第4話 聖剣は彼女を選ばない
聖剣は、勇者の手を拒んだ。
正確には、何もしなかった。
光らない。
鳴らない。
台座から一分も動かない。
「もう一度、触れてください」
近衛隊長カイルが言った。
ルシアは聖剣の柄から左手を離し、指を開閉した。
「何秒?」
「勇者殿が初めて触れた時は、即座でした」
「即座は何秒?」
「一秒未満です」
「じゃあ、一秒だけ」
もう一度、握る。
一秒。
何も起きない。
王宮訓練場の中央で、四十人分の視線だけが彼女へ集まった。
噂が育つには、日光と沈黙があれば十分らしい。
昨日、北門から現れた女。
死んだ勇者と同じ顔。
だが、利き手も傷も違う。
そして聖剣には選ばれない。
偽物という荷札を付ける準備は、ほぼ整っていた。
「手を見せろ」
ベルクが俺へ言った。
「俺ですか」
「勇者じゃないほうだ」
昨日の《返却》で冷えた右手を診るため、治癒術師が待っている。室長は俺を聖剣から離し、代わりに記録板を渡した。
「触るな。記録しろ」
「何を」
「何も起きなかった時刻だ」
何も起きないことも、ここでは物証になる。
俺は炭筆で時刻を書く。
ルシアが手を離した。
表情は変わらない。
変わらないまま、空いている腰の吊り帯へ右手を置いた。
そこに聖剣があった頃の癖だけが残っている。
台座の聖剣にも、別の癖が残っていた。柄の右側だけ沈んだ革。現世界のルシアが右手で握り、最後まで使った痕だ。
剣は顔も名前も見ていない。ただ、自分と戦った手を覚えている。
目の前の左手には、こちらの聖剣と過ごした時間が一日もなかった。
「次へ」
カイルの声は硬かった。
「本人照合を続ける。勇者殿が十二歳で最初に討った魔物は」
「沼角獣」
「記録では森狼だ」
「私の世界では沼角獣」
「十五歳の負傷箇所」
「右眉」
「記録は左肩。最終戦で失った仲間は」
ルシアの目が、わずかに俺へ向いた。
「三百十二人」
「こちらは二百九十七人だ」
彼女は数字を間違えたのではない。
別の死者を数えている。
その中に、別の俺もいる。
「もう十分でしょう」
ミナが小さく言った。
「十分ではない」
カイルはルシアから目をそらさない。
「顔が似ている。声も近い。だが右眉の傷、左手の剣だこ、三本の塔を持つ青旗、回答した戦没者数、五点が一致しない。聖剣も反応しない」
「六点です」
俺は記録板を見た。
「身長が、こちらの公式記録より二寸高い」
「ノア」
ミナが肘で俺を突く。
「本人の前で足さなくてもいいです」
「照合なので」
「あとで受領拒否されても知りませんよ」
ルシアは自分の頭へ手を当てた。
「二寸は、私のほうが高い?」
「はい」
「それは勝った」
「競技ではありません」
初めて、訓練場の何人かが息を漏らした。
カイルだけは笑わない。
「戦力を確認する」
兵が訓練用の片手剣を運んできた。
刃を潰した鉄剣。柄革は新しく、鍔に武器庫の三十六番が刻まれている。
ルシアは左手で受け取り、重さを測るように二度振った。
「軽い。あと、魔力が通らない」
「普通の軍用剣だ」
「普通って、何歩もつ?」
「折れる前提で聞くな」
「分かった。折らない」
この時点で、剣の今後はほぼ決まっていた。
訓練場の端から、木製の走行標的が放たれる。
人の胴ほどある丸太を、滑車と重りで走らせる仕掛けだ。
ルシアが踏み込んだ。
一歩。
速い。
全盛期を知らない俺でも、そう思う。
二歩。
だが身体だけが先へ行き、剣が遅れた。
彼女は届くと思った距離で振る。
刃は丸太の手前をかすめ、石床を叩いた。
甲高い音。
剣が鍔の上から折れた。
切っ先が回転し、見学していた武器庫係へ飛ぶ。
「伏せて!」
俺が言うより、ルシアが動くほうが早い。
着地を崩したまま方向を変え、係と刃の間へ入る。
折れた柄で切っ先を横から打つ。
鉄片が石へ刺さった。
彼女自身は止まりきれず、肩から転がった。
訓練場が静まる。
ルシアは起き上がる前に、武器庫係へ聞いた。
「怪我は」
「な、ありません」
「剣の鍛冶師は」
「西工房のギードです」
「あとで謝る。これは――」
折れた柄と、最初に立っていた位置を見比べる。
「二歩もった剣」
「番号で呼んでください」
「三十六番。二歩もった剣」
「情報が増えてしまいました」
俺は折れ口を見る。
鉄は粗くない。刃も薄すぎない。
壊れた原因は剣ではなく、流し込まれた力だ。
「全盛期のつもりで振りましたか」
「半分にした」
「半分でも多い」
「じゃあ、私は半分より弱い」
彼女は簡単に言った。
その声だけ、数字へ直せないものを含んでいた。
カイルが折れた刃を拾う。
「勇者殿なら、この標的を剣ごと両断した」
「私は失敗した」
「認めるのか」
「見れば分かる」
ベルクと同じ言葉だった。
ルシアは聖剣を振り返る。
届く距離にある。
自分と同じ顔の死者が使った、別の人生の剣。
「私の聖剣は、向こうに置いてきた」
「証明できない」
「うん」
「加護も、この国では確認できない」
「それも、なくなった」
「ならば、あなたを勇者として扱う根拠はない」
一拍だけ、ルシアの左手が空の吊り帯を握る。
「扱わなくていい」
それから折れた三十六番を、両手で武器庫係へ差し出した。
「でも、名前は返して。私はルシア。それまで偽物にされたら、帰る場所がなくなる」
カイルの火傷痕が引きつった。
彼は返事をせず、部下へ命じる。
「客室ではなく、北棟の監視室へ移す。扉二枚、見張り四名。武器は持たせない」
「拘束ですか」
「保護だ」
「鍵を外から掛ける保護は、呼び方だけ立派ですね」
俺が言うと、隊長の声がさらに丁寧になった。
「では遺品係殿には、記録提出をお願いします。北門で規則を七項目破った経緯を、責任者名から順に」
「承知しました」
最低な提案を、最も正しい形式で返された。
◆
翌朝。
提出書の三枚目で夜明けの鐘を聞いた俺のところへ、ミナが走ってきた。
息を切らし、針箱を抱え、なぜか笑っている。
「ノア、右手です!」
「主語を足してくれ」
「ルシア様の右手甲が、朝箱で届きました。昨日切った革帯のままです!」
聖剣は、彼女を選ばなかった。
だが別の世界から、彼女を知っている品が追いかけてきた。




