第5話 偽物には返らないはずだった
偽物には、持ち物は返らない。
少なくとも、俺の《返却》は顔に騙されない。
だから右手甲が誰へ届くかを見れば、監視室の女が何者か分かる。
「危険すぎる」
近衛隊長カイルは、朝箱から三歩離れて言った。
「昨日、その手甲から人間の腕が生えていたと聞いた」
「生えてはいません。向こうから入っていただけです」
「危険性に差があるのか」
「記録上は大きな差です」
ミナがうなずく。
「生えた場合は手甲の異常ですけど、入っていた場合は通路の異常です」
「どちらも異常だ」
正論だった。
五日目の朝箱は、昨日までで最も小さい。
蓋を開くと、見覚えのある右手甲が一つ。上側の革帯は切れたまま、残り二本はミナが外した位置でぶら下がっている。
血は拭われていない。
人差し指側の鋼板には、星形の浅いへこみ。
小指側は、持ち主の出っ張った手首を避けるよう内へ曲がっている。
昨日、裂け目の向こうへ返した品だ。
「誰が送り返した」
ベルクが箱より先に、俺の手を見る。
右指の感覚は戻った。冷えもない。
「本人なら、何か書くはずです」
俺は手甲を持ち上げず、白布の上で回した。
内側へ、細い紙が巻き込まれている。
紙を結ぶのは灰色の糸。
最初の荷札と同じ色。同じ撚り方だ。
だが結び目が違う。
ルシアの結びは、引けば片手でほどける。これは左右を均等に締め、端を三分ずつ残していた。
几帳面すぎる。
俺なら、こう結ぶ。
「差出人は勇者ではありません」
「何を根拠に」
「結び目」
カイルが一度だけ目を閉じた。
「あなたの説明は、いつも最初の一語が不足している」
「隊長の説明は、多すぎます」
「両方足して二で割れませんか?」
ミナが言った。
「君が疑問を二つ続けなければ考えます」
「今のは一つです」
話が進まないので、俺は紙を開いた。
文面は二種類あった。
上半分は、泥でにじんだ急報。
『北鐘楼、基礎の三割が消失。西街区まで同じ亀裂を確認。崩落予測、十五日以内』
下には五人分の署名。
昨日、青い北門を南へ走った兵たちだろう。
その下に、別の筆記具で二行。
『接続維持期限 十五日』
『返却先は一つ』
「これはルシアの字ではありません」
ミナが紙へ顔を近づける。
「払いが短いです。あと、名前がありません。人に読ませる字なのに名乗らない人、私は嫌いです」
「人物評は記録の後にしろ」
ベルクが受領票を置いた。
「先に手甲だ。誰の物か決める」
監視室からルシアが連れてこられた。
見張りは四人。
手には何も持っていない。腰には空の吊り帯だけ。昨日転んだ肩へ白布が巻かれている。
朝箱を見るなり、彼女は足を止めた。
「それ、昨日返した」
「こちらの台詞です」
「返したのに戻ってきた」
「返品理由を聞いていませんか」
「聞いてない。外したあと、荷車へ置いた。五人が持って南へ行った」
カイルが紙を示す。
「この署名を知っているか」
ルシアは一人ずつ、名を読んだ。
「第四十七小隊。昨日の五人。全員、字が汚い」
「本人の前でも言うのか」
「言ってある」
たぶん、本当に言ってある。
「十五日で、あなたの王都が崩れるのか」
「北から消えてる。私が裂け目へ入る前は、ひと月あると思ってた」
「戻る方法は」
「探す」
「いつまでに」
「十四日。最後の一日は、失敗した時のやり直し」
十五日すべてを希望へ使わない。
この人は、失敗する前提で前へ出る。
カイルは右手甲を見た。
「先に照合だ。現世界の勇者殿の装備記録に、この手甲はない。刻印の部隊も存在しない。ゆえに、これがこの女へ戻っても、勇者本人の証明にはならない」
「そうですね」
ルシアの左眉が上がった。
「そこは反論しないんだ」
「あなたは、こちらで亡くなった人ではありません」
同じ顔だからと、死者の人生まで渡すことはできない。
「確認するのは別のことです。この手甲を七年使い、人差し指に星形の傷があるルシア本人か」
俺は手甲へ左手を置いた。
右手で触れないのは、冷えが残っているからではない。
昨日、裂け目の中で握られた感触を思い出すからだ。
それを根拠へ混ぜると、物証と俺の都合が同じ棚へ入る。
「離れてください」
ルシアが一歩下がる。
「何歩?」
「好きなだけ」
「曖昧」
「では三歩」
彼女はきっちり三歩下がった。
「その人へ返らなければ」
カイルが言う。
「偽物か」
「少なくとも、この手甲の持ち主ではない」
「返れば」
「別の世界で、この品を使っていた生存者です」
「勇者とは限らない」
「はい」
ルシアの口元が少しゆるんだ。
「ノアは、私を勇者にしたくないみたい」
「肩書は能力の対象外です」
「便利な言い訳」
「仕事の範囲です」
手甲の傷を思い浮かべる。
七年分の浅い溝。
右から左へ流れる、別のノアの縫い目。
切れた革帯。
北門で右手を挟まれ、それでも五人へ指示を出していた人。
「この右手甲の持ち主、ルシアへ。《返却》」
手甲が消えた。
距離は三歩。
それでも俺の指先から熱が抜ける。
次の瞬間、鋼がルシアの右手へ収まっていた。
切れた革帯は切れたまま。
星形の傷がある人差し指が、一度曲がる。
偽物には返らない。
死者にも返らない。
品は、別の人生を生きた持ち主を選んだ。
ミナが息を吐く。
ベルクは受領票へ時刻を書く。
カイルだけが動かない。
「隊長」
ルシアが呼んだ。
「私は、あなたが知ってる人じゃない」
「そのとおりだ」
「でも、ルシアではある」
カイルは、彼女の右眉、左手、右手甲、肩の白布を順に見た。
「午前六時四十八分。未知の固有能力による装備返却を確認。対象は生存。現世界の勇者殿とは利き手、傷、装備履歴、記憶が一致しない」
また、事実を細かく数える。
「ゆえに、あなたを勇者殿の蘇生体とは認めない。偽物とも扱わない」
「では、何として扱います」
「別の国から来た、身元確認中のルシアとして保護する」
「鍵は」
「内側から開く部屋へ移す」
「食事は」
「三食」
「剣は」
「渡さない」
「そこだけ遅い」
「十五日後も同じ回答だ」
「十四日で変える」
交渉は成立していないが、会話は成立したらしい。
俺は灰色の糸を白布へ分けた。
持ち主は分からない。
差出人も分からない。
ただ、その人物は十五日という期限を知り、返却先は一つだと断定した。
棚の角をそろえるような結び方で。
俺は荷札の裏へ、一語だけ書く。
『保留』
世界が二つあるなら、正しい返却先も二つあり得る。
まだ会ったことのない差出人は、最初からそれを認める気がなかった。




