死んだ勇者の靴は彼女に返らない
死んだ勇者の右長靴が届いた。
生きている勇者の足元へ置いても、何も起きなかった。
「もう一度」
ルシアが言った。
「結果は変わりません」
「でも、顔も足の大きさも同じ」
「持ち主が違います」
十一個目の朝箱は、箱より泥の塊に近かった。
灰色の糸は一本。
蓋を開けると、右足用の長靴が立っていた。
乾いた石灰、北水路の黒泥、踵に七ミリの偏った減り。
現世界ルシアの予備靴と同じ癖だ。
青旗のルシアは左足で踏み込み、左爪先を二重革で直している。目の前の長靴に、その補修はない。
物証は最初から別人だと言っていた。
確認のため、俺は左手で靴へ触れた。
「この長靴を、青旗のルシアへ。《返却》」
不発。
靴は彼女の足元から一寸も動かなかった。
能力が、同じ顔へ情けをかけることはない。
「履いてもいい?」
ルシアが聞いた。
「あなたの物ではありません」
「調べるため」
俺は白布を床へ敷いた。
彼女は青旗の右長靴を脱ぎ、現世界の一足へ足を入れる。
大きさは合った。
一歩進む。
踵が外へ逃げる。
二歩目で履き口が右の脛へ当たった。
「同じ足なのに、歩きにくい」
「現世界の彼女は右脚から踏み込みました。あなたは左です。革が覚えた重心が逆なんです」
ルシアはすぐに脱ぎ、布の中央へ戻した。
「顔より、靴のほうが私たちを区別する」
「人は表面を整えます。靴底までは演じません」
「ノアが人の顔を覚えない言い訳?」
「合理的な理由です」
「言い訳だ」
否定材料が少ないので、記録へ戻った。
「次。現世界のルシアへ」
ルシアが言う。
「死者は受け取れません」
「分かってる。確かめたい」
俺は靴の履き口を見た。
右側だけ擦れ、留め革は右手で引く方向へ伸びている。
あの棺の人が使った物だ。
思い浮かべる。
白い花。
閉じた棺。
返らなかった鞘。
「この長靴を、現世界のルシアへ。《返却》」
何も起きない。
予想した不発は、慣れても軽くならない。
死を、能力で一件ずつ再確認する。
「ごめん」
ルシアが言った。
「あなたが謝ることでは」
「でも、やらせた」
俺は返事をせず、荷札の裏へ『別人』と書いた。
それだけでは足りず、隣へもう一語足す。
『死亡』
同じ意味ではない。
混ぜないための二語だった。
◆
長靴の底には、妙な膨らみがあった。
踵を外す。
泥よけの革と靴底の間から、真鍮の鍵が出た。
細長く、先端が三つに分かれている。
柄には『北水路第三倉』。
鍵を隠した縫い目は、白ではない。
黒い糸だ。
「これ、ノアの縫い方です」
ミナが言った。
「なぜ分かるんです」
「糸を切る時、端を短くしすぎます。ほどけないけど、次の人が困るやつ」
褒められてはいない。
だが見覚えがあった。
出陣前夜。
返却室へ突然持ち込まれた、黒革の聖剣の鞘。
口金の右側が外れ、あと一刻で勇者が出ると言われた。
俺は名を名乗らず、黒糸で仮留めした。
余った糸を、鞘の持ち主へ渡した。
『次に何か隠すなら、この縫い方で』
冗談のつもりだった。
彼女は覚えていた。
「現世界の勇者様は、ノアを知ってたんですか?」
ミナが聞く。
「名前は知らなかったはずです。俺は地下の係としか」
ルシアは、黒糸へ触れない。
「青旗のノアは、糸を使わなかった」
「何で直していました」
「革紐。細かい作業は下手だった」
俺より知っているノア。
俺だけが知っているルシア。
互いに持っている死者の断片が違う。
比べれば、どちらも少しずつ勝てる。
続ければ、目の前の二人がいなくなる。
「その夜、何を話した?」
ルシアが聞いた。
「ほとんど何も。鞘の口金が外れた理由と、出陣までの時間だけです」
「何分?」
「五十二分」
「覚えてる」
「修理期限なので」
「向こうのノアは、私が出る前、何も直さなかった」
「下手だったから?」
「それもある。でも、話した。帰ったら何を食べるか、戦争が終わったらどこへ行くか」
俺たちの五十二分は、糸と革だけだった。
青旗の二人には、言えなかった未来があった。
どちらが深いか比べるものではない。
修理は修理。
約束は約束。
同じ棚へ入れないほうがいい。
「この黒糸は、俺の仕事です」
俺は言った。
「でも、隠したのは彼女の選択です」
鍵の根元へ、薄く油が付いている。
北水路の扉へ差す直前まで使われていた。
◆
カイルは遺品目録を持って現れた。
最終戦の本装備。
外套は半焼失。
長靴は両足焼失。
聖剣と鞘は回収。
「右長靴がここにあるなら、記録担当が虚偽を」
「記録担当の署名は」
俺が聞く。
カイルの指が止まった。
「ルシア殿本人だ」
「自分で焼失と書いた?」
青旗のルシアが眉を寄せる。
「最終出陣の二日前です。装備を交換する申請に、本人が署名している」
右長靴はそれより前に北水路へ置かれた。
現世界のルシアは、自分で履歴を消した。
英雄の名で運べば、救護物資は戦勝事業へ数えられる。人目を避ける理由はありそうだ。
だが推測で受領印は押せない。
カイルは目録の紙を持ったまま、しばらく動かなかった。
「私は、最終戦まで彼女の装備数を毎朝確認した」
悲しみが強い時ほど、彼は数字を使う。
「剣一、鞘一、外套二、長靴二足。右長靴が一つ減ったことに、気づかなかった」
「本人が予備と入れ替えたなら、数字は合います」
「数だけを見た」
「俺は物だけを見ます」
「慰めか」
「同じ失敗の報告です」
カイルは目録を折らず、証拠袋へ戻した。
「では次は、数と物と、本人が隠した理由を見る」
命令ではなく、自分へ言っていた。
「第三倉を開けます」
「罠の可能性は」
「あります」
「なら軍を二個小隊」
「連れて行けば、隠した理由ごと踏み潰します」
カイルの敬語が静かになる。
「警備なしで、別世界の勇者殿を地下水路へ入れると?」
「四人です。俺、ルシア、ミナ、あなた」
「私は一個小隊に含まれますか」
「数字の細かい一人です」
ルシアが鍵を取った。
「行こう。死んだ私が隠した物を、生きている私の功績にしないために」
長靴は彼女へ返らなかった。
だからこそ、扉の向こうで見つけるものも、彼女の過去にはならない。




