第8話 朝箱を一つ、返却します
赤い箱は、開けなかった。
開けていないのに、向こうから開いた。
夜明けの鐘が鳴り終わる。
留め金が持ち上がる。
蓋の隙間から、別の返却室があふれ出した。
「全員、壁から離れろ!」
ベルクの杖が床を三度叩く。
俺たちは赤い箱を鉄籠へ入れ、封印布で包み、荷受け口から最も遠い床へ置いた。
開けないための準備としては十分だった。
箱のほうが、こちらの手順を受領しなかった。
石床が二つに増える。
俺の右足は乾いた灰色の床。
左足は、雨に濡れた青い床。
棚も壁も二重になった。こちらの三十四番棚へ、焼け焦げた別の棚が透けている。空のはずの場所には折れた槍、濡れた手紙、青い王旗。
同じ用途の部屋が、同じ場所へ押し込まれていた。
「そっち、誰かいる?」
ミナが叫ぶ。
青い棚の向こうで、人影が振り返った。
若い兵士が二人。
昨日の急報へ署名していた顔を、ミナが即座に見つける。
「マルタさん! 第四十七小隊のマルタさんですよね?」
「なぜ私の名を――ルシア隊長!」
青い床側の兵士が、ルシアを見た。
ルシアは返事より先に、崩れかけた境目へ走った。
箱から灰色の糸が何十本も伸び、二つの棚を縫い合わせている。その一本が切れるたび、青い天井から石片が落ちた。
「ノア、何秒?」
「分かりません」
「ベルク、箱が開いてから数えて!」
「二十一秒だ。以後、十秒ごとに言う」
ルシアは空の鞘を境目へ差し込んだ。
青い光が閉じようとする。
鞘がきしむ。
彼女は両腕で押し返した。
「私はここを保つ。ノア、箱を止めて」
短い名前と動詞。
亡き相棒との合図ではない。
今の俺へ向けた、初めての指示だった。
「受領しました」
俺は赤い箱へ向かう。
カイルが前へ出た。
「私が触れる。あなたは後ろで見ろ」
「持ち主の分からない物は、触っても返せません」
「なら私が持ち主を聞く」
「箱は誰の物です」
「知らない」
「終了です」
カイルの敬語が一段深くなった。
「では、あなたはどうするおつもりですか」
「一度、失敗を記録します」
俺は箱の側板へ左手を置いた。
赤い塗料。灰色の糸。持ち主の癖が残らない新品の釘。
差出人は不明。
受取人も不明。
誰かが作った。だが作ったことと、現在の所有は違う。
「この朝箱を、差出人へ。《返却》」
何も起きない。
予想どおりの不発。
箱自体には、帰る相手がいない。
「四十秒」
灰色の糸が赤く光った。
箱の中から、品が浮かび上がる。
十二個。
銀の呼子が二つ。
革の手袋が二組。
真鍮の鍵が二本。
子供用の木杯が二つ。
兵士の認識票が二枚。
最後に、同じ番号を刻んだ受領印が二本。
どれもよく似ている。
違う世界で、同じ名前の人へ使われた品だ。
呼子同士が触れる。
甲高い音とともに、こちらの壁が一尺消えた。
木杯が重なる。
青い床が現在の記録棚へ食い込んだ。
「同じ品が、場所を取り合っています!」
ミナが十二個を見渡す。
「同じじゃない」
俺は言った。
銀の呼子は、片方だけ歯形がある。
革手袋は、縫い直した指が左右で違う。
鍵は先端の欠けが逆。
木杯には、別々の子供の身長線。
認識票の文字は同名でも、死亡日が一日ずれている。
「同じに見えるだけです。持ち主も、使った時間も違う」
箱の底に、赤い紙が貼られていた。
『返却先を一つ選べ』
それだけ。
選んだ側へ十二個を返せば、もう片方の部屋は押し出される。
そういう仕掛けなのだろう。
十五日を待たず、正しい世界を一つ決めさせるための箱。
「六十秒」
ルシアの空の鞘へ、ひびが入った。
「ノア、あと何個!」
「十二個」
「減ってない!」
「今からです」
俺は二つの呼子を取った。
右の呼子には、歯形が二つ。吹き口へ白砂。第四十七小隊の番号。
青い床側のマルタは、腰の紐だけを残している。
「マルタさん、呼子を失くしたのはいつです?」
「昨日! 南階段で、門を落とす前!」
「歯形は」
「二つ。昔、獣に踏まれて曲がったのを歯で戻した!」
十分だ。
「この呼子を、第四十七小隊のマルタへ。《返却》」
一つ目。
銀が消え、青い床側の彼女の手へ収まる。
向こうの棚が輪郭を取り戻した。
もう一つの呼子を、ミナが指す。
「こちらの北門衛兵、セドさんです。奥さんが呼子の音を嫌って、中へ蝋を詰めたって話してました」
吹き口の奥に、黄色い蝋。
俺は本人の顔を知らない。
だがミナは、妻の名前と住む通りまで覚えている。
「現世界の北門衛兵セドへ。《返却》」
二つ目。
呼子が消える。
こちらの壁が戻った。
箱の赤い塗料が一部、灰へ崩れる。
「八十秒」
「あと十個!」
「能力はあと一回です」
短時間に三回を越えれば、所有者の像が混ざる。
一昨日、三度使った右腕は、まだ完全ではない。
カイルが真鍮の鍵を二本並べた。
「片方は現世界北門の地下道鍵だ。先端左側に欠け。私が今朝、管理官から受領した」
「もう片方は青旗側!」
ルシアが境目を押さえながら叫ぶ。
「先端右。マルタ、今の管理者は?」
「私です! 隊長が越境してから預かりました!」
二本。
持ち主も二人。
返せるのは、あと一つ。
どちらを選んでも、もう一方を能力では戻せない。
『返却先を一つ選べ』
赤い紙が、正解を急かす。
「選びません」
俺は青旗側の鍵だけを取った。
「この地下道鍵を、青旗の北門管理者マルタへ。《返却》」
三つ目。
鍵が消える。
指先から、腕、肩へ冷えが上がった。
マルタの手に鍵が届く。
青い部屋が安定する。
現世界の鍵は、カイルが自分の手で腰へ戻した。
「能力を使わないのか」
「あなたがここにいるので」
「効率が悪い」
「人手を使うのも仕事です」
残る品を、二色の白布へ分ける。
ミナが人を言う。
俺が傷を見る。
カイルが現世界の記録を読む。
ルシアが青旗側の使い方を答える。
青い床の二人も、自分たちの品を一本ずつ引く。
一人で十二個を返す必要はなかった。
正しい場所が二つあるなら、両側の人間が受け取ればいい。
「百十秒!」
最後に残ったのは、受領印が二本。
こちらの印は縁の右が欠けている。
青旗側は左が欠けている。
鏡に映したような二つの返却室。
ベルクがこちらの印を握る。
向こうではマルタが青い印を取る。
「押せ!」
室長の声に合わせ、二人が別々の受領票へ印を落とした。
赤い紙が裂けた。
灰色の糸が、十二本すべてほどける。
「ルシア、離れて!」
「何歩!」
「こちらへ三歩!」
彼女が鞘を抜き、俺たち側へ跳ぶ。
青い床が遠ざかる。
最後にマルタが鍵と呼子を掲げた。
「隊長! 十五日、もたせます!」
「十四日で戻る!」
ルシアが答える。
二つの返却室が分かれた。
赤い箱は中央から割れ、板、釘、塗料へ崩れる。
俺は床へ座り込んだ。
右腕は完全に感覚がない。
それでも、棚は一つだけだ。
壁も、床も、ここにある。
「箱は返せなかったな」
ベルクが四つ折りの受領票を胸へ入れる。
「中身は全部返しました」
「記録上は何と書く」
俺は赤い板の残骸を白布へ集めた。
「朝箱一件。返却完了」
「箱自体は残ってるのに?」
ミナが聞く。
「細かいですね」
「ノアに言われたくありません」
ルシアが、ひび割れた空の鞘を拾う。
「さっきの合図」
「三歩ですか」
「うん。分かりやすかった」
「では次も、名前と動詞と歩数で」
「受領した」
彼女が使った言葉は、亡きノアのものではない。
この返却室で、今覚えた言葉だった。
◆
翌朝。
八件分の受領票をまとめ終える前に、九つ目の朝箱が届いた。
今度は赤くない。
普通の木箱だった。
ただし、灰色の糸が九本使われている。
結び目は、すべて違った。
荷札の差出人欄には、異なる筆跡で一文字ずつ。
『ま』『だ』『返』『す』『物』『が』『あ』『り』『ま』『す』
「十人いません?」
ミナが数えた。
俺も数え直す。
十文字。
糸は九本。
差出人は一人ではない。
そして、人数すらまだ合っていなかった。




