第69話:急ぎすぎた和睦
第69話:急ぎすぎた和睦
天正十年、六月四日の昼下がり。
備中高松城の湖上で、城主・清水宗治が見事な切腹を遂げ、その首級が羽柴秀吉の検使・堀尾吉晴によって改められた直後のことである。
通常であれば、合戦の後の和睦交渉というものは、首級の確認ののち、両軍から使者を往復させ、境界線の実分改めや起請文の文面の精査に数日から数週間の時を費やすのが、武家のしきたりであり常道であった。
特に、毛利のような西国の大勢力と、織田という天下の覇者との間での領土割譲を伴う和睦であれば、一文字の解釈を巡って幾度も協議が紛糾するのが当然であった。
されど――この日の羽柴秀吉陣営の動きは、異様を通り越して、狂気じみた速さを見せていたのである。
秀吉は宗治の首級の改めをわずか数分で終わらせると、酒の杯を下げる間すら惜しむようにして、直ちに毛利方の検使たる安国寺恵瓊を幕舎の奥へと呼び寄せた。
秀吉の周囲には、黒田官兵衛、蜂須賀小六、羽柴秀長、そして冷徹な瞳をした若き石田三成らがすき間なく控え、幕舎全体に異様な殺気と緊張感が満ち満ちていた。
「安国寺殿! 宗治の見事な最期、しかと見届けたぞ! これで双方の戦の手は完全に止まった!」
秀吉は床几の上で身を乗り出し、血走った目をギラつかせながら、前へ手をついた恵瓊を見下ろした。
「直ちに和睦の誓紙を交わす! 本陣の毛利輝元殿、小早川殿、吉川殿へ文を送り、血判を捺した起請文を今すぐ持参させよ!」
恵瓊は深く頭を垂れながら、秀吉の態度の異様さに全身の皮膚が粟立つのを感じていた。
秀吉の全身からは、湯気のごとき熱気と、「一刻も早くこの備中の地を離れ、上方へ向けて駆け出したい」という猛烈な焦燥が溢れ出ていたのである。
恵瓊が毛利側の代表として和睦文書の条文を取り改める際、さらに驚くべき事態が起きた。
さきほどまで秀吉が頑なに要求していた「備中、美作、伯耆、出雲、因幡の五カ国割譲」のうち、出雲と伯耆の境目について、毛利側が「先祖代々の土地ゆえ、即座の明け渡しは受け入れがたい」と難色を示すと、秀吉は一切の躊躇なく、即座に手を打ったのである。
「よし、分かった! 出雲と伯耆は毛利の領地のままでよい! 境目は備中高梁川をもって東を織田、西を毛利と定めよう! 妥協してやるゆえ、今すぐこの条項で誓紙を完成させよ!」
これまで一寸の領地すら力ずくで毟り取ろうとしていた秀吉が、あまりにもあっさりと二カ国の要求を取り下げ、毛利側に極めて有利な境界線で手を打ったのだった。
小早川隆景や吉川元春でさえ予想し得なかった、破格の譲歩であった。
そこにあったのは、毛利に対する優しさでも、慈悲でもなかった。
「領土の多寡などどうでもよい、とにかく今この瞬間に毛利との和睦を確定させ、背後の安全を確保したい」という、秀吉のなりふり構わぬ計算と焦りそのものであった。
恵瓊は震える手で和睦の起請文を起草し、墨を塗り重ねた筆で自らの花押を記した。
続いて、対岸の毛利本陣へ小舟を走らせ、当主・毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の三首脳の血判を捺した誓紙を取り付けたのだった。
毛利本陣において、隆景は手に入ったあまりにも好条件の和睦文書を見つめ、不思議そうに眉を細めていた。
「……羽柴秀吉という男、何ゆえこれほどまでに急ぎ、かつ我が方に有利な条件で和睦をまとめようとするのだ。何か、我らの知らぬ裏があるのではあるまいな」
元春も怪訝そうに髭をさすった。
「宗治の腹を切らせたことで満足し、織田信長の本軍が来る前に手柄を独り占めしたいだけではないか」
恵瓊は二人のやり取りを末席で聞きながら、ただ固く口を閉ざしていた。
冷たい汗が法衣の背中を濡らし、心臓が早鐘のように鳴り響いていた。
(言えない……。絶対に口にしてはならない……)
恵瓊の脳裏には、前夜、秀吉の幕舎の裏手で密かに耳にした黒田官兵衛の悲鳴のような報告が、焼き付いて離れなかった。
『京の本能寺にて……明智光秀が謀反! 上様は自刃遊ばされた!』
織田信長は死んだのだ。
秀吉が狂気のごとき焦燥をもって和睦を急いでいる理由はただひとつ、信長の死を毛利方に隠し通したまま和睦を完結させ、明智光秀を討つべく全軍を率いて京へと引き返すためであった。
もし、この瞬間に恵瓊が口を開き、「小早川様、羽柴秀吉は信長の死を隠しております。本能寺で信長は討たれました」と告げたならば、どうなるか。
毛利軍四万は即座に和睦の誓紙を破り捨て、高松城の包囲を解いて全軍で攻め下り、動揺する羽柴軍を背後から襲撃するだろう。
さすれば、羽柴秀吉の天下取りの野望はここで叩き潰され、日本の歴史は根底から覆ることになる。
されど――次の瞬間、恵瓊の首筋に、秀吉と石田三成が放っていた恐ろしい殺気が突きつけられた。
もし、和睦の最中に毛利側が「信長の死を知っている」という気配を少しでも見せたらどうなるか。
秀吉と官兵衛は、情報漏洩を防ぎ、己の退路を確保するために、和睦を投げ打って全軍で毛利本陣へ襲いかかり、恵瓊の首を即座に撥ね、備中の地を血の海へと変えるだろう。
証拠もないまま「信長が死んだ」と叫べば、毛利軍も混乱に陥り、高松城の城兵五千の助命の約束すら反故にされて皆殺しにされるのだ。
(沈黙するのだ……。いまは固く口を閉ざし、秀吉に和睦を完成させねばならぬ……)
恵瓊は自らの唇を血が出るほど噛み締め、歴史の収束という巨大な圧力の前に、徹底した沈黙を選び取ったのだった。
和睦の誓紙が交わされる現場において、恵瓊は秀吉の目の前へ再び引き出された。
秀吉は自ら血判を捺した誓紙を恵瓊の手へ手渡すと、その太い手で恵瓊の腕をガチリと強く掴んだ。
秀吉の顔は笑っていたが、その目の奥にあったのは、「余計な口を叩けば殺す」という完全なる鬼の眼光であった。
「安国寺殿、誠に素晴らしい働きであったぞ。これで毛利と羽柴は、固い絆で結ばれた『盟友』となったのだ」
秀吉の声には、恵瓊が信長の死を知りながらも沈黙を守り切ったことに対する、密かな理解と冷酷な感謝がこもっていた。
「……ははっ。毛利と羽柴の和睦、ここに確かに成就いたしました」
恵瓊は低く平伏し、両手で誓紙を受け取った。
誓紙が交わされた瞬間、秀吉の命により、足守川の築堤の堰が一斉に開かれた。
「ゴーッ!」という凄まい水音とともに、高松城の周囲を埋め尽くしていた巨大な泥水が、下流へ向かって怒濤の勢いで排出され始めたのである。
水面が急速に下がり、高松城の石垣が再び姿を現した。
城内からは、命を助けられた城兵や領民たちの、泣き叫ぶような歓喜と念仏の声が沸き上がった。
清水宗治が自らの命と引き換えに買い取った五千の命が、いま確かに救い出されたのである。
和睦が完了したその瞬間、秀吉の陣営は目にも留まらぬ速さで「退き口の準備」を開始した。
雑兵たちは幕舎を放り投げ、兵糧米を馬に積み、松明を掲げて東の街道へと列をなした。
秀吉は恵瓊へ向けて、最後に一言だけ言い残した。
「安国寺殿、わしは急ぎ京へ向かう! 毛利殿には『追撃などという野暮な真似はなさるな』とお伝えくだされや!」
秀吉は猩々緋の陣羽織を風にはためかせ、馬に飛び乗ると、二万の大軍を引き連れて破竹の勢いで備中の地を後にしていった。
その退却の速さは、およそ人間のなせる業とは思えぬほど神速であった。
夕暮れ時、足守川の岸辺に立った恵瓊は、土煙を上げて遠ざかっていく羽柴軍の背中を見つめていた。
秀吉は去った。
信長の死という巨大な秘密を抱えたまま、天下人への階段を駆け上がるために、東へと突っ走っていったのである。
手元に残されたのは、血判の押された一通の和睦の誓紙と、助かった五千の城兵たちの生きている息遣いだけであった。
恵瓊は泥に汚れた法衣の袖を強く握りしめ、静かに目を閉じた。
己の沈黙によって、宗治の残した命は守られた。
されど、この急ぎすぎた和睦の向こう側には、毛利家を揺るがすさらなる激動の渦が待っているのだ。
足守川の水面が、赤く染まる夕闇の中で静かに揺れていた。
歴史の巨大な転換点をその身で引き受けた外交僧・安国寺恵瓊は、去りゆく秀吉の影を見送りながら、深く、長く息を吐き出すのであった。




