第70話:本能寺の確報
第70話:本能寺の確報
天正十年、六月五日。備中高松城を取り囲んでいた人工の湖は、足守川の築堤が開かれたことでみるみる水位を下げ、泥にまみれた石垣と無残に破壊された城郭の残骸が、夏の太陽の下で赤裸々に姿を現していた。
城内からは命を助けられた五千の城兵たちが外へ引き出され、対岸の羽柴秀吉の陣営は、破竹の勢いで東へと撤退の行軍を開始していた。
岩薬師山の毛利本陣では、昨日交わされた和睦の誓紙を前に、当主・毛利輝元をはじめ小早川隆景、吉川元春ら首脳陣が、安堵と苦い無念の交錯する思いで陣払いの差配を進めていた。
清水宗治という高潔な忠臣の命と引き換えに、毛利の家と数万の将兵の命が救われたのである。
されど――その静寂を打ち破るように、一本の激しい馬蹄の音が山道を駆け上ってきた。
跳び込んできたのは、京都から山陽道を死に物狂いで駆け抜けてきた、密使の武者であった。
武者の着物は落馬の痕と汗と泥で黒く汚れて引き裂かれ、馬は泡を吹いてその場で倒れ伏した。
「申し上げます! 京の明智日向守光秀様より、当主・輝元公へ宛てて火急の密書にございます!」
使者が差し出したのは、厳重に封をされ、明智光秀の血判が捺された一通の書状であった。
大幕舎の中で、小早川隆景が慎重に封を切り、書状を広げた。
輝元と元春が脇から紙面を覗き込み、末席の安国寺恵瓊も息を詰めてその光景を見つめた。
そこに躍り出ていた文字を目にした瞬間、毛利首脳陣の全身から、一斉に血の気が引き去っていった。
『天正十年六月二日未明、織田信長、京都本能寺において我が軍の包囲を受け、自刃討ち死に仕り候。嫡男・信忠も二条御所にて討滅。天下の面目一新せり。毛利家におかれては直ちに東進され、我が明智軍と挟撃して織田の残党を悉く切り崩されたし』
書状に記されていたのは、紛れもない「本能寺の変」の確報であった。
天下の覇者・織田信長が、臣下の明智光秀に討たれてこの世を去ったという、天地がひっくり返るごとき大天変地異の報せだったのである。
幕舎の中に、氷のごとき静寂が落ちた。
輝元は目を見開いたまま呆然と立ち尽くし、隆景は固く唇を噛み締めて震えていた。
そして次の瞬間、すべてのからくりを悟った吉川元春の全身から、噴火山のごとき激怒が爆発した。
「羽柴の小童めぇぇぇぇッ!」
元春の地を揺るがすような大音声が、幕舎の陣幕を激しく震わせた。
元春は顔を真っ赤に沸き立たせ、太刀を鞘ごと手にして床几を叩き割り、怒髪天を衝く気迫で吠え狂った。
「騙された! 我らは羽柴秀吉の汚い嘘に騙されたのだ! 秀吉は信長が死んだことを最初から知っておったのだ! 知っていながらそれを秘し、我らを脅しつけて宗治の腹を切らせたのだぞ! 宗治は……宗治は、信長の死を知らぬまま、秀吉の天下取りの踏み台にされて無駄死にさせられたのだ!」
元春の怒りは、当然であった。
信長が死んだとなれば、織田家の威光は崩壊し、毛利が恐れるべき対象はどこにもなくなっていたのである。
もし一日早く信長の死を知っていれば、宗治が腹を切る必要など微塵もなく、毛利は圧倒的優位の中で高松城の包囲を解くことができたのだ。
「許さん! 断じて許さんぞ!」
元春は太刀をシャリンと抜き放ち、血走った目で輝元へ迫った。
「輝元様! 直ちに全軍に出撃を命じくだされ! 和睦の誓紙など破り捨て、退却する羽柴の兵どもを背後から蹂躙するのです! 逃げ惑う秀吉の首を跳ね、宗治の仏前に供えて無念を晴らしてやりましょうぞ!」
元春の激昂に同調し、強硬派の武将たちが一斉に抜刀して叫び声を上げた。
「そうだ! 秀吉を討て!」
「宗治様の仇だ! 和睦を反故にせよ!」
幕舎内は一瞬にして、血で血を洗う追撃戦への殺気で満ち満ちた。
されど――その狂乱の只中にあって、安国寺恵瓊は静かに前に進み出ると、元春の抜く太刀の前に身を投げ出し、畳へ平伏した。
「吉川様! お静まりくだされ! 追撃は下策にございます! 絶対に行ってはなりませぬ!」
元春は刃先を恵瓊の首筋へ突きつけ、血走った目で睨みつけた。
「安国寺! 貴様、まだそんな抜けたことを抜かすか! 宗治が騙し討ちにされたのだぞ! 貴様も秀吉の味方をする気か!」
「味方などではございませぬ!」
恵瓊は顔を上げ、涙の溢れる目で元春を見つめ返した。その声には、命を懸けた真情がこもっていた。
「吉川様、お考えくだされ! 羽柴秀吉という男が、なぜこれほど神速の勢いで退却しているとお思いですか! 秀吉は、信長の仇たる明智光秀を討ち果たすため、全軍の命を賭けて上方へ向かっておるのです! 退き口を急ぐ軍勢は、手傷を負うた手負いの獅子と同じ。もし我が軍が追撃を仕掛けいとすれば、秀吉軍は死に物狂いで反撃し、この備中のぬかるみで毛利と羽柴の相討ちの地獄とならん!」
恵瓊は畳に指を食い込ませ、言葉を畳み掛けた。
「信長様が死なれたいま、天下は主無き大混乱の渦へと叩き落とされまする! これより上方では、明智、柴田勝家、徳川家康、そして羽柴秀吉らが天下の覇権を巡って血で血を洗う大争乱を繰り広げましょう! もし毛利がここで秀吉と無用の血を流して力を擦り減らせば、毛利はこの天下の動乱に対応できなくなり、他国の大名に足元をすくわれて自滅いたしまする!」
「うぬぬ……!」
元春は言葉に詰まり、太刀を構えたまま腕を振るわせた。
そこへ、小早川隆景が静かに歩み寄り、元春の太刀の刃をそっと手で押し下げた。
隆景の瞳にも深い涙が浮かんでいたが、その声はどこまでも冷徹で、理性に満ちていた。
「兄上……安国寺の申す通りにございます。宗治殿の死は誠に悔しく、身を切られる思い。されど、我が毛利が血判を捺した和睦の誓紙を自ら破り捨てて背後を突けば、毛利は天下に対して『誓約を破る不義理の家』との汚名を背負うことになりまする」
隆景は遠く東の空を見つめ、静かに続けた。
「いま我が軍が静観し、秀吉の退き口を温かく見送ればどうなるか。秀吉は信長の仇討ちを果たして上方の覇者となりましょう。されど、秀吉は毛利に対して『誓紙を守ってくれた』という絶大な恩義と、巨大な借りを作ることになるのです。この和睦を守り通すことこそが、信長亡き後の新しい天下において、毛利の家を不可侵の絶対的な立場へと押し上げる最高の手だてとなるのです」
隆景の冷徹な大局観と、恵瓊の命がけの説得。
二人の理路は、暴発寸前であった毛利の将兵たちの頭を、冷や水のごとく冷ましていった。
武門の誇りを叫ぶ元春も、天下の情勢という冷酷な現実の前には、太刀を収めるしかなかったのである。
元春は太刀をサヤへ納めると、ガクリと膝をつき、無念の涙を流して畳を叩いた。
「宗治……不甲斐ないわしを許してくれ……!」
幕舎の中に、重い沈黙が戻った。
居並ぶ重臣たちの視線が、最後に当主・毛利輝元へと注がれた。
輝元はゆっくりと面を上げた。
その瞳には、かつての頼りなさは微塵もなく、苦汁を呑み込んで毛利の未来を背負う当主としての揺るぎない覚悟が宿っていた。
「……追撃は、せぬ」
輝元の声は、静かに、されど毅然として響き渡った。
「宗治の死を無駄にはせぬ。されど、一時の感情に任せて毛利の家を危うくすることは、祖父・元就公の遺志に最も背くこととなる。羽柴との和睦の約定を守り、秀吉の退き口を静観せよ。世間から何と言われようとも、すべての非難と汚名は、当主たるこの余が背負う」
輝元の決定に、元春も隆景も、そして強硬派の諸将も、静かに頭を垂れて服した。
輝元は不器用ながらも、自らの責任において「家を残す」という苦渋の決断を下し、毛利家を一つにまとめ上げたのである。
恵瓊は平伏したまま、深く安堵の息を吐き出した。
もし自分が前夜、信長の死を知った時に取り乱し、毛利陣営へ暴かれれば、毛利軍は壊滅していたかもしれない。
あえて沈黙を守り抜き、この場で隆景とともに追撃を押し留めたことで、毛利の家は自滅の破局から完全に救い出されたのだ。
前世の知識に惑わされず、いま目の前にある「毛利の生存」という一点のみを見つめて選択してきた己の歩みは、間違いではなかったのだ。
高台の陣郭から見下ろすと、足守川の対岸からは、羽柴秀吉の二万の大軍が怒濤の勢いで東へと駆け去っていく土煙が立ち上っていた。
「中国大返し」――後に歴史に語り継がれる奇跡の神速の撤退が、いま目の前で繰り広げられていた。
秀吉は上方の覇者となり、やがて天下人へと駆け上がっていくだろう。
そして、毛利はその秀吉との間に絶大な「信頼」と「恩義」の絆を結び、西国の覇者としての地位を確固たるものにしていくのだ。
恵瓊は泥に汚れた法衣の袖を強く握りしめ、遠ざかる羽柴軍の土煙を見つめた。
清水宗治の命と引き換えに手に入れたこの平穏の中で、毛利の家を守り抜くための外交僧・安国寺恵瓊の戦いは、これからさらに巨大な舞台へと移っていく。
備中の野山を吹き抜ける夏の風を受けながら、恵瓊は静かに合掌し、未来へ向けて新たな一歩を踏み出すのだった。




