借り物だけでできた救護院
十二個目の朝箱には、白い針が一本入っていた。
針へ古い北水路の配水図が巻かれ、第三倉から救護院までの道だけが白糸で縫われている。
十人目は、もう居場所を隠していなかった。
借り物だけでできた救護院には、出口が四つあった。
入口は一つだった。
「残り三つは避難路です」
サージが言った。
「患者の数より先に出口を見る人間は嫌いではない」
カイルは剣から手を離さない。
「あなたは人の顔より、我々の装備を先に見た」
「破れた場所は、顔より先に助けを求める」
「人は布ではない」
「ええ。布なら、黙って直させてくれる」
比喩の後ろに、疲労があった。
昨日会ったリタが、寝台へ座っている。
左脚の装具を外し、サージが金具を調整していた。
「三歩のお姉さん」
リタがルシアを呼ぶ。
「今日は転んでない」
「まだ朝だから」
「この子、敵?」
ルシアが俺へ小声で聞いた。
「正確です」
「敵だね」
サージは二人の会話を無視し、装具へ新しい留め具を付けた。
「南門石工組の金具。リタが走れるまで預かる。折るな。名前を削るな」
「分かってる」
「返す時は?」
「洗って、油を塗って、ありがとうって言う」
「よし」
品の持ち主と役目を、声に出す。
俺たちの返却手順と似ている。
違うのは、ここに受領印がないことだった。
◆
「百三人」
サージは救護院を案内しながら言った。
「寝台七十二。歩ける者三十一。今朝の発熱は六。食事はあと五日」
カイルより数字が細かい。
「貸し主は」
俺が聞く。
「四百十八人と七組合」
「覚えている?」
「忘れたら、借り物が戦利品になる」
サージは棚から赤い毛布を取った。
「これは井戸通りのナナ。夫の葬儀で使った。冬の終わりまで」
次に薬箱。
「東薬師会。熱病が収まるまで。中の銀匙だけは薬師イデン個人」
割れた鍋。
「王宮厨房。貸与記録なし。これは盗んだ」
「自白が早いですね」
「返すなら、煮込みが終わってからにしてほしい」
俺は鍋へ触れた。
王宮厨房の焼き印。
底の修理日は三年前。
料理長の顔を具体的には知らない。だが最後に管理を任された食堂係ティナなら知っている。
「この鍋を、王宮厨房の受託者ティナへ。《返却》」
鍋が消えた。
煮込みだけが空中へ残り、床へ落ちた。
サージが目を閉じる。
「終わってからと頼んだ」
「盗品です」
「豆に罪はない」
ミナが布を取り、無言で豆を集め始めた。
ベルクなら、危険な議論の代わりに片付けを渡すところだ。
俺も手伝おうとしたが、右腕が動かない。
サージがこちらへ来た。
「見せろ」
「結構です」
「腕を返せとは言わない。添え木を当てる」
「敵かもしれない相手へ?」
「怪我は議論が終わるまで待たない」
吊り布を外し、指先、手首、肘を順に触れる。
手つきは慎重だった。
白糸で二本の薄板を布帯へ留める。
「検分で使うなら、あと二度までだ。終えたら一日、能力を使うな。感覚が戻る前に返せば、持ち主より先に腕が帰る」
「腕は返せません」
「比喩だ」
「分かりにくい」
「君とは長く話せそうだ」
初めて、サージが薄く笑った。
◆
自由貸与かどうかを確かめるため、ナナ本人を呼んでもらった。
赤い毛布の持ち主は、六十を越えた女性だった。
「返してほしいですか」
俺が聞く。
「今は要らないよ。夫は寒がらない。そこの子らは寒がる」
「サージに脅されていませんか」
「あの子が人を脅す時は、靴下を履け、薬を飲め、寝ろの三つだ」
毛布へ触れ、ナナを受取人にして《返却》を試す。
動かなかった。
彼女は現在、救護院へ自分の意思で預けている。
サージが正しい例だった。
別の木箱は、南門石工組の共有物。
組合の三人が「リタの装具が完成するまで、サージへ預ける」と署名している。
一人へ返そうとしても不発。
サージを受託者として指定すると、箱は彼の足元へ一尺だけ動いた。
正式な書類がなくても、品は人の意思を覚えている。
その時、貯水槽の外壁が鳴った。
低い爪音。
子どもたちが一斉に黙る。
「魔獣?」
ルシアが立つ。
「水路へ落ちた戦場の残りだ。防壁が薄い場所を探している」
サージは中央の白紐を引いた。
光が一瞬だけ広がり、外の影を押し返す。
その反動で、リタの寝台側の布が裂けた。
赤い毛布の留め金へ白糸を伸ばせば、穴はすぐ塞がる。
サージは伸ばさなかった。
自分の外套から一番厚い継ぎを切り、裂け目へ当てる。
「ナナの毛布は使わないんですか」
俺が聞く。
「リタへ貸された仕事は、温めることだ」
「言葉を広げれば、防壁で寒さを防ぐとも言える」
サージは俺を見た。
「言えることと、言っていいことは違う」
その境界を知っている。
知っていて、別の七件では越えている。
「王宮の帳簿より正確だろう」
「品は正確です。あなたが正確とは限りません」
サージの片眼鏡の奥で、目が細くなる。
「破れた布を直す時、糸は一方だけを信じない。君も似た仕事をしている」
「俺は、勝手に別の布を縫い足しません」
青旗の配給札を出す。
白糸の補修。
「本人へ聞かずに付けましたね」
サージはルシアを見る。
「裂けていた」
「私のだった」
「直した」
「先に聞いて」
短い言葉が、貯水槽へ落ちた。
サージは反論せず、針穴へ白糸を通し直した。
一度。
失敗。
二度目で通る。
「返す」
彼は配給札の糸を自分で切った。
善人であることと、正しいことは同じではない。
間違いを一つ戻せることと、ほかに間違いがないことも同じではない。
◆
救護院の中央には、太い白紐が天井から垂れていた。
先端だけが黒い。
見覚えのある糸だった。
「この黒糸は」
「勇者の鞘をつないでいた」
サージが答える。
「あの人は、鞘をここへ預けた。魔獣避けの防壁を、全員が出るまで保たせるために」
今、現世界ルシアの鞘は返却室の最奥にある。
「なぜ戻ったんです」
「最終戦で必要だと持っていった。死んだら、地下の係が返すと言った」
俺の黒糸を見たからだ。
彼女は名前を知らなかった。
それでも、仕事は覚えていた。
「ノア」
サージが初めて俺の名を呼ぶ。
「鞘を返してくれ。ここの防壁は、あと三日で裂ける」
青旗王都へルシアを戻す期限は、あと十日。
現世界の救護院が崩れる期限は、三日。
死んだ勇者が残した仕事が、生きている別人の前へ並んだ。




