四割の勇者は三歩目で転ぶ
勇者は三歩目で転んだ。
伝説としては短い。
測定結果としては、かなり重要だった。
「二歩」
カイルが記録板へ書く。
「違う。二歩半」
地面へ伏せたまま、ルシアが訂正した。
「半歩目で顔から落ちた」
「足は進んだ」
「顔も進みました」
俺は白線の横へしゃがみ、彼女の長靴跡を測った。
一歩目は深い。
二歩目は浅い。
三歩目の左足は爪先しか着いていない。
身体は全盛期の距離を覚えている。だが土地から借りる加護も聖剣もなく、現世界で出せる力は約四割。
結果、足より先に勇者の予定だけが進む。
「全力移動は二歩までです」
「二歩半」
「記録へ顔面は含めません」
ルシアが起き上がり、鼻先の土を払った。
「次」
「休憩です」
「まだ一回」
「普通剣を一回折りました。全力で二歩半。午前中に食堂を半分空にしました」
「最後は関係ない」
「補給担当にはあります」
訓練場の端で、ミナが折れた木剣を白布へ包んでいる。
刃はない。だが握りのすぐ上から、きれいに割れていた。
ルシアは全盛期と同じ力を流し込もうとする。普通の武器は、勇者より先に限界を迎える。
カイルが新しい訓練剣を差し出した。
「四十一番。倉庫で最も厚い」
「重いね」
「折られる側にも都合があります」
「一撃だけ?」
「一撃だけです」
怒りがあるほど数字の細かくなる二人が話すと、訓練場が帳簿になる。
俺は柱の間へ白い紐を張った。
九つ目の箱で配給札を縫っていた糸と、同じ太さのものだ。ミナが王宮の修繕庫から選んだ。
「合図を決めます。名前、動詞、歩数」
「昨日の三歩」
「昨日は三歩動けた。今日は三歩目で床と親しくなりました」
「床とは昨日も親しかった」
「自慢ではありません」
ルシアは剣を肩へ置く。
笑っているが、目は白線と紐を測っている。
失敗を恥へ隠さない。それは全盛期から残った、いちばん強い部分かもしれない。
「ルシア、進め、二歩」
彼女が動く。
一歩。
二歩。
白紐の直前で止まる。
剣を振り下ろす。
木の標的が縦に裂け、四十一番の剣へ亀裂が走った。
折れる寸前で止まっている。
「一撃」
カイルが記す。
「次は」
「剣を置く」
「敵が待ってくれる?」
「待たないので、置くまでを俺が作ります」
俺は紐の結び目をずらした。
言ってから、自分でも大きく出たと思う。
俺は自前の棍棒を持つ雑兵一人に負ける。
作れるのは間合いではない。
品の到着順と、逃げるための数秒だけだ。
「では試す」
カイルが自分の木杖を取った。
軍の備品ではない。火傷した右腕の訓練用に、彼が私費で削った物だ。
「ノア、この杖を私から奪ってみろ」
触れて、持ち主を思う。
杖は動かない。
「あなたの自前です」
「敵が正当に持つ武器なら、同じ結果だ」
カイルはルシアへ向き直り、木杖を構えた。
「四割の勇者殿。ノアが三秒を作るまで、私を止めてください」
「普通の杖?」
「普通です」
開始の声と同時に、カイルは踏み込んだ。
速い。
ルシアは四十一番で受ける。
力を込めれば剣が折れる。抑えれば杖に押される。
一合目で鍔際に亀裂。
二合目で足が白線を越える。
三合目の前に、俺は訓練用の革盾へ触れた。
「盾を、ルシアへ。《返却》」
彼女が先ほど預かると宣言した品だ。
盾が俺の足元から消え、ルシアの空いた右手へ収まる。
カイルの杖を受けた。
「三秒」
俺が告げる。
ルシアは割れた剣を捨て、盾でカイルを押し返した。
勝ってはいない。
それでも、新しい武器へ持ち替える時間はできた。
「強敵の盗品は返せる。普通の武器は返せない」
カイルが杖を下ろす。
「ですから、普通の攻撃ほどルシアが受ける必要がある」
「三秒なら受ける」
「二秒にします」
「信用が減った?」
「負傷を減らします」
彼女は少し考え、うなずいた。
「受領した」
ルシアは、疑わなかった。
◆
事故は、休憩に入った直後に起きた。
訓練場の上段から、鉄輪を積んだ荷車が走ってきた。
留め木が外れている。
荷運びの少年が、綱を握ったまま引きずられていた。
「どけ!」
カイルが叫ぶ。
進路には武器庫の壁。
壁際ではミナが折れた剣を包んでいる。
ルシアが正面へ入った。
「待ってください、止められない!」
「止める!」
一歩。
二歩。
荷車の横木を両手で受ける。
靴底が地面を削った。
三歩目。
左膝が落ちる。
荷車は止まらない。
全盛期なら、片手で止めたのだろう。
今は違う。
俺は柱へ張った白紐を外した。
「ルシア、押すな!」
「では何を!」
「右へ、二歩!」
名前、動詞、歩数。
紐の片端を訓練柱へ巻き、もう一端を荷車の左車輪へ投げる。
右手は動かない。
左手だけでは結べない。
ルシアが俺の意図を見た。
荷車を止めるのでなく、横へ向ける。
彼女は横木を押したまま、右へ一歩。
二歩。
俺の投げた輪へ、車輪が入る。
白紐が張った。
普通の紐なら、切れる重さだった。
結び目だけが淡く白く光る。
荷車の力が柱へ逃げた。
車体が半回転し、誰もいない砂場へ横倒しになる。
鉄輪が転がり、標的を三つ倒した。
荷運びの少年は地面へ投げ出されたが、カイルが襟をつかんだ。
ミナは無事だ。
ルシアは、また三歩目で転んでいた。
「今のは二歩」
地面から声がする。
「最後は荷車に押されました」
「なら二歩」
カイルが記録板へ何か書いた。
のぞく。
『全力二歩。転倒二回。救助成功一件』
本人の希望が、一部だけ採用されていた。
◆
俺は切れなかった白紐を拾った。
王宮修繕庫の品なら、荷車を受けて残るはずがない。
だが光ったのは糸そのものではない。
結び目だ。
俺たちは訓練前に、紐へ同じ役目を与えていた。
ここを越えたら止まるための線。
柱と荷車にも、止めるという同じ役目が一瞬だけ生まれた。
ただ丈夫な糸ではない。預かった仕事を、別の品へ縫い付ける技術だ。
荷車の革帯を見る。
古い裂け目が、白い糸で二度戻して縫われている。
九つ目の箱と同じ縫い方。
荷運びの少年が息を整えながら言った。
「それ、北水路から借りた車です。救護用の担架を運ぶやつで」
「誰が直しました」
「白縫いの人。名前は知りません。壊れた物を持っていくと、何でもつないでくれる」
俺は白紐を二つに折り、荷札袋へ入れた。
十人目は箱だけを直したのではない。
王都中の壊れた品へ、自分の縫い目を残している。
そしてその縫い目は、借りた品同士の力を一瞬だけつないだ。




