名前だけでは足りない。もっと深い——もっと核心に近い答えが必要なのだ。


 何のためにこの剣を握るのか。


 エイルの代わりに? ——違う。エイルの真似では弾かれることは、もう証明された。

 勇者として? ——違う。俺は勇者ではない。勇者の力を持っていない。

 ルーナを助けるため? ——それは正しい。助けたい。だが——


 ユートの思考が堂々巡りに入った。何のために。誰のために。なぜこの剣を。


 フィーナの顔が浮かんだ。「お兄ちゃんは優しい?」と聞いた子供の笑顔。あの子の前では——ユートでいられた。エイルの影なんか全くちらつかず、ただ「お兄ちゃん」として接してもらえた。

 だが、剣の前ではそうはいかない。剣はエイルを知っている。エイルと一つだった。その剣に対して——「エイルじゃない俺」が部分でしかない魔力を通そうとしても、剣は何を基準に受け入れればいいのか。


 丸ごと——俺を丸ごと、見せなければいけないのかもしれない。だが、見せるべき「俺」が——まだ、自分の中で固まっていない。


 時間が過ぎた。一時間。二時間。剣の前に座り続けたが——答えは出なかった。焦燥が胸の奥でくすぶっている。早く答えを出せ。あの子が待ってる。他の皆も待ってる。——だが、焦れば焦るほど、思考が答えから遠ざかっていく。


  * * *


 昼を過ぎた頃。ユートはまだ加工台の前にいた。


 ミラが水と干し肉を持ってきたが、ユートは受け取るだけで手をつけなかった。集中が切れるのが怖いのだろう——ミラはそう判断して、それ以上は何も言わなかった。


 アルトは壁際でノートに何かを書いていたが——途中からペンを置き、静かに鍛冶場の中を歩き始めた。壁面の光を見たり、道具を眺めたり、炉の炎の揺れ方を観察したり。アルトなりに——この空間から何かを読み取ろうとしている。


 ミラは——杖を握ったまま、ユートの背中を見ていた。ユートの魔力波形が——揺れている。測定するまでもなく、乱れているのがわかる。エイルの残滓と自分の魔力の間で——ユートの中の波が、揺れ続けている。

 昨日とは違う。模倣をやめた分、自分の魔力だけで向き合っている。それ自体は正しい方向だ。だが——自分の魔力に自信がないから、波が知らず知らずエイルの残滓に引きずられようとする。そのたびに押し戻し、また引かれ、また押し戻す。繰り返し。

 ——明日か明後日には、折り合いがつく。そんな見立てを立てている自分に気づいて、ミラは小さく息を吐いた。まるで他人事みたいに——だが、ミラにとっては他人事ではない。ユートが立ち直ることは、パーティ全体の戦力回復に直結する。アルトひとりに背負わせている重さを——分散させるためにも。


 そして——午後の遅い時刻。炉の炎が少し弱くなり始めた頃。アルトが自然な足取りで、ユートの傍に来た。


「ユートさん」


「……ん」


「一つ聞いてもいいですか」


「何だ」


 アルトは——ユートの横に腰を下ろした。加工台の前。折れた剣が目の前にある。金色の光は穏やかに脈打っている。


「ユートさんは——誰のために、剣を握るんですか」


 静かな声だった。

 問い詰める声ではない。教師のような声でもない。ただ——知りたいだけ。本当に知りたいという、素朴な問い。


 ユートは——その問いを、正面から受け止めた。


「……さっきからずっと、それを考えてた」


「答えは出ましたか」


「出てない。——エイルのためじゃない。それはわかった。勇者の使命のためでもない。じゃあ誰のためかって——ルーナのためか? あの子を助けるため? それはある。確かにある。でも——」


「でも?」


「それだけだと——足りない気がする。『ルーナを助ける』は目的だ。でも剣が聞いてるのは——目的じゃなくて、もっと——」


 ユートの手が宙を彷徨った。うまく言葉にできない。


「……在り方、なんだと思います」


 アルトが、静かに言った。


「剣が聞いてるのは、『何のために握る』じゃなくて、『どんな自分として握る』じゃないですか。目的は同じでも——握る自分が違えば、魔力の形が変わる。エイルさんの模倣として握るのと、ユートさん自身として握るのとでは——同じ目的でも、流れる力が全然違う」


「……どんな自分として」


「ユートさんは——前に言いましたよね。『あの子が月を見て笑ってた。その笑顔をもう一度見たい。それが俺の気持ちだ』って。あれは——エイルの借り物じゃなくて、ユートさんの本物の言葉でした。それを——剣に、聞かせたらいいんじゃないですか」


 アルトの言葉は——いつも通り、難しくなかった。複雑な理論でもなく、大いなる啓示でもなく。ただ——ユートが以前に自分で言った言葉を、もう一度目の前に並べただけ。


 だが——その「ただ並べた」ことが、ユートの中で何かを動かした。


 * * *


 あの子が月を見て笑った。「きれいだね」と言った。花を摘んで枕元に置いて消えた。

 俺は——あの笑顔をもう一回見たくて旅に出た。名前も知らない子を追いかけて。馬鹿みたいだ。理由としては弱いかもしれない。勇者の志とは比べ物にならない、ちっぽけな個人的な動機。


 でも——それが、俺なんだ。


 エイルは世界を救うために剣を握った。勇者として。妖精族を守るために。ルーナを止めるために。大きな理由。大きな責任。大きな覚悟。

 俺は——月を見て笑った女の子の笑顔をもう一度見たいだけだ。


 それでいいのか? それだけで——この剣を握る資格があるのか?


 ユートは——目を閉じた。手を伸ばして、折れた剣の柄に触れた。今度は魔力を流さない。心を通す——とケイスは言った。自分が何者かを、剣に聞かせろ、と。


 ——俺はユートだ。勇者じゃない。特別な力もない。ただ——月を見て笑った女の子を助けたい。それだけの人間だ。


 柄が——微かに、温かくなった。


 弾かれなかった。拒まれなかった。金色の光が——ほんの少しだけ、ユートの手に馴染むように柔らかくなった。応えてはいない。まだ受け入れてはいない。だが——拒んでもいない。


 ——聞いてくれてる。


 ユートの手が震えた。涙は出なかった。代わりに——喉の奥がぎゅっと詰まった。


「……俺は——俺だ」


 掠れた声が漏れた。小さすぎて、アルトにも聞こえなかったかもしれない。だが——剣には、届いたはずだ。


 * * *


 夜。


 鍛冶場を出て、洞窟で休息する時間。ユートは疲労していたが——昨夜とは違う顔をしていた。


「ユートさん。今日のラスト——弾かれなかったですね」


「ああ。まだ受け入れてもらえたわけじゃない。でも——門が、少しだけ開いた」


「明日——」


「明日は、全部曝け出す。俺がどんな人間で、何のためにこの剣を握りたいのか。全部。借り物なしで」


 アルトが小さく笑った。穏やかな笑み。

 ——だが、その笑みの裏で。アルトの右手は、背嚢の紐を握りしめていた。


 ユートが前に進んでいる。ミラも理論を進めている。全員が立て直しに向かっている。——それは嬉しい。本心から嬉しい。自分が急いでいるぎりぎりの中で、他の二人が確実に歩を進めているのは——純粋に、安堵だ。


 なのに。

 胸の奥で——焦りが、じくじくと燃えている。


 立ち直るのに時間がかかる。それは仲間のせいではない。必要な時間だ。わかっている。——だが、その間にもリアラはルーナの側で困っている。バルの中の残滓は少しずつ漏れ続けている。世界の乱れは日に日に強くなっている。全部同時に進行していて——止まっている余裕など、本当はないのだ。


 急がねば。急いでいるアルトを——誰も知らない。笑顔の裏側で焦れているアルトを。


 アルトはその焦りを飲み込んで、笑顔を維持した。いつものように。完璧に。——完璧すぎるくらい、完璧に。


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