第88話:豪商の救済
第88話:豪商の救済
天正十五年、春。上方から西国へ向かう山陽道と瀬戸内の海は、関白・豊臣秀吉が発した大動員令により、かつてない軍勢と物資の怒濤の往来に包まれていた。
九州のほぼ全土を平定し、豊臣政権に対して反旗を翻し続けていた薩摩の島津氏を撃ち滅ぼすため、秀吉は二十万を超える破格の大軍を動員し、「九州平定」の巨費と兵糧を全国からかき集めていたのである。
その一大補給拠点となった大坂の街には、全国から兵糧米、鉄、火薬、武具、そして駄馬が次々と運び込まれ、昼夜を分かたず莫大な物資が交易されていた。
されど、その壮大な外征の裏側で、豊臣政権の奉行衆――石田三成や増田長盛、長束正家といった冷徹な実務派官僚たちは、九州征伐に必要な膨大な兵糧米と軍資金を確保するため、市井の商人や庄屋たちに対して、容赦のない厳酷な査定と過小税の徴収を強めていたのである。
わずかな帳簿の記載漏れや、天候不順による納入の遅れすらも「政権の軍事業務を妨げる不義」として厳しく糾弾され、大坂や堺の問屋が次々と差し押さえを受け、店主が牢に投じられる事態が頻発していた。
大坂の政庁近くにある安国寺恵瓊の宿坊に、悲鳴のような駆け込みがあったのは、まさにその春の半ばのことであった。
駆け込んできたのは、さきに大坂の船場筋で恵瓊が役人たちの不当な暴力から間に入って庇い、一時的な立て替えの手はずを整えてやった、あの米塩問屋・和泉屋甚兵衛の若い手代であった。
手代は額を畳にこすりつけ、血の滲むような涙を流して訴えかけた。
「安国寺様! お助けくだされ! 我が和泉屋が……和泉屋が、奉行衆の手によって潰されようとしておりまする!」
「落ち着かれよ。さきの過小税の立て替えの手はずは、すでに整えておいたはずだが」
恵瓊が静かに促すと、手代は震える声で事の次第を明かしたのだった。
甚兵衛の店は、恵瓊の立て替えによって一時的な処分を免れたものの、今般の九州征伐に伴う緊急の兵糧徴発において、奉行衆から過去数年間にわたる帳簿の再点検を命じられたのである。
増田長盛らの配下である税吏奉行は、数年前の極微細な記載の不整合を「意図的な過小税の隠蔽と、兵糧米の不正横領」と断じ、和泉屋に対し、店の全資産を遥かに超える莫大な追加過小米の納入を命じたのだった。
支払いが不可能な額であることを知った奉行衆は、和泉屋の米蔵と店舗を直ちに差し押さえ、主人である甚兵衛とその妻、さらには幼い子供たちまでも捕縛して牢へ投じ、明後日には「見せしめ」として全財産没収の上、一族郎党ことごとく血祭りにあげようとしていたのである。
「奉行様方は『関白様の九州御陣に一粒でも米を怠る者は、天下の法を乱す大罪人なり』と聞く耳を持たれませぬ! 甚兵衛旦那も奥様も、縄を打たれて死を待つばかりにございます! お救いくだされ、安国寺様……! 我らには、あなた様しかお頼みできるお方がおられないのです……!」
手代の哭泣を聞きながら、恵瓊は静かに目を閉じ、懐の中にある数珠をきつく握りしめた。
石田三成をはじめとする豊臣奉行衆の繰り出す「法と数字の絶対性」――。
彼らは決して私利私欲で甚兵衛らを痛めつけているのではない。
「九州征伐を完璧に完遂し、天下の法を整える」という大局の目的のためには、一軒の豪商の破滅や一家族の命など、計算の誤差として冷酷に切り捨てるのが彼らの「理」なのだ。
かつて大坂城の長い回廊において、三成が己に向けて言い放った言葉が、恵瓊の耳の奥で冷たく響いていた。
『大局の成果のためには、小の犠牲は当然の理。私情を挟んで法を曲げるは、政権の構造を乱す以外の何物でもありませぬ』
されど――恵瓊の胸の奥底で、熱い血が怒りとなって燃え上がった。
(その『小の犠牲』として殺されようとしているのは、真面目に働き、生きてきた生身の人間なのだ……! 法律や数字のために、人が殺されてたまるか!)
恵瓊は立ち上がり、紫の袈裟を正すと、智念を従えて直ちに大坂の奉行陣屋へと向かったのだった。
奉行陣屋の大広間においては、増田長盛の直属の配下である不気味な税吏奉行が、書類の山を前にして、縄で縛られた和泉屋甚兵衛と妻、そして怯えて泣く幼子たちを嘲笑うように見下ろしていた。
「あきらめよ、甚兵衛。関白様の天下において、帳簿の不備は死罪に相当する。お主らの店と米蔵はすべて没収し、九州征伐の軍糧に充てる。明日には市中引き回しの上、首を跳ねてやるゆえ、仏に祈るが良い」
「奉行様……! どうか……どうか幼い子供たちの命だけはお助けを……!」
甚兵衛が泥に顔を擦り付け、血の涙を流して乞い願っていた、その時であった。
「控えられよッ!」
地を揺るがすような大喝とともに、広間の襖が押し開かれた。
入ってきたのは、関白秀吉から賜った最高位の金紋の袈裟を身に纏い、冷徹なまでの威厳を放つ安国寺恵瓊であった。
税吏奉行は驚いて跳ね起き、恵瓊の姿を目にするや、慌てて平伏した。
「あ、安国寺様……! なぜこのような検地の場にお越しでございますか……!」
恵瓊は平伏する甚兵衛一家の前にすっと立ちふさがり、奉行を刺すような眼差しで見下ろした。
「福原殿、ならびに増田殿のお言いつけと察するが……この和泉屋甚兵衛の捕縛と資産没収、直ちに取りやめられよ」
「さ、されど安国寺様!」
奉行は引きつった顔で反論を試みた。
「この和泉屋は、過去の蔵入地米の査定において不備があり、政権の過小税を免れようとした大罪人にございます! 石田三成様、増田長盛様からも『九州御陣の兵糧確保のため、不義の商人は容赦なく処罰せよ』との厳命が下っておるのです! いかに安国寺様とて、豊臣の天下の法を曲げるお口出しは――」
「法、とな?」
恵瓊は声音を極限まで低くし、静かに、しかし恐ろしいほどの圧迫感をもって一歩前へ踏み出した。
「お主たちの言う『法』とは、真面目に上方の経済を支えてきた商人を脅しつけ、一族を殺して財産を奪い取ることか! 甚兵衛が納められぬというその過小の不足分、私が伊予二万三千石の領地からの米と、毛利家の兵糧調達の伝手をもって、いま直ちに全額代わりに納めてやろうではないか!」
広間にどよめきが走った。恵瓊は懐から、関白秀吉の直筆の朱印状と、自らの花押を捺した外交書状を取り出し、奉行の目の前へ力づくで叩きつけた。
「この和泉屋甚兵衛は、毛利家が九州征伐において兵糧を調達するための、不可欠なる豪商である! この者を不義の罪として殺し、店を潰すというのであれば、私がこれより直ちに大坂城へ上り、関白・秀吉様に直接お伺いを立てよう! 『三成殿や増田殿の配下の奉行が、毛利の九州出兵に必要な商人を理不尽に殺そうとしている』とな! ……お主、関白様がどちらの言い分を正しとし、誰の首を跳ねられるか、己の命を賭けて試してみるか?」
恵瓊の繰り出したのは、完璧な「権力と威厳の行使」であった。
関白秀吉からの絶対的な寵愛と、自らのを持つ「天下の外交僧」としての膨大な立場を笠に着て、相手の奉行を政治的な恐怖によって完全に力ずくで叩き潰したのである。
税吏奉行は顔色を土色に変え、全身を激しく震わせた。
関白秀吉の怒りを買い、毛利家との外交問題を惹き起こせば、己自身の首が飛ぶのは明白であったからだ。
「は、ははっ……! 滅相もございませぬ! 安国寺様がそこまでおっしゃるならば、某の不手際にございます! ただちに和泉屋の罪を免じ、お引き渡しいたしまする!」
奉行は平伏し、震える手で即座に甚兵衛一家の縄を解かせたのだった。
恵瓊の圧倒的な権威の行使によって、絶体絶命の淵にあった和泉屋甚兵衛一家の命と全資産は、完全な形で救い出されたのである(救済管理表の救済成功)。
陣屋を出たのち、助け出された甚兵衛と妻、そして幼い子供たちは、大坂の街辻において恵瓊の足元へひれ伏し、声を上げて慟哭したのだった。
「安国寺様……! ありがたき幸せにございます! 私どもの命も、店も、子供たちの未来も、すべてあなた様のお力によって救われました! あなた様は真に、この狂った世に遣わされた生き仏様にございます……!」
甚兵衛は涙を流しながら、恵瓊の手を両手で固く握りしめた。
恵瓊はあらかじめ手配しておいた自らの直筆の通行手形を甚兵衛に手渡し、静かに言い含めたのだった。
「甚兵衛殿、礼には及ばぬ。……されど、手形を使い、今すぐ財産の過半とご家族を、毛利の治める播磨の兵庫湊か備後の尾道へ移されよ。大坂の街は、いまや豊臣の法と計算が渦巻く危険な場所だ。安全な毛利の領内で、静かに商いを広げられるが良い」
甚兵衛一家は何度も頭を下げ、恵瓊の手形を宝物のごとく懐に抱きしめると、感謝の涙を流しながら避難の途へとついていったのだった。
大坂の街では、この事件の評判が瞬く間に広がり、「毛利の安国寺恵瓊殿は、奉行衆の過酷な取り立てから民や商人を救い出す、誠に情け深き大名僧なり」と、町衆や商人たちの間で絶大な称賛の声が巻き起こっていた。
されど――。
夕暮れ時、大坂の宿坊へ戻り、一人行灯の火を見つめていた安国寺恵瓊の胸中にあったのは、救済の達成感などでは断じてなかった。
恵瓊の胸の奥底を苛んでいたのは、血を吐くような強烈な「自己嫌悪」と「苦い重苦しさ」であった。
恵瓊は自らの震える両手を見つめ、文机の上に突伏して低く呻いた。
(私は……何をやっておるのだ……)
恵瓊の脳裏には、さきに大坂城の廊下で石田三成と激しく言葉を交わした折の、己の言葉が虚しく反響していた。
『数字や法だけで人を縛るな! 一人ひとりに人間としての感情と人生があるのだ!』と、あの時自分は正義感を露わにして三成の冷徹さを批判したはずであった。
されど――いま、自分が和泉屋甚兵衛一家を救うために使った手立てはいったい何であったか。
結局のところ、自分もまた「関白秀吉の側近」という権勢を誇り、「関白様の直筆の朱印状」という絶対的な権力を笠に着て、相手の奉行を恐怖と圧力によって強引に黙らせただけに過ぎないではないか。
言葉の理や、人間の情によって相手を納得させたのではない。
単に「より巨大な権力」を振りかざして、下の権力を力ずくで踏みつぶしただけに過ぎなかったのだ。
(権力を使わねば……秀吉殿の虎の威を借りねば……私は目の前の一人の命すら救うことができぬというのか……)
権力の味という甘い毒。
さきに毛利家中での調停で権力を振るって大失敗し、反省したはずの己が、結局は命を救うためという大義名分のもとで、再び「権力の力押し」に依存して人を動かしているという残酷な現実。
自分は、三成や官兵衛といった「権力の構造で世を動かす者たち」と、本質的には何ひとつ変わっていないのではないか――。
その恐ろしい自問自答が、恵瓊の魂を激しく苛み、深い絶望となってのしかかっていた。
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」
恵瓊は暗闇の中で数珠を強く握りしめ、涙を流しながら念仏を唱え続けた。
命は救えた。されど、己の魂は、権力という巨大な魔物の中に着実に呑み込まれつつある。
その恐ろしい孤独と苦悩を胸に抱えながら、外交僧・安国寺恵瓊は、初夏の冷たい夜風の中で、ただひとりじっと耐え続けるのであった。




