第2話 勇者の右手だけ届いた
二日目の朝箱には、右手が入っていた。
正確には、手首から先だけが箱の中へ届いていた。
切れてはいない。
青い光の裂け目から伸びた手が、箱の縁をつかんでいる。五本の指は泥と乾いた血に汚れ、鋼の手甲が手首へ食い込んでいた。
中指が、二度動く。
生きている。
「右手って、そういう意味だったんですか」
ミナが俺の背後からのぞき込んだ。
「俺も手甲のことだと思っていた」
「人の手だった場合の欄、作っておけばよかったですね」
「作った翌日に使うことになる規則は、だいたい嫌な規則だ」
夜明けの鐘は、ついさっき鳴り終わった。
昨日の箱は昼前に灰へ崩れた。代わりに現れた二つ目の箱は、蓋が内側から割れ、裂け目だけを残している。
その裂け目の向こうから、昨日と同じ女の声がした。
「ノア。手は返さなくていい」
「最初から、そう書いてください」
「書く時間がなかった。あと四十六秒」
また秒数だった。
勇者は死者から戻ってくる暇はなくても、こちらを急かす暇はあるらしい。
「何を返すんです」
「手甲。右の留め具が裂け目に噛んだ。外せば手を抜ける」
俺は箱へ顔を寄せた。
手甲は肘側を裂け目に挟まれ、三本の革帯で腕へ固定されている。一番上の留め具だけが青い光の向こうへ沈み、見えない何かに引かれていた。
手を引けば、鋼の縁が手首を削る。
すでに赤い血が一筋、親指の付け根を伝っていた。
「ノア、手を出すな」
ベルクが箱の反対側へ回り、杖を蓋の下へ差し込んだ。
俺の右腕は昨日の《返却》から、まだ指先の感覚が鈍い。そこを見て止めたのだろう。
室長は続けて、ミナへ顎を向ける。
「ミナ。革帯を外せ。ノアは持ち主を確かめろ。俺は箱を押さえる」
禁止の代わりに、全員へ仕事が渡された。
「三十九秒」
「聞こえた。右手を少し開けます。痛かったら言ってください」
ミナは怖い物ほど横から見る。
箱の脇へ膝をつき、細い留め針を手甲の革帯へ差し込んだ。血に触れないよう布を一枚挟み、一番下の留め具を外す。
手の指が、俺の袖をつかんだ。
「ノア」
「本人確認です。質問します」
「その面倒さは本人で合ってる」
「あなたの確認ではなく、手甲の確認です」
指に力が入った。
怒ったのか、向こうで何かに引かれたのかは分からない。
「三十二秒。短く」
「誰の物です」
「私の。北門で支給された。七年使った」
「修理は」
「手首を三回。親指を一回。最後はノアが縫った」
最後の名前だけ、声がわずかに遅れた。
俺ではない。
この手甲を直したのは、彼女が知っている別のノアだ。
胸の奥へ針を置かれたような違和感は、いったん保留にした。今は手首の血のほうが先だ。
鋼板には、長い使用でついた浅い溝が三本。親指側の革だけが新しく、縫い目は右から左へ斜めに流れている。
俺なら逆向きに縫う。
だが、直し方は違っても、手甲はこの手の形へ馴染んでいた。小指側の鋼板は少し内へ曲がり、右手首の出っ張った骨を避けている。
「ルシア様の手です」
ミナが二本目の革帯を外しながら言った。
「声だけで決めるな」
「声じゃありません。昨日、棺へ納める前に右手を見ました。あちらのルシア様は、親指の根元に火傷がありました。この人にはない。その代わり、人差し指に星みたいな傷があります」
顔を一度しか見ていなくても、ミナは人を覚える。
俺は手甲の傷を覚え、彼女は手の傷を覚えていた。
同じ名前で、同じ声。
それでも、昨日葬った人の手ではない。
「二十二秒!」
箱が揺れた。
裂け目の向こうで、石を引っかく音が走る。
「右後ろ、二歩! 低い!」
ルシアが叫んだ。
俺たちへの指示ではない。
直後、何かが風を切った。女は右手を箱へ挟んだまま、向こう側で戦況を見ている。
「槍、今! そのまま押して! 残り五人、全員動ける!」
金属がぶつかり、獣の声が遠ざかった。
手しか見えない。
けれど、その手は逃げるために伸びてきたのではなかった。向こうに残した五人から目を離さないため、ここへ預けられただけだ。
「十四秒。ミナ、上が外れない」
「分かってます。留め具が曲がって――」
針が滑った。
ミナの指先から血がにじむ。
ベルクが箱を押さえたまま言った。
「針を抜け。次は糸を切れ」
「でも、切ったら直せません」
「直す仕事は、生きて戻ってからだ」
ミナは一度だけ唇を結び、革帯へ小刀を入れた。
切れる。
手甲が緩んだ。
「ルシア。手を抜いてください」
「抜いたら裂け目が閉じる」
「手甲はこちらに残します。あなたが手を抜いた瞬間、手甲をあなたへ《返却》する。物が通る間だけ、道は残るはずです」
「何秒?」
「分かりません」
「数えて」
曖昧な希望は受け取らないらしい。
俺は左手で手甲をつかんだ。鈍い右手を使えば、持ち主を取り違える。
「今のあなたの手へ返します。昨日の死者ではなく、人差し指に星形の傷がある、北門で戦っている左利きのルシアへ」
箱の向こうで、彼女が息を吸った。
「三つ数えたら抜く。三、二、一」
右手が鋼から滑り出る。
最後に伸びた指が、俺の左手を強く握った。
「今度は、離して」
今度は。
問い返す前に、俺は指を開いた。
ルシアの手が青い裂け目へ消える。
「この手甲の持ち主、ルシアへ。《返却》」
鋼が消えた。
閉じかけた裂け目が、細い青のまま止まる。
「一、二、三」
ミナが数え始めた。
向こうで手甲が石床へ落ちる音がした。
「届いた。右手も付いてる」
「それは何よりです」
「七、八、九」
裂け目はまだ開いている。
昨日は剣が消えるまで十七秒かかった。今日は手甲が届いてからも、声だけが残った。
「ルシア。あなたはどこにいる」
「王都エルデン、北門の内側」
「こちらにも同じ北門があります」
一拍、向こうの呼吸が止まった。
「十二、十三、十四」
「鐘楼はいくつ?」
「三つ」
「こちらは二つです」
「旗は?」
「王家の赤旗」
「こっちは青。城壁の外に、もう一枚ある」
同じ王都。同じ北門。
違う鐘楼。違う旗。
「二十、二十一」
昨日から保留にしていた答えが、形を持ち始めた。
死者が戻ったのではない。
遠い国でもない。
同じ名前の王都で、違う昨日を生き延びた人がいる。
「明日の正午」
ルシアの声が急ぐ。
「両方の北門で影が真下に来る。そこなら裂け目を人の幅まで開ける」
「どれだけ保てる」
「昨日と今日を測った。三十二秒」
「二十八、二十九」
「三十二秒で、何を通すんです」
答えは分かっていた。
だからこそ、本人の口から受領する必要があった。
「私」
「三十」
「縄を一本。武器は要らない。向こうに残す」
「三十一」
「明日、北門で。私を引き抜いて」
「三十二」
青い裂け目が閉じた。
箱の中には、切った革帯が一本だけ残っている。
俺はそれを白布へ置き、受領票へ時刻を書いた。
明日の正午。
三十二秒。
返却室の仕事は、品を持ち主へ返すことだ。
持ち主本人を箱の向こうから引き抜く仕事は、まだどの棚にも分類できなかった。




