第004話 『追跡の鎖』
走る。ただ、走る。
さっきまで潜んでいた壁と壁の抜け道を飛び出し、さらに裏路地を突っ切る。
深夜の街は迷路だ。
乱雑に並んだ自転車の群れが、行く手を塞ぐ障害物みたいだけど、それでも走るしかない。
電柱の影と街灯の光が交互に地面を舐めていく。
点滅する灯りが「逃げ切れないぞ」とでも言いたげに、俺たちの影を不規則に伸ばしていた。
視界の端では、ビルの谷間を這うようにサーチライトが蠢く。
あれは蜘蛛の糸だ。
音もなく、獲物を絡め取る罠が広がっている。
「はっ……く、そ……!」
呼吸が荒い。肺が焼けつく。
心臓は胸をぶち破って飛び出しそうな勢いで跳ねていた。
けど、足は止めない。
止めたら即、ゲームオーバーだ。
「この先、右! 」
「了解!──虚空の裂け目へ侵入する!」
「ぜっ……!はっ……普通に通路って言え……!」
靴も履いてないくせに、あいつの足取りはやたら軽い。
……いや、軽すぎるだろ。まるで風だ。
やばい、俺のほうが遅れてる。
「……おい、俺置いてくなよ!」
「安心して!ちゃんと見てる!」
そこで振り返るな。
何その余裕。
こっちは全力疾走で死にかけてんだが!?
「こっち見んな! 全力で逃げろ!」
「ならば、双影疾走──二人で一つ!」
「…………だあああああッ!クソッ!速ぇなおい!!」
この子、やっぱりただ者じゃない。
靴もなく、傷だらけで、ここまで走れるもんなのか?
「───こっち、抜け道!」
俺が指差した先、細い路地へとつんのめるように滑り込む。
その直後、背後をドローンのサーチライトがギリギリでなぞっていった。
足がもう棒みたいに重い。
けど──……あれ?
さっきから、彼女の足音がしない。
靴もない裸足なのに、地面を打つ音が聞こえない。
生き物じゃないみたいな走りで、これじゃまるで影みたいだ。
俺は思わず声をかける。
「なんでそんなに走れんだよ? その足、怪我してんじゃ──」
「ふふ……風の盟約はすでに我が身と結ばれた」
「いや盟約ってなんだよ………」
ぶち込まれた放たれた謎ワードに、思考が一瞬だけ止まる。
こっちは汗だくだってのに、彼女は壁にもたれて軽く息を整えるだけ。
なのに、その顔に疲れの色はほとんどなかった。
「逃げるとき、風を操る人がいて……その色を、すこしだけ借りた」
「───は?」
『色を借りた』?
いやいや待て待て、それどういうことだよ。
この子の能力って、『色を視る』のはず………まさか、能力の『深化』?
そんな単語が脳裏をよぎる。
だが立ち止まって考えてる場合じゃなかった。
ブゥゥン……低い羽音が、空気を震わせる。
今度は背後じゃない。真上だ。
はっとして顔を上げる。
街灯の陰、電線の上。
赤い点滅灯が、不気味に脈打ちながら俺たちを射抜いていた。
「───来たッ!」
反射的に、少女の手を掴んでいた。
上空の機体が急降下して、サーチライトで闇を切り裂いて俺たちを追う。
……チッ、完全に捕捉された。
「左っ! 飛び込め!!」
金網を蹴破り、彼女を引き込んで横道へ飛び込んだ。
鉄の軋みと俺の荒い息が重なる。
突然、背後のドローンから、何かが射出された。
嫌な予感がしたのと同時に、少女を抱えながら地面へ身を投げる。
地面に肩を打ち付けたその時、視界が白く弾けた。
焼きつく閃光、耳をつんざく高周波。
脳まで揺さぶられるようだ。
「ッ──! フラッシュ!?」
「これは、白閃牢光ッ!」
隣で紗夜が真顔で断定する。
「スタングレネードな!」
肩を打ちつけた痛みも無視して、横転しながらギリギリで光の直撃を外した。
またすぐ走り出すために起き上がると、ブシュッ!っと空気を裂いて飛来したものが、目の前の壁に突き刺さる。
次の瞬間、青白い電撃がバチバチと弾け、周囲の空気を焼いた。
「……っテイザー!? 食らったら終わりだぞ!」
「電撃の鎖……魂を縛る枷」
「格好つけてる場合かぁぁッ!」
肌に残る静電気がチリチリと痺れる。
ほんの数センチ軌道がズレてなかったら、俺は今ごろ全身痙攣して倒れていた。
「次! 来るッ!」
少女が声を張る。
背後から突っ込んでくる機体。
咄嗟に壁に立て掛けてある建材を蹴り飛ばす。
ガラガラと崩れ落ち、それを躱すようにドローンがわずかに体勢を乱した、その刹那。
手近に転がっていた鉄パイプを掴む。
迷いも逡巡もない。
全力で、叩きつける!
ガンッ!と、衝撃が両腕を痺れさせる。
火花が散り、ドローンが弾かれたように壁へ激突。
アスファルトに叩きつけられ、ジジジ……と嫌な火花を吐いて沈黙する。
一機、落とした。
けど安心する暇なんてねぇ。
すでに別の機体が、俺たちを捉えようとしていた。
「走れッ!」
「了解!──双影疾走、再起動!」
まだ追ってくる。
蜘蛛の糸みたいなサーチライトが、次の網を張ろうと伸びてくる。
肺が焼け、足は棒だ。
けど止まれば、終わる。
狭い路地を縫って、ビルの陰を抜けて、ただ前へと駆け抜けた───
***
「………見えた!」
寮だ。
目の前にそびえる四階建ての灰色の建物。
窓にはいくつか灯りが点き、カーテン越しにスマホの光がちらちらと揺れている。
ほんの数十分前まで俺がいた日常。
きな臭い連中も血の匂いも関係ない、ごく普通の世界がそこにあった。
「──っはあ……ここまで来たら、もう……!」
膝に手をつき、肺を裂くような呼吸を吐き出す。
汗が背中を伝い落ち、鼓動はまだ収まらない。
「ふふ……追跡の鎖は断ち切られた。……つまり、撒けた!」
息を整えながら、隣で紗夜が満足そうに告げた。
顔を上げると、彼女はもう足を止めている。
裸足のまま、夜の風に銀髪を揺らし、無言で寮を見上げていた。
ようやく俺も、この先のことを冷静に考えられる。
───この子、どうする?
ここまで連れてきたのは、半分勢いだ。
追跡は切れた。寮に入れることもできるけど、それだけだ。
本当は、この子を置いておく理由なんてどこにもない。
「……なぁ」
声を出しかけて、喉で止まる。
ここで別れるか?
あとは自分でなんとかしろって突き放すか?
無理だ。言えなかった。
だって、見てしまったからだ。
彼女の横顔を。
置き去りにされるのが当たり前みたいな、静かな顔を。
……そうか、先に察してたんだな。
少女は立ち止まったまま、小さく、当たり前のように言った。
「ここで別れても、構わない」
その声音は、驚くほどあっさりとしていた。
だからこそ胸に突き刺さる。
無造作なのに痛みだけは鋭い。
「……別れても構わないって、お前な」
言い返そうとして、気づく。
きっとこの子は、これまで何度も言ってきたんだ。
誰かに。何人にも。
そうやって、自分からひとりきりになる言葉を。
だけど俺は見た。
ほんの一瞬だけ。
目の奥に浮かんだ、小さな影を。
「……っはぁぁぁ、もう……俺の生活、どうなるんだよマジで………」
頭をがしがし掻いて、深く息を吐く。
胸の奥で何度も迷いがせめぎ合う。
関わらなきゃ楽だ。
知らないふりをすれば元の生活に戻れる。
なのに、口から出た答えはひとつしかなかった。
「───しょうがねぇ。一晩だけ、貸してやるよ」
言葉を吐いた瞬間、胸の中の重石が少しだけ軽くなる。
ああ、結局こうなるんだな、俺は。
彼女は一拍遅れて、ぽかんと目を丸くした。
「……っ! ……うんっ!」
その声は、少し震えて聞こえた。
肩がわずかに緩んで、口元もほんの少し笑みに近づく。
けど、慌てて飲み込むように真顔に戻した。
ぎこちなく、悟られまいとするみたいに。
こいつ、本当は安心してるんだ。
なのに、ひとりで平気なふりをしてる。
なんなんだよ。
どうして、そんな顔で、全部ひとりで抱え込もうとするんだ。
ポケットに突っ込んだ手のひらが汗でじっとり濡れている。
それを隠すように拳を握りしめて、俺は寮の玄関へと歩き出した。
背後から小さな足音が追いかけてきて、並んで聞こえた。
空から落ちてきた。
名前すら知らない。
現実感なんて、あるはずがない。
それでも、こうして並んで歩いてるだけで──
この子は、確かに、俺の日常の中に入り込んでいた。
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