第75話:裂ける毛利
第75話:裂ける毛利
天正十年、十一月。安芸国の吉田郡山城を包む山々は、早や色あせた葉をことごとく散らし、山肌を剥き出しにした寒々しい姿を晒していた。
江の川から吹き上げる川風は氷のように冷たく、城下の屋根瓦には毎朝のように真っ白な霜が深く降り積もっていた。
されど、その冬の静けさとは裏腹に、毛利輝元を戴く毛利家の家中は、これまでにない深刻な分裂の危機に瀕していた。
北陸の柴田勝家から送られてきた「羽柴秀吉を東西から挟み撃ちにせん」という密書に対し、当主・輝元があえて曖昧な返答を繰り返し、出兵の決断を拒んで静観を維持したことが、家中の強硬派の激しい怒りに火をつけたからである。
山陰を統べる吉川元春の配下に属する猛者や、備中・美作の境目で織田軍と直に対峙してきた若い武頭たちは、血走った目で日夜連んでは酒を汲み交わし、不満を爆発させていた。
「高松城での屈辱を忘れたか! 清水宗治殿が自らの命と引き換えに守ろうとした毛利の武名を、自らドブに捨てる気か!」
「柴田殿の誘いを断り、羽柴の小童の顔色を窺って大人しくしておるなど、武門の恥辱なり! 慎重論を唱える小早川の家臣どもは、すっかり羽柴の金銭と虚名に毒された腰抜けよ!」
一方、山陽を統括する小早川隆景の配下の重臣や、領国の保全を第一とする穏健派の武将たちも黙ってはいなかった。
「勝家殿に勝ち目はないのだ! 雪に閉ざされる北陸の勝家に与して無謀な兵を挙げれば、羽柴の全軍が安芸へ押し寄せ、毛利は全滅いたす!」
「当主様(輝元)のご決断に従い、家を保つことこそが元就公の真の教えなり! 吉川の者どもこそ、一時の血気に任せて家を滅ぼそうとする狂者なり!」
山陰の吉川派と、山陽の小早川派――。
かつて毛利元就が「二本の矢」として毛利宗家を両脇から支えさせ、盤石の結束を誇ってきた「毛利両川」の傘下に集う武士たちが、いまや互いを「腰抜け」「狂者」と罵り合い、城下や陣屋ですれ違うたびに太刀の柄に手をかけるという、凄惨な内冷の状態へ叩き落とされていたのである。
もしこのまま家中の対立が激化し、身内同士で刀を抜く事態となれば、毛利家は戦う前に内側から完全に瓦解してしまう。
その恐ろしい破局を食い止めるため、外交僧・安国寺恵瓊は、休む間もなく安芸、備後、伯耆の境目を奔走していた。
恵瓊は吉川方の猛将たちの陣屋へ飛び込み、小早川方の重臣たちの屋敷を訪ね、膝を突き合わせて説得を重ねた。
「皆々様、お鎮まりくだされ! 毛利が内側から血を流せば、得をするのは誰でございますか! 上方でほくそ笑む羽柴秀吉に他なりませぬ!」
恵瓊は寒風に法衣の袖を揺らし、泥にまみれながら必死に声を張り上げた。
「秀吉という男は、我らが内紛を起こして自滅するのを、高みの見物で待っておるのです! 宗治殿が命を賭して守られたのは、この毛利の家臣団の結束と、毛利という家そのものにございます! 身内で刃を交えることが、どうして宗治殿への供養となりましょうか! いま我らが耐え抜き、一枚岩となって立ち続けることこそが、羽柴秀吉に対する最大の抗いにございます!」
恵瓊の言葉には、かつてさきの備中決戦において、泥まみれになりながら命を救おうと足掻いてきた生身の重みがこもっていた。
されど、双方の胸に渦巻く高松城での無念と、長年の誇りのぶつかり合いはあまりにも深く、恵瓊の一身の説得だけでは、家中の殺気を完全に消し去ることはできなかった。
そして、天正十年十一月中旬、ついに最悪の動乱が弾けかけようとしたのである。
場所は、安芸吉田の城下にある小早川方の重臣・乃美氏の屋敷近くの路上であった。
小早川隆景の直臣であり、若手の中でも特に一本気で知られた若武者・乃美新六が、数名の同僚とともに血相を変えて太刀を握りしめていた。
新六は、さきほど町辻において、吉川方の過激派の武者数名から「小早川の腰抜け」「羽柴の犬」と公然と面罵され、太刀の鞘当てをされたのであった。
武門の誇りを激しく傷つけられた新六は、抑えきれぬ怒りに怒髪天を衝き、相手の吉川方の武者が集う仮陣屋へと単身乗り込み、相手を斬り捨てて刺し違える覚悟を固めていたのである。
「退いてくだされ! 某は吉川の奴原に小早川の意地を見せてやるのだ! 腰抜けと呼ばれて黙っておれるか!」
新六は肩を激しく上下させ、抜き身の太刀を手に握りしめて叫んだ。
この衝突が起これば、吉川派と小早川派の若い武士たちが一斉に太刀を抜いて街中で乱闘を始め、毛利家臣団の血みどろの内紛へと発展することは火を見るより明らかであった。
その絶対絶命の現場へ、息を切らせて駆け込んできたのが、恵瓊であった。
恵瓊は新六の前に立ちはだかると、迷うことなくその泥の上に両膝をつき、平伏した。
「新六殿! 早まるな! 太刀を収められよ!」
「安国寺殿! 邪魔立てなさるな!」
新六は血走った目で恵瓊を睨みつけ、太刀の刃先を恵瓊の胸元へ突きつけた。
「お前も小早川様も、毛利の誇りを捨てて平然としておれるのか! 我らは武士だ! 侮辱されて引くくらいなら、ここで血を流して死んだ方がマシだ!」
刃先が恵瓊の法衣を突き刺し、かすかな血が染み出た。
されど、恵瓊は顔を上げ、新六の目を恐ろしいまでの気迫で見つめ返した。
「死んで何になりますか! 新六殿!」
恵瓊の声は、冬の冷気を切り裂いて激しく響き渡った。
「お主がここで相手を斬り、刺し違えて死ねば、吉川様と小早川様の兄弟の絆は完全に断たれ、毛利の家は今日この日に崩壊するのだぞ! お主のその一振りの太刀が、小早川隆景様のご苦心と、毛利輝元様のお覚悟を、すべて無に帰せしめるのだ! 己の一時の憤りを満足させるための死が、どうして小早川家への忠義と言えようか!」
「う、ぐ……!」
新六は息を呑み、太刀を掲げたまま固まった。
「生きなされ! 誇りとは、他人を斬ることにあらず! 家を守り、主君の意を体して、泥をすすってでも耐え抜くことにこそ、真の武士の誇りがあるのだ! 頼む、新六殿……この恵瓊の首で気が済むのなら、いつでも差し出す! されど、毛利の家を壊すような真似だけは……平にお許しくだされ!」
恵瓊は泥の中に深く額をこすりつけ、涙を流して乞い願った。
自らの命を顧みず、毛利の存続のために身を投げ出す恵瓊の必死の叫びが、新六の狂気を激しく撃ち砕いたのである。
カラン……と虚しい音が響いた。
新六の手から太刀が落ち、冷たい泥の中に突き刺さった。
新六は膝から崩れ落ち、両手を泥について慟哭した。
「うあああっ……! 安国寺殿……すまぬ……すまぬ……!」
衝突は間一髪で防がれたのだった。
恵瓊は新六を直ちに自らの伝手を使って安楽寺の奥へと匿い、「病による出家謹慎」という形を整えて吉川方の追及から庇い、その命と家を守り抜いたのである。
恵瓊の命がけの奔走と、小早川隆景・吉川元春両将の密かな自重の働きにより、毛利家中を切り裂こうとしていた激しい内冷の波は、首の皮一枚のところで食い止められたのだった。
そして――十二月を迎える頃、天が毛利に味方した。
北陸の地に、例年を超える猛烈な大豪雪が舞い降りたのである。
越前国は数丈の深い雪によって完全に下界と遮断され、柴田勝家の北ノ庄城は、白い暗闇の中に孤立したのだった。
勝家軍が雪によって一歩も動けなくなったことで、勝家からの出兵要請は物理的に不可能なものとなり、毛利家中の「勝家と同調して開戦すべし」という強硬論も、自然と勢いを失って沈静化していった。
当主・毛利輝元の貫き通した「沈黙と静観」の裁定は完全に保たれ、毛利家は身内の血を流すことなく、再び一枚岩の結束を取り戻して冬を越すことができたのである。
天正十年の最後の夜。
安国寺の境内に、しんしんと白い初雪が舞い降りていた。
客殿の縁側に立った恵瓊は、降り積もる雪の静けさに耳を澄ませていた。
法衣の袖に舞い落ちる雪の結晶が、行灯の光を受けて淡く輝き、瞬く間に溶けて消えていく。
毛利の家は割れず、生き残った。
されど、雪が明ける天正十一年の春には、雪から解放された羽柴秀吉と、孤立した柴田勝家との間で、天下の主を決定づける最後の激戦(賤ヶ岳の戦い)が繰り広げられることになるのだ。
恵瓊は懐から数珠を取り出し、静かに胸の前で合わせた。
「南無阿弥陀仏――」
冷たい雪の夜の中に、一人の外交僧の祈りの声が静かに溶けていく。
毛利の家を守り、名もなき命を救うための恵瓊の抗いは、やがて訪れる新しき天下の幕開けへ向けて、どこまでも続いていくのであった。




