第3話 三十二秒で勇者を引き抜け
勇者を引き抜くために用意した物は、縄一本だった。
剣はない。
治癒術師もいない。
代わりに、近衛が二十四人いた。
「作業を中止しろ」
正午まで、あと三分。
北門旧戦場を封鎖した男は、剣を抜かずに俺たちの退路を塞いだ。
右腕に火傷痕。磨かれた長靴の土は門の外側だけ濃い。部下へ命令する前に、周囲の避難民十二人、門の出入口二つ、俺たち三人の位置を順に見ている。
近衛隊長カイル。
現世界の勇者ルシアと、最後の戦場まで同行した人物だった。
「中止はできません」
「理由を述べろ」
「十二時ちょうどに、ここへ人一人分の裂け目が開きます。三十二秒後に閉じます」
「予言か」
「受領した作業予定です」
隊長の眉が動いた。
ベルクは止めなかった。代わりに縄の端を門柱へ二重に巻き、俺へ結び目の確認を渡す。
「ノアは結び目。ミナは通過人数。俺は縄を押さえる」
「近衛は?」
「邪魔をするなら障害物。手を貸すなら人手だ」
室長は肩書にも仕事を割り振る。
カイルは地面の木箱へ目を落とした。
三つ目の朝箱から出てきたのは、焼けた青い小旗だった。白い三本の塔。柄の根元には第四十七小隊の刻印があり、布端へルシアの名が縫われている。
『正午。旗を返して。縄はそちらから』
指示はそれだけだ。
「王国軍旗は国家の所有物だ」
カイルが言った。
「一兵士へ返せる物ではない」
「こちらの王国旗ではありません」
「青く塗った偽物だ」
「偽物へ付けるには、門外の泥が新しすぎます」
旗の石突には、白い砂が詰まっていた。
こちらの北門外は黒土だ。昨日、裂け目の向こうから吹いた風にも同じ白砂が混じっていた。
「あと一分です」
ミナが太陽と門柱の影を見比べる。
影は短くなり、足元へ吸い込まれようとしていた。
カイルが初めて剣の柄へ手を置く。
「勇者殿は二日前に死亡した。死亡確認は午前四時十二分。立会人は六名。右肺、脇腹、左肩に致命傷。棺は昨日、私が閉じた」
悲しみが強い人間ほど、事実を細かく数えるらしい。
「それでも同じ名を騙る者を、王都へ入れるのか」
「同じ名だから入れるんじゃありません」
俺は青い旗を持ち上げた。
「この旗を持って、三十二秒を数えている人だからです」
正午の鐘が鳴った。
一打目。
門の中央へ、青い線が走る。
石壁を縦に切った、光の傷。
「ベルク室長!」
「縄、固定。ミナは数えろ。隊長は好きにしろ。ただし部下を線の正面へ立たせるな」
カイルの手が上がる。
「全員、左右へ六歩。弓は下げろ。線を越える物だけ狙え」
障害物から人手へ変わるのに、三秒もかからなかった。
俺は小旗の柄を握る。
白砂。三本の塔。第四十七小隊。北門で五人を逃がそうとしている左利きの指揮官。
「この旗を預かった、ルシアへ。《返却》」
青い小旗が消えた。
光の傷が左右へ開く。
「一、二、三!」
向こう側も北門だった。
ただし、空は灰色で、王旗は青い。
門外にもう一枚の城壁があり、その一部が燃えている。五人の兵が崩れた荷車を押し、白い牙の獣を塞いでいた。
「マルタ、左輪を捨てて! 四人は南階段!」
ルシアの声に、荷車の脇の女性兵が左手を上げる。
その手前で、青い旗を受け取った女が振り返る。
右眉に細い傷。
半分焼けた外套。
腰には、鞘だけがあった。
「縄!」
「こちらからです!」
俺は輪にした縄を裂け目へ投げた。
風にあおられ、半分が石へ落ちる。
「短い。あと二歩!」
「十三、十四!」
短いなら、こちらが近づくしかない。
青い境目へ足をかけた瞬間、カイルが俺の腰帯をつかんだ。
「一歩までだ。二歩目は戻れない」
「根拠は」
「線の幅が、今までに一寸縮んだ」
数字で止められると反論しづらい。
俺は片足だけを向こうへ踏み込み、縄を押し出した。
ルシアが左手で輪を取る。
「残り五人は!」
「南階段へ退避済み! 私が最後!」
「十九、二十!」
彼女が裂け目へ走る。
一歩目で、白い牙の獣が荷車を越えた。
兵士一人ほどの大きさもない。野犬に似ている。ただし頭が二つあり、どちらも自分の進路を決められずにぶつかっていた。
伝説の勇者を迎える邪魔としては、ずいぶん格が低い。
その低い格が、縄へ噛みついた。
「二十三!」
縄が向こうへ引かれる。
俺は両手でつかんだが、右指にまだ力が戻りきっていない。掌から麻が滑る。
「手を離せ!」
ルシアが叫んだ。
「あなたを引く縄です!」
「獣ごと引くな! 右へ半歩!」
俺がずれる。
矢が耳元を抜け、獣の左頭へ刺さった。
カイルの部下だ。
それでも右頭は縄を離さない。
「二十七!」
ルシアは走りながら、腰の空の鞘を外した。
剣の代わりに鞘を振る。
一撃。
獣の鼻先が地面へ沈む。
弱い。
たぶん、伝え聞いた勇者の一撃より、ずっと。
けれど二撃目は振らなかった。獣の顎へ鞘を差し込み、縄を外す。それから青い旗を五人の兵へ投げ返した。
「南へ! 三十二数えたら門を落として!」
「三十!」
彼女が裂け目へ飛び込む。
左手が俺の右手首をつかんだ。
俺は縄を捨て、今度は離さない。
「三十一!」
ベルクとカイルが俺の腰帯を引く。
青い光の中から肩、頭、空の鞘が抜ける。
「三十二!」
俺たちは四人まとめて、こちらの黒土へ倒れた。
裂け目が閉じる。
最後に見えたのは、青い旗を掲げて南へ走る五人だった。
俺の上で、女が息をしている。
重い。
生きている人間は、遺品よりずっと重い。
外套の下からのぞく長靴は、左の爪先だけ革が二重だった。右眉の傷より先に、何度も踏み込んだ足の補修へ目が行く。
顔が同じでも、昨日棺へ納めた人が歩かなかった道を、この人は歩いてきた。
「ノア」
右眉に傷のあるルシアが、俺の顔を見た。
安心したように笑い、すぐに眉を寄せる。
「若い」
「そちらの俺への苦情は、本人へお願いします」
「あと、細い」
「二件目も同じ窓口です」
剣が鞘から抜ける音がした。
カイルが立ち上がり、切っ先を彼女へ向けている。
「その人から離れろ」
ルシアは俺をかばうように、剣と俺の間へ膝をついた。
武器は空の鞘一本。
近衛隊長は、彼女の右眉、左手の握りだこ、焼けた青い外套を順に見た。
「顔は似ている」
声から、一切の比喩が消える。
「だが勇者殿の傷は右眉にはない。剣は右手だ。あなたは、私が葬った人ではない」
「知ってる」
ルシアは短く答えた。
それから、初めて見る自分の墓のある王都で、空の鞘を地面へ置いた。
「だから、確かめて」




