勇者の朝食は三人前でも足りない
十文字。
九本の糸。
数え直しても、箱は謝らなかった。
「十人目が糸を忘れたんでしょうか」
ミナが一番平和な可能性を口にした。
「世界を越える荷物に参加して、最後だけ裁縫道具を忘れますかね」
「大仕事ほど、そういう人が一人います」
否定しにくい。
俺は感覚の戻らない右腕を布帯で吊り、左手だけで九つ目の朝箱を調べた。
灰色の糸は九本。それぞれ別の結び方で、蓋の穴から差出人札へ続いている。
『ま』『だ』『返』『す』『物』『が』『あ』『り』『ま』
ここまでは、糸がある。
最後の『す』だけ、糸がない。
それどころか札の紙も違った。
最初の九枚は青白く、端へ細かな灰が混じっている。最後の一枚は黄みが強く、王宮で使う安い記録紙と同じ繊維だった。
「こちらの紙です」
俺が言うと、カイルが扉の警備兵を振り返った。
「昨夜、入室した者は」
「いません。封蝋も私が確認しました」
「では、紙だけが歩いたと?」
怒っている時のカイルは、疑問まで整列する。
ルシアが最後の札へ顔を寄せた。
「インクも違う」
「分かるんですか」
「青旗の記録墨は、雨で青くにじむ。これは黒い」
俺は札の端を白布で軽くこすった。
黒い粉が付く。乾いてから、まだ半日も経っていない。
九人が別世界から途中まで書いた文章へ、こちら側の誰かが最後の一字を足した。
しかも、封印された返却室の中で。
「開けますか?」
ミナが聞いた。
「開けます。ただし、釘からです」
「お腹からではなく?」
低い音が返却室へ響いた。
全員がルシアを見る。
彼女は焼けた青い外套の上から腹を押さえた。
「今のは床」
「床は空腹になりません」
「昨日、部屋を一つ押し返した」
「鞘でです」
「私も押した」
勇者の反論としては正しいが、音はもう一度鳴った。
ベルクが杖で床を一度叩く。
「ノアとミナは検品。カイルは警備の再確認。ルシアは食堂へ行け」
「箱が先」
「空腹の人間を危険物の前へ置かん」
「一皿で戻る」
「三皿食え。命令だ」
禁止だけで終わらせず、代わりの仕事を渡すのがベルクのやり方だ。
食事は仕事ではないと思うが、ルシアは真剣にうなずいた。
「受領した」
◆
箱の釘は十一本。
十本は、これまでの朝箱と同じ星印。
最後の一本だけ王都製で、頭に白い糸が巻かれていた。
糸は切れた箇所を隠す飾りではない。釘穴が広がらないよう、板の内側まで通して留めてある。
「直してから、一字足した」
ミナが縫い目を指で追う。
「この人、急いでいます。でも雑じゃない。針を二回戻してる」
「知っている縫い方ですか」
「白い糸は珍しくないです。でも、この戻し方は荷重がかかる物用です。担架とか、背負い袋とか」
蓋を外す。
中に武器はなかった。
木の匙が三本。
底のへこんだ銅椀が一つ。
白糸で二つに縫い合わされた配給札。
札の表には、現世界の文字でこう刻まれていた。
『北水路第三配給所 朝粥三人分』
「こちらの品です」
ミナが匙を一本取る。
「こっちは青旗です。柄に鐘楼が六つ彫ってあります」
もう一本も青旗。
三本目だけ、王都食堂の焼き印がある。
違う世界の匙二本と、こちらの匙一本を、白い糸が束ねていた。
王都食堂の匙には、柄の中央に浅い噛み跡があった。
「これ、ティナさんのです」
ミナが言う。
「食堂で皿洗いをしている子です。考え事をすると匙の柄を噛むので、料理長に毎回叱られてます」
「本人へ確認を」
警備兵が食堂へ走った。
戻ってきたティナは、息を切らしながら噛み跡を三つ数えた。
「私のです。昨日、北水路の配給所へ粥鍋を届けて、そのまま失くしました」
「白糸で束ねた人を見ましたか」
「いいえ。匙を置いたのは第三配給所の裏です。戻った時には、鍋だけでした」
俺は匙へ左手を置く。
右腕の感覚はない。越境を含まない小物なら、一度だけ試せる。
「この匙を、ティナへ。《返却》」
木の柄が消え、三歩離れた彼女の手へ収まった。
成功。
最後の一字と同じく、三本目の匙も現世界から足された品だ。
ティナは匙を見てから、俺を見た。
「洗ってから返してほしかったです」
「能力に洗浄機能はありません」
「便利なのに惜しいですね」
人の固有能力へ食堂の要望を追加しないでほしい。
俺は配給札へ触れた。
擦れた角。油。何度も濡れて乾いた波打ち。
所有者ではなく、配給所が順番を管理するための共有物だ。一人へは返せない。
裏返す。
白糸の下に、小さな字が隠れていた。
『腹を満たしてから来い。破れた世界は、空腹では縫えない』
「比喩ですね」
俺は言った。
「ノア、そこが最初に気になるんですか?」
「空腹で世界を直せる人にも心当たりがないので」
差出人の名はない。
だが北水路第三配給所は、現世界の王都にある。
十人目は向こう側にいない。
こちら側で箱を待ち、直し、文章を完成させ、中へ品を足した。
扉の封蝋を破らず、棚にも足跡を残さずに。
侵入者が部屋へ入ったのではない。
朝箱がこちらへ着く、その出口へ手を差し込んでいる。
だとすれば十人目は、灰衣の差出人たちより近い。
近い分だけ、こちらの暮らしも警備も知っている。
◆
調査前に、俺たちは食堂へ上がった。
ルシアは一皿で戻ると言った。
実際には、麦粥三杯、固焼きパン二枚、塩漬け肉、豆の煮込みを食べていた。
「三皿では」
「器が小さい」
「王宮の規格です」
「青旗では負傷兵用」
食堂係が傷ついた顔をしたので、俺は言い換えた。
「四割でも燃費は全盛期なんですね」
「強そうに聞こえる」
「食費の話です」
彼女は三枚目のパンを割り、半分を俺の皿へ置いた。
「右手、まだ動かないんでしょ」
「食べても治りません」
「空腹では縫えない」
箱の文面を、そのまま返された。
青旗のノアなら、どう答えたのだろう。
考えかけて、やめる。
俺は俺の好みで、パンを豆の汁へ沈めた。
「これは受領します」
ルシアが少し笑った。
「青旗のノアは、パンを汁に入れなかった」
不意に言われ、手が止まる。
「そうですか」
「固いまま、長く噛んでた。見張りの眠気が飛ぶからって」
「俺は食事でまで働きたくありません」
「うん。そこは違う」
比べられたのに、昨日ほど息苦しくなかった。
違うと確かめるための言葉なら、亡き人の続きを演じろという命令にはならない。
俺は十分に柔らかくなったパンを食べた。
その時、白糸でつながれた配給札の端から、乾いた粉が落ちた。
王宮の小麦ではない。
北水路で配られる、石灰混じりの粗い粉。
十人目は、王都のどこかにいるのではない。
北水路で、俺たちが来るのを待っている。




