勇者は弱くなってから人を救う
白い糸を売った店は、北市場に一軒だけだった。
「売ってないよ」
店主は言った。
「一軒だけなのに?」
ミナが棚を見上げる。
「だから売ってない。入ったら全部、白縫いが持っていく」
糸屋の棚には赤、青、茶、黒が並び、白だけが空だった。
最後に仕入れたのは十二束。
買った男は焦げ茶の髪、片眼鏡、継ぎだらけの外套。
代金の半分は銅貨、残りは店主の腰当ての修理で払った。
「名前は」
「知らないね。皆、白縫いって呼ぶ。北水路で破れた物をつないでる」
「人も?」
ルシアが聞いた。
店主は彼女の顔を見て、言葉を失った。
現世界の勇者像は、王都のどこにでもある。
同じ顔が立っていれば、反応は三つだ。
祈る。
逃げる。
偽物と叫ぶ。
店主は四つ目を選んだ。
「あんた、ずいぶん食べたね」
「分かる?」
「向こうの肉包み屋が、勇者様に在庫を討伐されたって」
伝説の更新が早い。
ルシアが何か言い返す前に、市場の上段で木の割れる音がした。
◆
石材を積んだ荷車が、坂を下っていた。
昨日より大きい。
なぜ王都の荷車は、二日続けて勇者へ挑むのか。
「前を空けろ!」
俺が叫ぶ。
市場は狭い。
布屋の台、野菜籠、買い物客。
坂の下には子どもが三人いる。一人は左脚に木の装具を付け、転んだまま起き上がれない。
ルシアが走った。
「二歩まで!」
「分かってる!」
一歩。
二歩。
子どもと荷車の間へ入る。
剣は抜かない。
両手で横木を受ければ、昨日と同じ失敗になる。
ルシアは地面の敷石を蹴った。
荷車を止めず、右の車輪だけを浮かせる。
車体が傾いた。
だが石の重さが勝つ。
三歩目へ足が出る。
膝が落ちた。
「ノア!」
名前だけ。
動詞と歩数を決めるのは俺の番だ。
店先の天幕を支える白紐。
柱側の結び目は、二度戻しで直されている。
サージが触れた紐だ。
荷車の後輪。
左側の空いた魚屋。
人をどかす時間はない。
「ルシア、上げろ、一歩!」
俺は白紐を引き抜き、輪にして後輪へ投げた。
右手は布帯の中。
左だけでは届かない。
ミナが紐の端を拾い、糸屋の柱へ回す。
「こっちでいいですか!」
「そこです。巻いて!」
ルシアが片膝から立つ。
一歩だけ踏み込み、浮いた車輪をさらに上げた。
白紐が張る。
結び目が一瞬、淡く光った。
荷車が横を向く。
石材は空の魚屋へ崩れ、干し網と樽をまとめて潰した。
魚屋の主人が悲鳴を上げた。
「人は無事です!」
ミナが先に言う。
「網は!」
「あとで弁償します!」
「誰が!」
「王宮が!」
カイルがいない場で約束していい範囲を、あとで確認する必要がある。
群衆から、遅れて声が上がった。
「勇者様だ」
「生き返ったんだ」
「やっぱり本物だ!」
ルシアの肩が固くなる。
石を受け止めてもいない。
三歩目で転び、俺とミナの紐を借り、魚屋一軒を壊した。
それでも人は、助かった結果を伝説へ戻そうとする。
ルシアは立ち上がらなかった。
地面へ膝をついたまま、少女の装具の留め具を確認する。
「私は生き返ってない。別のルシア」
市場が静まった。
「今は四割。荷車も一人では止められない。助けたのは、ノアとミナと、この紐」
白紐を持ち上げる。
「魚屋は壊した」
「そこを自分から足さなくても」
俺が言うと、魚屋の主人が腕を組んだ。
「忘れられたら困る」
「弁償はします」
ルシアは腰の青い留め金へ手をかけた。
青旗世界から持ち込んだ数少ない品だ。
「それは駄目です」
俺は止めた。
「でも払う物が」
「責任者を呼びます。品の来歴を消してまで、今すぐ格好をつけないでください」
魚屋の主人は、壊れた干し網を見た。
「北水路の連中へ石が届くなら、今日だけは待つ。明日は請求する」
「明日までにカイルを連れてきます」
俺が答える。
「数字の細かい人?」
「とても」
「では網の目まで数えてもらおう」
交渉成立かどうかは怪しいが、期限は一日できた。
ルシアは地面へ手をつき、装具の少女を見た。
「怪我は」
「ない」
「立てる?」
「お姉さんこそ」
「私は二歩なら」
「三歩目で転んだ」
見られていた。
少女は九歳ほど。左脚の木製装具へ、小さな名前がいくつも書かれている。
『オド』『ナナ』『石工組』『リタ』
所有者の一覧に見えた。
「この装具、誰が直しました」
俺がしゃがむと、少女は警戒して脚を引いた。
まず品を見たせいだ。
ミナが隣へしゃがむ。
「私はミナ。この細かい人がノア。三歩で転んだお姉さんはルシア。あなたは?」
「リタ」
少女の肩から力が抜けた。
「直したのはサージ。白縫いは嫌いって言う」
初めて、名前が出た。
「サージはどこに?」
「北水路。第三の古い倉」
九つ目の箱に入っていた配給札と同じ場所だ。
俺は装具の白糸を見た。
二度戻し。
荷重を逃がす結び。
木は四種類。金具は三種類。名前の違う持ち主から少しずつ借り、一つの脚を支えている。
「これ、全部リタさんの物ですか」
「違うよ。走れるまで借りてる。走れたら返す」
「誰に言われました」
「サージ。借りた名前を消すなって」
盗品を集めたマルクとは逆だ。
所有者を消さず、品をつなぐ人間。
それでも青旗の配給札へ、本人に無断で糸を付けた。
正しい人か、間違った人か。
その二つへ分けるには、縫い目が多すぎた。
◆
荷車の処理が終わる頃、リタがルシアの長靴を見ていた。
「前と違う」
「会ったことがある?」
ルシアが聞く。
「勇者様なら。冬の前に、粉袋を三つ背負ってきた」
「私はこの世界に来て十日目」
「じゃあ、別の勇者様」
リタは驚かなかった。
装具に四人分の名前を書く子どもにとって、同じ顔の別人は受け入れやすいのかもしれない。
「その人は、何をしていました」
俺が聞く。
「夜に来た。青い服を裏返して、名前を書かないでって。サージと喧嘩してた」
「何について」
「靴」
リタは自分の装具を軽く叩いた。
「勇者様が、片方だけ置いていった。泥の場所を忘れないためだって」
現世界ルシアの遺品目録にあるのは、返却室へ収めた予備の長靴だけだ。
最終戦で履いた本装備は『焼失』と記録されている。
片方が北水路に残っているなら、焼失の記録が間違っている。
あるいは、誰かが履歴を隠した。
「靴は今どこです」
「朝になったら、箱に入れるってサージが言ってた」
明日の朝箱。
十人目は、こちらから品を足せる。
次に届くのは、死んだ勇者が記録から消した長靴だ。




