俺が縫った聖剣の鞘
十三個目の朝箱は、空だった。
正確には、白糸の空巻きへ九本の灰糸が絡み、箱の底に一言だけ残っていた。
『縫い目を見ろ』
誰の筆跡かは、まだ分からない。
聖剣の鞘を縫ったのは、俺だった。
勇者は、俺の名前を知らなかった。
それでも死後の仕事を、俺へ預けた。
「持ち出し許可は出ていない」
返却室の最奥で、カイルが言った。
白布の上に、現世界ルシアの鞘がある。
黒革。
口金の右だけが削れ、俺の黒糸で仮留めされている。
葬儀の夜、この鞘を死者へ返そうとして失敗した。
今は別の受取人がいるかもしれない。
「持ち出しません」
俺は答えた。
「《返却》します」
「言い換えでは」
「正当な受託者なら、です」
サージの話だけでは足りない。
死者の意思を、生者の都合へ縫い直すわけにはいかない。
俺は黒糸の結び目へ刃を入れた。
「切るの?」
ルシアが聞く。
「俺の修理です。俺がほどきます」
一針。
二針。
十八歳の俺が急いで縫った跡は、十九歳の俺にも不親切だった。
「端が短いです」
ミナが横から言う。
「知っています」
「次の人が困るやつです」
「今、困っています」
黒糸を抜くと、口金の内側から細い革片が落ちた。
折り畳まれた紙が縫い込まれている。
現世界ルシアの筆跡。
『北水路の全員が地上へ出るまで、鞘をサージへ預ける』
その下に、もう一行。
『私が死んだ時は、地下の黒糸の係へ。あなたなら、預け先と持ち主を分けるでしょう』
名前はない。
あの夜、俺は名乗らなかった。
彼女も聞き直さなかった。
ただ、仕事だけを見ていた。
「ノアのことだ」
青旗のルシアが言う。
「地下には他にも黒糸を使う係がいたかもしれません」
「そういう逃げ方、向こうのノアもした」
「今、その人は関係ありません」
言葉が強く出た。
ルシアの顔が止まる。
俺は紙を置き、棚の角をそろえた。
一つ。
二つ。
揃えなくていい三つ目に手を伸ばしたところで、ベルクの杖が止める。
「棚は逃げん。言葉を片付けろ」
代わりの作業を渡さない命令は珍しい。
◆
ルシアと二人、荷受け口の前へ座った。
ミナもベルクもカイルも、聞こえる距離にいる。
それでも、間へ入らなかった。
「私は、向こうのノアを出しすぎた」
ルシアが先に言った。
「パン、茶、合図。あなたが同じなら、死んだ人との続きを始められると思った」
「俺も、現世界のルシア様の記録で、あなたを埋めました」
「栗」
「栗です」
「あれはかなり嫌だった」
「焦がし麦茶も相当でした」
ルシアが一度、息を吐く。
「同点?」
「食べ物で相殺しないでください」
少しだけ、声が戻る。
俺は鞘の内側の紙を見た。
「現世界の彼女は、俺の仕事を信じた。うれしいです。でも、それをあなたへ引き継がせる理由にはならない」
「青旗のノアがあなたに似ていても、私が親しくしていい理由にはならない」
「親しくしないという意味では」
「分かってる。続きから始めない。最初から知る」
ルシアは右手を出した。
青旗の手甲。
別世界の修理痕。
目の前の本人が、自分で差し出した手だ。
「ルシア。握る。一回」
「歩数ではないですね」
「今、決めた」
俺は左手で握った。
右はまだ添え木の中だ。
「ノア。離す。今」
彼女が言う。
手を離す。
亡き相棒との三十二秒ではない。
現在の二人が、現在の時刻に決めた一回だった。
◆
現世界ルシアの紙には、預け先と仕事が具体的にある。
サージ。
北水路の全員が地上へ出るまで。
期限は終わっていない。
所有者は死んだが、受託関係は残っている可能性がある。
カイルが紙へ王宮証人印を押した。
「緊急保全として、サージへの一時返還を認める。正式審査は四日後だ」
「防壁は三日」
「だから今、私が責任を負う」
俺は鞘へ左手を置く。
黒糸を直した夜。
鞘を預かったサージ。
守られている百三人。
「現世界ルシアの鞘を、北水路救護院の受託者サージへ。《返却》」
鞘が消えた。
成功。
右腕の奥が冷える。
世界を越えない距離なのに、抵抗が強い。
死者の所有と、生者の受託が引き合ったせいだ。
「行くぞ」
ベルクが杖を取る。
「結果を見ずに受領票は閉じられん」
◆
救護院へ着くと、黒革の鞘は中央の白紐へ結ばれていた。
天井の布が膨らみ、淡い光が貯水槽を覆っている。
壁の向こうで魔獣が爪を立てた。
光が受け止める。
防壁は戻った。
サージが鞘から手を離す。
青旗ルシアは、自分の右手甲を外して見せた。
「これは私へ返った」
第5話で、《返却》は三歩先の彼女へ手甲を届けた。
現世界の鞘は、葬儀の夜に現世界ルシアへ返らなかった。
今日、受託者のサージへは届いた。
同じ顔ではなく、品ごとの履歴と現在の関係を選んだ結果だ。
「身体の形が同じでも、品は続きを選ばない」
俺はサージへ言った。
「手甲は彼女へ帰る。鞘は彼女を選ばない」
「物は融通が利かない」
「持ち主から見れば、あなたのほうです」
サージは鞘の黒糸を指でなぞった。
「だが仕事は残る。百三人を外へ出すまで」
「その仕事を、この人へ移すとは書いていない」
カイルが証人紙を示す。
「鞘の受託と、人の受託を混同するな」
サージの片眼鏡に、防壁の光が映る。
反論の代わりに、白糸を針へ通した。
「あなたへ預けたことは証明されました」
俺はサージへ言う。
「次は七件を確認します」
「防壁が戻った今、ほどく理由はない」
「戻ったから、選び直せます」
「いいや」
サージは鞘へ白糸を一針足した。
光が強くなる。
「この鞘は勇者の加護を覚えている。だが中身が空だ。現世界の勇者は死に、仕事だけが残った」
白糸が床を走る。
青旗のルシアの長靴へ絡んだ。
「別世界でも、同じ勇者なら続きを縫える」
「私は別人」
「顔も身体も力もある」
「記憶が違う」
「百三人の命に、記憶の違いが必要か?」
サージの言葉は、正論の形をしていた。
ルシアは白糸を空の鞘で切る。
「必要。私の返事だから」
糸が再び伸びた。
今度は七件の寄付品から。
盾、靴、外套、灯、工具、髪留め、手回し車。
白い光がサージの継ぎだらけの外套へ集まる。
「なら、全員が安全になるまで、ここで待ってもらう」
入口の布が縫い合わされた。
死者の仕事を証明した瞬間、生者の選択が閉じられた。




