プロローグ 死者の荷札
勇者ルシアの葬式で、俺は参列者の顔をほとんど見ていなかった。
顔は泣けば崩れるし、偉い人ほど葬式用の顔を持っている。
靴のほうが正直だ。
磨きたての角靴は王宮から来た役人。つま先に北門の赤土が詰まった軍靴は、最後の撤退戦にいた兵士。左右で紐の色が違う小さな靴は、花を両手で抱えた女の子のものだった。
「ノア。あの人、誰だか分かる?」
隣のミナが、泣いて赤くなった目で前列を示す。
「銀の留め具に、左袖だけ新しい上着の人」
「人を修理箇所で呼ばないで。財務卿のハロルド様」
「名前を聞かれたとは思いませんでした」
「顔を聞いたの」
それなら最初から、名前を聞いてほしい。
口にすると長引きそうなので保留にした。
広場の中央では、完成したばかりの勇者像が聖剣を空へ掲げている。実物より頭二つ高く、外套にはほつれ一つなく、長靴にも泥がない。
あの装備で魔王城まで歩けたなら、洗浄係は失業していただろう。
像の足元を、黒い棺が通る。
俺の目は棺の金具で止まった。八個あるうち、右奥だけ新品だ。急いで交換したのか、釘の頭が一つ浮いている。
直したいと思った。
葬式で棺の釘を気にする人間は、たぶん俺くらいだ。分かってはいる。それでも、あの釘が道の途中で外れたらどうする。
棺が王宮へ戻るまで、石段は百二十七段ある。
「ノア」
後ろから杖の先が、俺の靴を軽く叩いた。
室長のベルクだった。
「棺から目を離せ、とは言わん。右奥の釘を記録しろ。終わったら、鞘を運べ」
「……はい」
仕事を渡されると、指が動いた。
浮いた釘。右奥。交換時期不明。
炭筆で荷札の裏へ書く。
棺を追っていた目を、ようやく手元へ戻せた。
◆
王宮地下返却室には、英雄の歌が届かない。
代わりにあるのは、洗浄薬と湿った革のにおい。それから、持ち主を待つ品で埋まった棚だ。
勇者ルシアの遺品は最奥の保管庫へ集められていた。
聖剣は寺院の封印庫。遺体は王家の管理下。返却室に残ったのは、外套、予備の長靴、手紙の束、壊れた留め具、そして聖剣の鞘。
勇者が死ぬと、受取人が増える。
王家は国のものだと言い、寺院は信仰のものだと言い、軍は戦友のものだと言った。
本人が生きている間に、それくらい熱心に休暇を渡してやればよかったのに。
「三十一番。外套。右肩に補修二回」
「勇者様が助けた粉屋の奥さんの縫い方です」
ミナが受領票へ印を付ける。番号だけでは覚えないくせに、縫った人の名前と家族構成なら一度で出てくる。
「三十二番。予備靴。右の踵が七ミリ深い」
「七ミリまで測る必要あります?」
「偽物は左右をそろえて汚す」
「そんなに丁寧な偽物、別の仕事を探したほうがよくないですか?」
同感だった。
最後の白布を開く。
黒革の鞘が現れた。
口金の右側だけ、刃の背に削られて白い。ルシアは右手で剣を抜いた。数千回、同じ角度で。
鯉口の下には、不格好な黒い糸が三重に巻かれている。
俺が縫った糸だ。
出陣の前夜、ルシアは一人で地下へ来た。
『留め具が壊れた。明日の朝までに直る?』
『正式な修理なら三日です』
『朝までしかない』
『では、朝までもつ修理をします』
巨大な聖剣を壁へ立てかけたので、先に床へ寝かせてもらった。壁の所有者は王家だが、壊した場合の報告書を書くのは俺だ。
縫い終わると、彼女は俺の名を聞いた。
英雄が覚えるはずもないと思い、俺は「地下の係です」とだけ答えた。彼女は修理票を一度見てから、笑った。
それが最初で最後だった。
「ノア」
ベルクの声で、指が止まる。
「試すなら、俺とミナの前で一度だけだ」
隠せていなかったらしい。
俺は鞘を両手で持った。
傷も、握られた場所も、俺の雑な修理も残っている。持ち主を間違える余地はない。
――勇者ルシアへ。
「《返却》」
右手中指の古傷が疼いた。
鞘は消えない。
光も音もなく、俺の手に残った。
分かっていた。
死者は受け取れない。
父の名札で何度も確かめた。正しい名を呼んでも、届く手がもうなければ《返却》は動かない。
「……記録。不発」
声が少しかすれた。
ミナは何も尋ねず、受領票へ印を付けた。ベルクは俺から鞘を受け取り、白布へ戻す。
「死者は急がない」
室長は受領票を四つ折りにした。
「急いでいるのは生きている側だ。ノア、封蝋を作れ。ミナは鍵を二本照合しろ。終わったら二人とも記録机で休め」
休めと言われるより、眠れる仕事を渡されたほうが俺には効いた。
俺たちは保管庫を閉じた。
鍵を二本。封蝋を三か所。荷受け口の鉄扉も内外から確認する。
異常なし。
俺は荷札の裏へ一語だけ書いた。
返却不能。
これで今日の仕事は終わったはずだった。
◆
夜明けの鐘が鳴る少し前、鉄を叩く音で目が覚めた。
こん。
一度。
こん。
二度。
三度目は、こちらが起きたのを待つように間を置いた。
こん。
ベルクが杖を取り、ミナが針箱を抱えた。俺は鍵へ触れる。
「開けるな」
ベルクが言い、すぐに杖で床を三度叩いた。
「ノアは封蝋。ミナは鍵。声に出して確かめろ」
「封蝋、三か所。破損なし」
「鍵、二本。どっちもここにあります」
保管庫の封は無傷だった。
荷受け口も閉じている。
それでも、夜明けの鐘が最後の一打を落とした瞬間。
鉄扉の内側に、細長い木箱があった。
昨日までは、なかった。
箱を縛る灰色の糸には、白い荷札が一枚。
受取人の欄へ、俺の名が書かれている。
『ノア』
その下に、さらに三行。
『内容 予備剣一振り』
『返却期限 朝鐘から百九十秒』
『北門。左へ』
最後の署名は、保管庫にある修理票と同じ筆跡だった。
『ルシア』
死者は、俺が名乗らなかった名前を、間違えずに書いていた。
おまけに、期限まで指定してきた。




