勇者の遺品を、勇者本人が受け取れない
北水路第三倉は、地図に存在しなかった。
鍵穴だけは存在した。
「王都の管理として、いかがなものかと」
カイルが石壁の割れ目を見た。
「隠し倉庫へ案内板を付けますか?」
「少なくとも排水図へは記載します」
「それで隠せなくなります」
「隠されないのが管理です」
議論は後ろへ置き、俺は壁を見た。
石灰の色が一枚だけ新しい。
右長靴の底に付いていた粉と同じだ。
真鍮の鍵を差す。
三つの歯が、石の奥で順番に噛み合った。
壁が内側へ開く。
冷たい空気と、小麦の匂いが出てきた。
棚が十二。
粉袋、毛布、薬草、子ども用の靴。
武器は一本もない。
「軍の横流し品か」
カイルが粉袋の印を確認する。
「違います」
ミナが先に答えた。
袋へ、名前が書かれている。
『東粉屋ハン』『井戸通りのナナ』『南門石工組』『ルシア』
一袋へ四人。
毛布にも、薬箱にも、貸した人の名と返す条件がある。
『冬が終わるまで』
『熱病の子が歩けるまで』
『北水路の百人が家へ移るまで』
寄付ではない。
期限付きの貸与品だ。
「所有者を消していない」
俺は言った。
マルクの倉庫とは、棚の埋まり方から逆だった。
あの男は名前を剥がし、価格だけを付けた。
ここでは、破れた袋の一片にまで名前が残っている。
「現世界のルシアは?」
ルシアが聞いた。
ミナが台帳を見つけた。
表紙は白糸で継がれ、最初の頁に大きく書かれている。
『英雄の名を配給へ使うな』
その下に、現世界ルシアの署名。
「なぜです」
カイルの声が硬くなる。
次の頁に答えがあった。
『私の名で集めれば、勝利記念局が半分を式典へ回す。名のない人から借り、名のない場所へ届けること』
戦勝式の大幕。
英雄像を囲む青い布。
あれを一枚減らせば、この棚の毛布を何枚買えただろう。
俺は考え、やめた。
比べるだけでは、ここに寝床は増えない。
「彼女らしい?」
ルシアがカイルへ聞いた。
「はい」
「私も、たぶん同じことをする」
「それでもこれは、あなたの功績ではありません」
俺は言った。
「分かってる」
「顔を見た人は、あなたに礼を言います」
「そのたび違うと言う」
「百三回でも?」
「百四回目も」
迷いがない。
同じ選択をする人でも、選んだ過去は別々だ。
台帳の中ほどに、現世界ルシアとカイルの名が並ぶ頁があった。
正確には、カイルの名だけが線で消されている。
『近衛隊長へは知らせない。止めるから』
カイルが読み、顔を上げない。
「止めましたか」
ミナが恐る恐る聞く。
「知っていれば、止めた」
「では正しかった?」
ルシアの問いに、カイルは十一秒黙った。
「隠した判断は理解する。私を信用しなかったことは、理解したくない」
数字を使わない答えだった。
頁の下には、別の一文がある。
『カイルは規則を守る。だから、最後に規則を変える時は頼る』
現世界のルシアは、彼を外したのではない。
順番を後ろへ置いた。
「最後に頼られなかった」
「死んだからです」
俺は言った。
「順番が来る前に。あなたが失敗した証拠ではありません」
「慰めでは」
「時系列です」
カイルは一度だけ目を閉じ、頁を証拠袋へ入れた。
「では、遅れた順番を今日受け取る」
◆
台帳の最後に、簡単な地図が挟まっていた。
北水路第三倉から、さらに下へ。
古い排水路を三つ渡った先に、丸い印。
『救護院』
最初の水路は、橋板が半分腐っていた。
カイルが先に渡り、ミナが続く。
俺が足を置くと、右の欄干が外れた。
「ノア!」
ルシアが上着をつかむ。
一歩で引き戻された。
彼女の右肩が、わずかに沈む。
「痛みましたか」
「平気」
「平気は何割」
「八割」
「二割痛い」
「カイルが細かいの、移った?」
「必要なので」
俺は橋板の裏を見た。
白糸が何本も渡されている。
切れた板同士を直接縫ってはいない。
向こう岸の鉄杭、こちらの石輪、中央の板へ、同じ結び目がある。
『人を一人ずつ渡す』
炭で書かれた役目。
「二人同時は危険です」
「分かるの?」
「この橋が預かった仕事です」
一人ずつ渡る。
橋はきしんだが、落ちなかった。
白糸は丈夫なのではない。
壊れた品へ、できる範囲の仕事を渡している。
橋の途中で、ルシアが下を見た。
暗い水へ、青い光が一瞬だけ映る。
青旗王都の鐘楼。
こちらには五つしかないはずの影が、六つ揺れた。
「また重なってる」
ルシアが言う。
俺は白糸の一本を調べる。
灰色の繊維が混ざっている。
サージの修繕は、朝箱の通路へ近づくほど、別世界の物までつないでいる。
「長く留まれません。接触が増えれば、第8話と同じ競合が起きます」
「何時間」
「分かりません」
「では、一時間として動く」
分からない期限を短く置く。
青旗の彼女が今まで生き残った理由が、歩き方にも出ていた。
◆
二つ目の水路で、王宮の封印杭が道をふさいでいた。
『疫病区画。立入禁止』
日付は三か月前。
疫病は二か月前に終息している。
「封鎖解除の命令が届いていない」
カイルが杭を調べる。
「正確には、申請が未提出です」
「中に百三人いるのに?」
ルシアの声が低い。
「帳簿上は零人だ」
「零人は食べない。寒がらない。便利だね」
杭は王宮の公有物だ。
俺一人の《返却》では動かせない。
カイルが管理印を出した。
「緊急通行を許可する。責任者は私だ」
杭の鎖が外れる。
制度が道を閉じた。
制度にいる一人が、道を開けた。
どちらも記録しておく必要がある。
◆
最後の曲がり角を抜けると、古い貯水槽へ出た。
天井から白い布が何十枚も垂れ、仕切りになっている。
寝台。
煮炊きの煙。
子どもの声。
百人以上が、王都の地図にない場所で暮らしていた。
入口の担架に、白糸の二度戻し。
片眼鏡の男が、針を火であぶっている。
焦げ茶の髪。
継ぎだらけの外套。
彼は俺たちより先に、ルシアの長靴を見た。
「その靴は、この場所の泥をまだ知らない」
次に、俺の吊った右腕を見る。
「そちらは、返しすぎてほつれた手だ」
男は針を白布へ置いた。
「ようこそ。王宮の立派な型紙から、はみ出した人間のところへ」
白縫いのサージは、笑わなかった。




