第1話 死者は秒数を指定した
残り、百七十四秒。
死者から届いた剣を調べるには、短すぎた。
「百七十三、百七十二、百七十一」
ミナが数える横で、俺は木箱を床へ下ろした。
蓋に罠があれば全員まとめて葬儀へ逆戻りだ。さすがに昨日と同じ式場は使わせてもらえないだろう。
「ノア、開けろ。ミナは数えろ。俺は扉と退路を見る」
ベルクが杖で保管庫の入口を押さえる。
止める代わりに、それぞれの仕事を決めた。迷っている時間はない。
俺は灰色の糸を切らずにほどいた。
「こんな時まで、ほどくんですか。百六十二、百六十一」
「結び方も差出人の一部だ」
「百六十。今の会話で二秒使いました」
「君も使っている」
「百五十九」
受領。反論は後回しだ。
箱の釘は九本。
この国の荷箱は、四隅と中央の八本で留める。余分な一本は蓋の左上。それだけ新しく、頭に小さな星が刻まれていた。
見たことのない規格だった。
刃先を差し込み、蓋を持ち上げる。
中にあったのは、荷札どおり一振りの剣だった。
聖剣ではない。王国軍が使う量産型の片手剣に似ている。柄は青い糸で巻き直され、鍔には乾いた黒い泥がこびりついていた。
血はない。
だが、冷たくもなかった。
誰かが少し前まで握っていた温度が、革の奥に残っている。
「百四十二、百四十一。勇者様の剣ですか?」
「同じ型は第三兵団だけで二百本ある」
「筆跡は?」
ミナは荷札を灯りへかざした。顔と名前を覚える彼女は、署名も人の一部として見る。
「昨日、棺の受領票で見ました。最後の払いが同じです。ルシア様の字です」
「似せた可能性は」
「あります。でも、似せた人の顔は見てません」
それは全員そうだ。
「百二十八」
俺は剣を白布へ置き、柄を横から見た。
革の右側は立っている。左側だけ、親指と人差し指が当たる場所が黒く沈んでいた。
左手で使われた剣だ。
昨日封じた鞘を思い出す。口金の右側だけが削れた、現世界のルシアの鞘。
彼女は右手で抜いた。
この剣の持ち主は、左手で振る。
同じ署名。同じ名。違う手。
偽造なら、ずいぶん細かなところで間違えたことになる。だが、勇者を騙る人間が、自分から利き手の矛盾を箱へ詰めるだろうか。
「百十二。ノア、どうします?」
「保留」
「期限は保留してくれません。百十」
そのとおりだった。
《返却》は、名前だけでは動かない。
俺が知らない誰かを「ルシア」と呼んでも、同名の他人は大勢いる。品の傷、使い方、譲られた経緯。その人と物を結ぶ具体的な根拠が必要だ。
逆に言えば、発動すれば持ち主は生きている。
昨夜の鞘が返らなかったように、死者は受け取れない。
「九十」
剣を返せば、正体不明の相手を武装させる。
返さなければ、北門の左で何が起きる。
知らない。
知らないことを理由に棚へ置くのは簡単だ。受領印のない品は、黙っていれば動かない。
人のほうも動かなくなる可能性を除けば。
「七十五」
「室長」
「決めるのはお前だ。俺が止めるのは、返した後に一人で立っていようとすることだ」
ベルクは壁際の椅子を杖で俺の背後へ引いた。
「終わったら座れ」
「六十八」
俺は柄へ触れた。
青い糸は三本の細糸を撚ってある。濃い青、薄い青、ほとんど白。結び目の端には、歯で引いた小さな潰れ。
急いで巻いた左利きの人間。
北門で、この剣を待っている。
名前は、ルシア。
「五十」
それでも俺の頭へ浮かんだ顔は、昨日棺へ入った勇者だった。
一度だけ笑った、右利きのルシア。
「――勇者ルシアへ。《返却》」
剣は動かなかった。
「三十八、三十七」
失敗。
予想していたはずなのに、胸の奥で何かがもう一度沈んだ。
死者は受け取れない。
「三十」
違う。
確認する相手を間違えた。
この剣は、棺の中の彼女の物ではない。
名前と顔が同じでも、右手で抜いた人と、左手で振る人まで同じ持ち主にしてはいけない。
「二十」
俺は目を閉じなかった。
顔は知らない。
だから、剣を見た。
左手で柄を握り、青い糸を歯で締め、北門の左側で百九十秒を数えている人。
この剣に残った、その人の手だけを思い浮かべる。
「十、九、八」
「この剣の持ち主、ルシアへ」
まだ足りない。
俺は荷札の言葉を足した。
「北門。左へ。《返却》」
「三、二、一――零」
剣は、消えなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
指先から、じわじわと熱が抜けていく。
「ノア」
ベルクの声にも答えず、柄を握り直した。
七秒。
青い糸の結び目が、わずかに震えた。
十秒。
箱の底から、風が吹いた。
十二秒。
薄い青の光が、刃に沿って走る。
十五秒。
右腕が肘まで凍ったように重くなる。
十七秒。
剣が消えた。
空になった手の向こうで、金属が激しくぶつかった。
誰かの叫び。石の砕ける音。低い獣の唸り。
そして、若い女の声。
「十七秒遅い、ノア。相変わらず確認が長い」
聞き返す暇はなかった。
「左、三歩! 伏せて!」
今度の声は俺たちへではない。
向こう側で何かが風を裂き、続いて重い物が倒れた。女は息を一度吸う。
「残り六人。全員立ってる。これで――」
声が切れた。
青い光も消える。
返却室へ、俺たち三人の呼吸だけが残った。
死者は、剣を受け取らない。
戦わない。
人の確認癖を「相変わらず」と叱りもしない。
どこかに、ルシアが生きている。
「今の声」
ミナが荷札と空の白布を交互に見る。
「ルシア様です。顔を見て話したのは一度だけですけど、間違えません」
俺にも分かった。
一度だけ聞いた笑い声とは違う。昨日まで式典で流れていた、整えられた勇者の演説とも違う。
それでも、あの声は俺の名を呼んだ。
親しい相手の欠点を、ずっと前から知っている言い方で。
「相変わらず、だそうですよ」
「聞こえていた」
「ノア、勇者様と知り合いだったんですか? いつからです? どうして隠してたんです?」
「質問は一つずつにしてくれ。答えは全部『知らない』だ」
「全部同じなら一度でよくないですか?」
確かにそうだった。
ベルクが空箱の前へしゃがみ、杖の先で底板を押した。
「話は後だ。ノアは座れ。ミナは聞こえた言葉を一字ずつ書け。俺は封鎖を上へ報告する」
「勇者様が生きているって?」
「封印異常があり、正体不明の声を聞いた。それ以上は、まだ誰も受領していない」
室長らしい言い方だった。
俺は椅子へ座ろうとした。
そのとき、空の木箱が跳ねた。
がたん、と蓋が床を叩く。
箱の内側へ、髪の毛ほど細い青い線が走った。
「離れろ」
ベルクはミナの肩を引き、代わりに記録机を指した。
「三歩。机の後ろ」
俺も椅子ごと下がる。
青い線が一瞬だけ開いた。
何もなかった箱の中から、さっきの剣が落ちてくる。
今度は、血が付いていた。
黒に近い緑の血。魔物のものだ。刃には新しい欠けが二つ。青い柄糸は汗を吸い、左手の指四本分だけ濃く沈んでいる。
使われた。
返した先で、誰かがこの剣を左手に握り、少なくとも一体は斬った。
鍔の下へ、細長い紙が結ばれていた。
ミナが近づこうとし、ベルクが記録机をもう一度指す。彼女は机の後ろから首だけを伸ばした。
俺は白布で紙を開いた。
『受領。北門左翼、残存六名。全員生存』
その下に、もう一行。
『次は、右手を返して』
俺は自分の右手を見た。
冷えてはいるが、付いている。
ミナも右手を背中へ隠した。
ベルクだけが、何も言わず受領票を一枚増やした。
返却室の規則には、人間の手を受け取った場合の欄がなかった。




