第7話 死んだ俺からの手紙
死んだ俺から、手紙が届いた。
もちろん、俺は生きている。
後頭部には昨日の棍棒のこぶがあり、触ると痛い。生存確認としては十分だ。
死んだのは、青い旗の世界にいた別のノアだった。
「字も同じなんですか?」
ミナが封筒と俺の受領票を並べた。
「似ているだけです。向こうは横線の終わりが上がる」
「でも、ノアの字を急いで書いたら、こうなりません?」
「なりません」
「書いてみてください」
「本人確認のために、本人へ筆跡を寄せさせないでくれ」
七つ目の朝箱に入っていたのは、封筒一通だけだった。
宛名は『ルシアへ』。
裏には『ノア』。
俺が書いた覚えはない。
紙の右下には、炭筆を持ち替えた時の黒い指紋があった。俺は左下を汚す。向こうの俺は、同じ道具を違う手順で使っていた。
似ているからこそ、違いが目に残る。
それでも、封蝋へ押された返却室の印は、こちらの古い印とよく似ている。縁の欠ける位置だけが逆だ。
鏡に映したような、別の返却室。
「ルシアは」
ベルクが聞く。
「道に迷っています」
カイルが答えた。
「北棟から地下までは曲がり角が四つ。案内役を一名付けた。七分前に西階段で目撃。現在、方角を修正中だ」
「案内役がいるのに?」
ミナが目を丸くする。
「地図を上下逆に持ち、案内役の説明へ異議を述べた」
戦場では五人を逃がせる。
王宮では自分一人を返却室へ運べない。
勇者の能力配分は、かなり極端だった。
十分後、ルシアは荷受け口から入ってきた。
「そちらは外です」
「着いた」
「経路の話です」
「正面から入った。最短」
靴には中庭の土。肩には植え込みの葉。案内役の近衛は、その後ろで人生を見直している顔をしていた。
「次から案内板を増やします」
俺が言うと、ルシアは首を横に振った。
「曲がり角を減らして」
「王宮の改築から始めるんですか」
「十四日しかない。間に合わない」
「そこで真剣に計算しないでください」
ルシアは机の封筒を見た。
表情が止まった。
視線は宛名から封蝋、紙の左下の折れへ移る。
「あの人の字」
「青旗の世界の俺ですか」
「うん」
「根拠は」
「私の名前を書く時だけ、最後の線が短い。急いで次へ行こうとするから」
品から人を覚えるのは、俺だけではないらしい。
ただ、彼女が見ているのは修理痕より、その人が急いだ理由だった。
「開けますか」
「怖い」
ルシアは答えた。
秒数も距離も聞かなかった。
危機ではないから、数字へ直せないのだろう。
ミナが封筒へ伸ばしかけた手を止める。
ベルクはルシアへ小刀を渡した。
「開けなくてもいい。なら代わりに、封の傷を記録しろ」
また、禁止の代わりに仕事を一つ。
ルシアは小刀を受け取り、封蝋の縁をなぞった。
「割れてない。濡れてない。紙は、あっちの返却室で使ってた物」
「受取人はあなたです」
俺は言った。
「俺が開く理由はありません」
「読んで」
「それも、あなたが決めることです」
「声にすると、違う人の手紙になる気がする」
違う人。
彼女はようやく、その言葉を俺へ使った。
俺は封筒へ触れないまま答える。
「では、隣にいます。読むのはあなたです」
ルシアは椅子へ座った。
封蝋へ小刀を入れる。
紙は三枚あった。
一枚目は、青旗の返却室で見つかった異常記録。
『灰糸の荷箱、四件。差出人の結び目は全件異なる。通路を使っている者は一人ではない』
マルクの帳簿に挟まっていた九本の糸と一致する。
二枚目は、世界の重なりについての仮説。
『同じ品が二つの世界で同じ場所を占めると、周囲が引かれる。箱を返そうとするな。中身を分けろ』
三枚目だけ、書き出しが短かった。
『ルシアへ』
彼女の指が止まる。
俺は字を追わない。
ミナもカイルも視線を外した。
返却室で手紙を勝手に読む者はいない。
長い沈黙のあと、ルシアが一行だけ声にした。
「『三十二まで数えたら、俺の手を離せ』」
チリ、と紙の端が鳴る。
「最終戦の前に書いた手紙。あの人、北門の退路を残す役だった」
声が低くなる。
「三十二まで数えた。手を離せって言われた。私は離さなかった」
俺の左手に、二日前の感触が戻る。
裂け目へ消える直前、彼女は言った。
『今度は、離して』
「それで、あの人が離した。私を押し上げて、自分だけ下に残った」
青旗のノアは、彼女の手を離して死んだ。
現世界の俺は、彼女に言われて手を離した。
同じ指を持っていても、同じ場面にはならない。
「ノア」
ルシアが俺を見た。
「あの人は、作戦の前に必ず言った。『帰路は受領した。俺が帰す』って」
「そうですか」
「言って」
頼みは短かった。
「私を帰すって」
言えば、少しは安心するのだろう。
同じ顔で、同じ声に近い誰かが、途切れた続きを渡せばいい。
それは簡単だ。
簡単すぎる。
「言えません」
ルシアの目が細くなる。
「どうして」
「俺はその人ではない」
「知ってる」
「今、知らないふりをしようとしました」
言葉が鋭すぎた。
分かっていても、取り消せない。
ルシアは手紙を机へ置いた。
「同じ名前なのに」
「名前が同じでも、持ち主を間違えたら《返却》は動きません」
「私は物じゃない」
「はい。だから、なおさらです」
俺は一度、息を吸う。
「あなたを、死んだ俺の続きとして受け取れません」
返却室の誰も、間に入らなかった。
ルシアはしばらく俺を見た。
やがて手紙を折り直す。
「じゃあ、今のノアは何て言う?」
その問いは、保留できなかった。
「帰る方法を一緒に探します」
「帰すとは言わない」
「人を荷物みたいに言いたくないので」
「三十二秒で縄を投げたのに」
「あれは救助です」
「細かい」
「相変わらず、らしいです」
ルシアの口元が、ほんの少しだけ上がった。
亡き相棒へ向けた笑顔ではないと、思いたかった。
「続きがあります」
彼女は手紙の末尾を開く。
最後の三行だけ、赤いインクで囲まれていた。
『灰糸の者は、重なった世界を一つの持ち主へ返そうとしている』
『赤い箱は、二つの場所を同時に開く』
『届いても、返すな』
その時。
荷受け口の向こうで、何かが床をこすった。
こん。
一度。
こん。
二度。
鉄扉の隙間から、赤い塗料の粉が落ちた。




