第93話:拒む剣
鍛冶場に着いて一日が経った。
里を発つ朝、長老は「急ぐ必要はない」と言っていた。だが——アルトの中では、時計の針が鳴り続けていた。リアラのこと。バルの不安定さ。世界の乱れ。全部が同時に進行していて、止まっている時間はない。
だが、再鍛造には準備がいる。ケイスが炉の状態を確認し、道具の調整を続けていた。源流の炉を前にしてからのケイスは、初日の震えをそのまま静かな熱に変えたように、黙々と手を動かしている。言葉は相変わらず極端に少ない。必要なこと以外は一切話さない。だが手は正確で、道具を扱う指先には長い修練が滲んでいた。
「炉の状態は悪くない。三百年の不使用を考えれば——良い方だ」
ケイスが短く言った。加工台の表面を布で拭き、溝に溜まった塵を丁寧に取り除いている。光の粒子が溝の中で再び流れ始め、回路が息を吹き返した。
「始められるのは——明日の朝。炉の魔力が最も安定する時間帯に合わせる。剣を台に置き、持ち主が魔力を通す。それだけのことだ」
「それだけ……ですか」
「手順は単純だ。難しいのは手順ではない。——お前自身の問題だ、剣士」
ケイスがユートを見た。感情のない目——だが、見通すような鋭さがあった。ユートは何も言えなかった。ケイスが何を見抜いたのか——正確にはわからない。だが、何かが見抜かれたことは、わかった。
* * *
翌朝。
鍛冶場の空間は、前日よりもさらに魔力が濃くなっていた。炉の炎が高く、明るく燃えている。壁面の光が強い。空気の中の振動が——昨日より一段深い。世界の心臓が、目覚めつつあるような圧力。
「——始めろ」
ケイスが静かに言った。鍛冶場に立ち入るのは、必要な者だけでいい——不必要な魔力が入ると、炉の調和が乱れる。前夜、ケイスはそれだけを短く説明していた。三百年ぶりに目覚めようとしている炉に、余計な気配を近づけたくないのだろう。
アルトとミラは壁際に座って見守っている。バルはアルトの背中で沈黙している——この場所では残滓が穏やかだが、それでも鍛冶の炎に対して微かに反応しているのが、布地の細かい震えからわかる。
ユートが加工台の前に立った。
折れた剣を——両手で、ゆっくりと台の上に置いた。
光が走った。前回と同じように、剣と加工台の溝が共鳴し、金色の粒子が炉の炎に向かって流れていく。脈動が始まる。同じリズム。同じ波長。剣は——この場所を覚えている。
「柄を握れ。そして——魔力を通せ。お前の魔力を」
ケイスの指示は簡潔だった。
ユートは深く息を吸い、剣の柄を握った。左手を添え、右手で強く——
——弾かれた。
「っ!」
衝撃が手のひらを貫いた。電撃のような、鋭い拒絶。指が勝手に開いて、柄から手が離れた。剣は加工台の上に転がったが——光は消えていない。脈動も止まっていない。剣は壊れたわけではない。
剣が——ユートを、拒んだのだ。
「もう一度」
ケイスが言った。表情は変わらない。
ユートは歯を食いしばって、もう一度柄を握った。今度は注意深く。魔力を——少しずつ、川の流れに手を浸すように、流し込もうとして——
弾かれた。二度目は一度目より強かった。手のひらから腕、肩まで衝撃が走り、体が半歩後ろにぶれた。指先の感覚が消えた。手首が軋む。——本気で拒まれている。
「くっ——!」
ミラが壁際から身を乗り出しかけた。が——アルトが首を微かに振って、止めた。今は、見守る時だ。ミラは杖を握り直して座り直したが——二度の拒絶の衝撃がどれほどのものか、魔力感知で感じ取っていた。剣の側が放出した拒絶の波は、防御魔法に近い強度だった。あれを素手で受けて平然としているユートの耐久力は尋常ではないが——三度目は持つのか。
「焦るな。三度目。ゆっくりと」
三度目。ゆっくりと。丁寧に。指先から僅かな魔力を——
弾かれた。
三度目は——痛みだけでなく、ビジョンが走った。
一瞬だけ——だが、圧倒的な鮮明さで。
炎の前に立つ若い男の姿が見えた。長い黒髪を後ろで束ね、穏やかな目をしている。長い剣を両手で掲げ、炉の炎に刃を差し入れる。迷いがない。恐怖もない。自分の魔力が指先から刃に流れ、刃が炎と一つになり、炎が剣の魂と溶け合い——全部が一つの流れになっている。その流れに逆らうものは何もない。水が低い方へ流れるように、自然で、必然で、美しかった。
エイル。かつてこの場所で——この炉の前で——こうやって、この剣を打ったのだ。
ビジョンが消えた。
現実に引き戻された衝撃で、ユートは膝をついた。手のひらが焼けるように痛い。だが、それ以上に——心が痛かった。エイルの完璧な調和を見てしまった。あの自然さ。あの迷いのなさ。自分には——あれが、できない。真似しようとしても届かない。そもそも真似すること自体が——違うのだと、剣が言っている。
「……なんで」
ユートが掠れた声で言った。
「なんで、受け入れてくれないんだ。俺は——お前を直したいだけなのに」
剣は答えなかった。加工台の上で、穏やかに光り続けている。拒んでいるのに——怒っているわけではない。ただ——噛み合わない。何かが、どこかが、ずれている。
「剣は壊れていない。折れているだけだ。折れた剣は——正しい手で握れば、炉に入れる前から応える」
ケイスが淡々と言った。
「お前の手が——正しくないのだ。今は」
「正しくないって——何が」
「それは俺に聞くことではない。剣に聞け」
ケイスが——少しだけ、声を和らげた。
「焦ることはない。祖父が言っていた。エイルが初めてこの剣に自分の魔力を通した時も、簡単にはいかなかった——三日かかった、と。大事なのは手順ではなく——お前がどんな自分として剣を握るか、だ」
どんな自分として。
ユートは——自分が何として剣を握ろうとしたか、振り返った。
勇者の残滓を宿す者として。エイルの力を受け継いだ者として。——借り物の力で、剣を直そうとした。エイルが流していた魔力を真似ようとした。三度目のビジョンがそれを証明している。無意識に——エイルの記憶をなぞろうとしていたのだ。
剣はそれを拒んだ。正確には——エイルの模倣で通された魔力を、「違う」と弾いた。お前はエイルではない。エイルの方法は、お前の方法ではない。
「——今日はここまでだ」
ケイスが道具を片付け始めた。
「明日もう一度。……今夜は、考えておけ」
* * *
鍛冶場を出た後。洞窟の中で、ユートは壁にもたれて座り込んだ。
拳を握って。開いて。また握って。
手のひらに、剣に弾かれた時の痛みがまだ残っている。痺れは引いたが——心の痛みは消えない。直そうとした。ちゃんとやろうとした。なのに——拒まれた。
「ユートさん」
アルトが隣に座った。水袋を差し出す。
「……ありがとう」
「さっきのは——技術的な失敗じゃないと思います。ケイスさんが言ってたのは——たぶん、もっと根本の話です」
「わかってる。——俺は、エイルのやり方で剣を握ってた。無意識に。エイルの記憶にある感覚を再現しようとしてた。それが——違ったんだ」
「ユートさんは——ユートさんの魔力で、握らないといけない」
「俺の魔力……。俺は——勇者の力を持っていない。あるのはエイルの残滓と、自分自身の普通の魔力だけだ。そんなもので——勇者の剣が受け入れてくれるのか」
アルトは——しばらく考えて、言った。
「受け入れてくれるかどうかは、剣に聞かなきゃわからないですけど。でも——一つだけ確かなのは、エイルさんの真似をしても通らないってことです。それはもう証明されました。だったら——やることは一つですよね」
「……ああ。——俺自身を、試すしかない」
「明日、もう一度やりましょう。今度は——ユートさん自身の力で」
励ましではなかった。事実の確認だった。やるべきことが一つに絞られた。それだけのことだ。だが——その「それだけ」が、今のユートには一番難しい。
エイルの影を完全に手放して。借り物ではない自分として。——勇者の剣の前に、立つ。
* * *
夜。
焚き火が小さく燃えている。ケイスは洞窟には戻らなかった。炉の傍が自分の寝床だと——いや、正確には何も言わず、毛布一枚を抱えて鍛冶場の光の中へ戻っていった。三百年待った場所と、二人きりになりたいのかもしれなかった。アルトが一番手の見張りに就き——案の定、その後ユートもミラも起こさずに朝まで続けるつもりなのだろう——焚き火の傍で静かにノートを開いている。
ミラは焚き火の向こう側で横になっていたが、眠れてはいない。術式の計算を頭の中で回し続けている。
ユートは——二人の気配を確認してから、そっと立ち上がった。
洞窟を戻る。鍛冶場とは反対の方向へ。渓谷へ出る手前——横断を終えた日に全員で倒れ込んだ、あの広い岩棚で足を止めた。これより先は、一人では渡れない。だから——渓谷のこちら側の、岩棚の端に座って。闇の中で。
手を見た。
剣に弾かれた手。三度の衝撃で赤く腫れている。指先にまだ微かな痺れが残っている。エイルの模倣を拒まれた手。——この手で、何ができる。
ここからは、空も月も見えない。見えるのは、対岸まで続く岩壁の淡い明滅だけだ。渓谷の奥からは魔力嵐の唸りが、遠雷のように低く届いてくる。それでも足元では、水の流れる音が静かに続いている。世界の深部の、穏やかな鼓動。——不思議と、この場所は、世界が壊れていることを忘れさせてくれる。
エイルのビジョンを思い返した。あの完璧な調和。迷いのなさ。自分の魔力が剣と一つになる瞬間。——あれは、十六歳の時のエイルだ。若き日の、まだ青い勇者。あの若さで——あれほどの確信を持って剣を握れた。
俺は——二十歳を過ぎて、まだ自分が誰かもわからない。
「……俺は、誰だ」
フィーナに聞かれた問いを、自分に投げ返した。あの時は即答できた。「ユートだ」と。名前は言える。自分がユートであることは——もう疑っていない。フィーナとの時間で、それは確認できた。
だが——剣の前では、その答えだけでは足りなかった。名前を知っていることと、自分として立つことは——違う。「ユートだ」と言えても、「ユートとして剣を握る」ことができていない。エイルの影を手放しきれていない。自分の魔力に自信がない。勇者の力がなければ——この剣は応えてくれないのではないか、と。
「……でも、エイルの真似じゃ通らねぇんだよな」
独り言が闇に溶けた。
アルトの言葉を思い出す。「やることは一つ」——ユート自身を試す。それしかない。エイルがどうしたかは関係ない。ユートがどうするかだ。
手を握った。赤く腫れた手を。痛い。だが——この痛みは本物だ。借り物じゃない。ユートの手が受けた、ユートの痛みだ。
ユートは膝を抱えて、朝を待った。岩棚の冷たさが腰に染みた。眠らなかった。——眠れなかったのではなく、眠らないことを選んだ。明日の再挑戦に向けて——自分自身と、向き合い続けるために。




