十人目の差出人は、この世界にいる
十人目の差出人は、朝箱を送っていなかった。
途中で開けていた。
「正確には、出口のほつれへ針を入れた」
サージは救護院の奥へ続く階段を下りた。
「箱は夜明け前、ここを通る」
階段の底には、古い荷受け口があった。
王宮地下返却室と同じ石。
同じ幅。
違うのは、扉の代わりに水が立っていることだった。
壁の途中で止まった黒い水面へ、灰色の糸が九本沈んでいる。
「王宮の返却室は、昔の地下運河倉庫を改装した」
カイルが石刻を読む。
「この荷受け口と同じ水路だ」
「別世界の箱は、同じ場所を重ねて通る」
俺は言った。
第8話で二つの返却室が重なったのも、用途と場所が同じだったからだ。
朝箱は王宮へ直接現れるのではない。
複数世界の古い荷受け口を抜け、最後に現世界の返却室へ出る。
北水路は、その途中にある破れ目だった。
「九本の糸は、すでに箱へつながっていた」
サージが白い針を見せる。
「私は十本目を送っていない。こちらの紙を一枚縫い、匙と配給札を入れた」
「なぜ文章を完成させたんです」
「『まだ返す物があります』。九人は最後の一字を書けずにいた。出口が違えば、こちらの文字は向こうへ届かない」
「あなたは読めた」
「糸は言葉より正直だ。九本とも、続きを求める結びだった」
比喩ではある。
だが九人の差出人と連絡を取ったわけではないらしい。
サージは他世界側の共犯ではなく、現世界の通路へ偶然手を掛けた十人目だ。
「俺たちをここへ呼ぶためですか」
「鞘を返せる人間が、地下にいると聞いた」
「誰から」
「勇者から。死ぬ前に」
彼が指す勇者は、目の前のルシアではない。
「箱へ人を巻き込む前に、王宮へ来ればよかった」
「三度行った」
サージは外套の内側から、申請書を出した。
救護院の登録申請。
受領印なし。
二枚目は防壁資材の貸与申請。
返却。
三枚目には『居住者なしのため対象外』。
「地図にいない人間は、窓口にもいない。立派な型紙だ。紙の外側には、針一本通らない」
カイルが三枚を受け取った。
「今日、私の名で再提出する」
「それで三日以内に鞘が来るか」
カイルは答えない。
来ないのだろう。
制度を通す正しさと、期限へ間に合わせる正しさが、同じ速度ではない。
◆
サージの台帳を、俺とミナで一頁ずつ調べた。
貸し主。
品。
仕事。
期限。
四百件を越える記録の多くは、驚くほど具体的だった。
『ナナの赤毛布。冬の終わりまで』
『石工組の金具。リタが走れるまで』
『東薬師会の薬箱。熱病終息まで』
七件だけ、書き方が違う。
『救護院へ永久寄付』
品は、兵士の盾、革靴、銀の髪留め、工具箱、雨避け外套、真鍮灯、手回し車。
「署名した人へ会わせてください」
サージは針を止めた。
「必要ない」
「では、この七件は保留します」
「本人が署名した」
「署名の時刻が、入所と同じです」
七人とも、救護院へ来た日に全財産を寄付している。
余白へ、配給数と寝台番号。
字を書けない二人は、指印だけだった。
「食事と寝床を渡す条件にした?」
ルシアが聞く。
「品を守るためだ」
サージの比喩が消えた。
「外に所有権を残せば、債権者と親族が取りに来る。ここへ寄付した物なら、患者の装具に使える」
「本人へ貸与を選ばせればいい」
俺が言う。
「明日食べる物のない人間に、書類を四枚読ませるのか」
「だから一枚で奪った?」
「守った」
声は強い。
だが針穴へ糸が入らない。
一度。
二度。
三度目で、サージは針を置いた。
「七人は、品があったから追われた。ここへ入れば、取り立てから切れる」
「品だけでなく、選び直す権利まで切った」
俺の声が静かになる。
敬語を保つ余裕があるうちは、まだ怒っていない。
完全な敬語になったら、たぶん遅い。
「七名へ、現在の意思を確認させてください」
「拒否する」
「理由を」
「一人が返せと言えば、縫い目が緩む。防壁が落ちる」
七件の品は、救護院の防壁にも組み込まれている。
サージは全員を守るため、七人が選び直す機会を消した。
俺たちは七人のうち、歩ける三人へ会った。
元門兵オルロは、左肩を布で吊っている。
「盾を寄付する紙に署名しましたか」
「した。署名しないと、借金取りがここまで来ると言われた」
「返してほしいですか」
オルロは中央の防壁を見た。
「ほしい。でも、返せと言って壁が落ちたら、俺が百人を殺したことになる」
答えではない。
選べない状況の説明だ。
セナは右長靴を寄付していた。
「弟の薬と交換でした」
「サージが要求を?」
「薬師が、品を持つ人には支援を出せないって。サージはここへ寄付した形にすれば薬を取れるって」
制度の穴を通すためだった。
だが永久に渡す必要はない。
「今なら?」
「弟が歩けるまでなら貸す。永久は嫌」
ヴェンは雨避け外套の持ち主だった。
「返せ。今夜から雨だ」
答えは一番短い。
三人だけで、意思は三つに分かれた。
返してほしいが罪を負わされたくない。
期限を変えて貸したい。
今すぐ返してほしい。
永久寄付の一行は、その全部を消している。
◆
白い布の向こうで、リタが咳をした。
サージが即座に立つ。
薬の量を測り、湯を飲ませ、毛布を掛ける。
赤い毛布だ。
自由に貸したナナの品。
彼はその毛布を防壁へ使っていない。
「なぜ、それは使わない」
ルシアが聞く。
「リタが寒がる」
「七人も、返せと言うかもしれない」
「百三人が寒がる」
「数が多ければ、一人の返事を消していい?」
サージは答えなかった。
救護院を守った実績は本物だ。
守るために越えた線も、本物だった。
カイルが俺へ小声で言う。
「鞘は王宮の重要遺品だ。持ち出しには許可が要る」
「間に合いますか」
「通常なら十四日。緊急でも四日」
「防壁は三日」
「だから、私が責任を取れる別案を作る」
制度側の人間が、制度を言い訳にしなかった。
サージも聞いていた。
「四日では、布は裂ける」
彼は中央の白紐を握る。
「なら、今いる勇者に続きを縫ってもらう」
ルシアの空の鞘へ、白糸が伸びた。
「私は、死んだ彼女の続きじゃない」
糸が、彼女の足元で止まった。




