第68話:天変地異の報せ
第68話:天変地異の報せ
天正十年、六月三日の夜半。備中高松城の周囲を覆う広大な泥海は、漆黒の暗闇の中に沈み込み、断続的に降り注ぐ梅雨の雨が水面を叩く音だけが、不気味に響き渡っていた。
足守川の対岸に張られた羽柴秀吉の本陣幕舎の中では、翌日に迫った高松城主・清水宗治の切腹の儀と、両軍の検使の配置に関する最終の取り決めが、静かに進められていた。
幕舎の奥では、火鉢の炭火が赤々と燃え、湿った具足と酒の匂いが立ち込めていた。
床几に腰掛けた羽柴秀吉は、瓢箪から酒を汲んで呑み干すと、満足げな笑みを浮かべて恵瓊を見下ろしていた。
「和尚、いよいよ明日じゃな。宗治が見事な腹を切り、首が確認されれば、この高松城の包囲を解き、毛利との和睦は完全に成就する。わしもこれで、晴れて織田上様に西国平定の吉報を届けることができるというものだ」
秀吉の声には、自らの描いた完璧な算盤通りにすべてが運び、天下人への階段をまた一段上り詰めたという、溢れんばかりの全能感が満ちていた。
その向かいに座す安国寺恵瓊は、静かに平伏したまま、法衣の袖の中で固く数珠を握りしめていた。
明日、あの高潔で清らかな清水宗治が、毛利の家と数万の命のために小舟の上で命を絶つ。
その胸を押し潰すような悲痛と重圧に耐えながら、恵瓊は検使としての手はずを一つひとつ確認していたのである。
その時であった。
雨の降りしきる陣屋の外から、地を蹴る激しい馬蹄の音と、怒号のような制止の声が響き渡った。
「止まれ! 誰だ!」
「退け! 殿へ火急の取次だ!」
濡れた具足が激しくぶつかり合う音とともに、幕舎の入り口の陣幕が荒々しく押し開かれた。
跳び込んできたのは、羽柴軍の最高参謀・黒田官兵衛孝高であった。
官兵衛の姿は、異様であった。
常に冷徹で、氷のごとき静寂を保っていたあの智将が、身につけた羽織を泥だらけにし、顔色は蒼白を通り越して土色に変色していた。
息は激しく切れ、その瞳は見たこともない激しい動揺と血走った光を放っていたのである。
「殿ッ! 急ぎお耳に入れたき、火急の儀がござりまする!」
官兵衛の声は引き裂かれたように擦れ、激しく震えていた。
秀吉は不快そうに眉をひそめ、杯を置いた。
「何事だ、官兵衛。安国寺殿との大事な詰めの最中ぞ。取り乱すな」
「人払いを! 直ちに人を払ってくださいませ!」
官兵衛は恵瓊の存在すら目に入らぬかのように、秀吉の膝元へ取りすがり、叫んだ。
その尋常ざる気迫に、秀吉もただ事ではないと悟ったのか、表情を硬くした。
「安国寺殿、すまぬが、少し席を外してくれぬか。身内の厄介事のようだ」
秀吉が努めて平静を装って言うと、恵瓊は静かに一礼した。
「ははっ。では、裏手にて控えさせていただきまする」
恵瓊は立ち上がり、静かな足取りで大幕舎の裏手にあたる、雨の降りしきる暗がりへと退がった。
濡れた竹林の陰に身を潜めながらも、恵瓊の胸の奥で、激しい胸騒ぎが警鐘を鳴らし始めていた。
あの黒田官兵衛が、身なりを振り捨て、顔色を変えて駆け込んでくるほどの事態――。
この天下において、それほどの動揺をもたらす出来事が、いったい何処で起きたというのか。
恵瓊は息を殺し、雨音に混ざって幕舎の薄い布一枚を隔てて漏れてくる声に、全神経を集中させた。
幕舎の中では、官兵衛が絞り出すような低い声で、秀吉へ向けて報告を畳みかけていた。
雨音にかき消されそうになりながらも、その声の断片が、恵瓊の耳朶を激しく穿ったのだった。
『……京都……本能寺にて……!』
『……明智日向守光秀が……謀反……!』
『……上様……信長様は……本能寺にて自刃遊ばされた……! 勘九郎様(信忠)も二条御所にて討死……!』
ドスッという重い音が響いた。
秀吉が手にしていた酒杯を落とし、床几から転げ落ちた音であった。
続いて、秀吉の「まことか……! まことか、官兵衛……! 上様が……討たれたと申すか……!」という、泣き叫ぶような悲鳴が聞こえてきた。
その言葉を聞いた瞬間、安国寺恵瓊の全身から、サーッと血の気が引き去っていった。
心臓が破裂せんばかりの勢いで早鐘を打ち、激しい眩暈が恵瓊の視界を真っ白に染め上げた。
脳裏の奥底で、かつて火鉢の炭火の中で燃やし尽くしたはずの、前世の記憶の断片が一瞬にして合致したのである。
『本能寺の変』――。
天正十年、六月二日未明。
織田信長が、臣下の明智光秀の突如たる謀反によって京の本能寺で焼死し、天下の覇者が一朝にして露と消え去った、あの歴史上最大の天変地異。
歴史の年表に刻まれていたその歴史の瞬間が、いま、まさに天正十年六月三日のこの夜、京都から数百里離れた備中高松城の泥海の対岸で、現実の生々しい叫びとなって恵瓊の目の前に突きつけられたのである。
「本能寺……! 信長が……死んだ……!」
恵瓊は雨の中で激しく身震いし、己の口を両手で固く塞いだ。
声が漏れ出そうになるのを必死に抑えながら、恵瓊の頭の中で、激しい思考の渦が狂ったように回転し始めた。
信長が死んだ――。
この事実が意味するものは、あまりにも途方もなかった。
秀吉が背景に背負っていた「織田信長」という絶対的な背景が、いまこの瞬間に完全に消滅したのである。
もし、この事実をいま直ちに毛利本陣(輝元・隆景・元春)へ持ち帰り、全軍に伝えたならばどうなるか。
毛利軍は和睦の誓約を即座に破棄し、高松城の包囲を解いて四万の全軍で高台から攻め下り、動揺する羽柴軍を背後から蹂躙・壊滅させることができる。
そうなれば、明日予定されている清水宗治の切腹も取りやめとなり、宗治の命を助け出すことができるかもしれない。
さらには、羽柴秀吉という天下の化物を、この備中のぬかるみの中で討ち取ることすら可能なのだ。
(そうだ……! 毛利本陣へ走るのだ! 輝元様や小早川様に『信長が死んだ』と伝えれば、宗治殿は助かる……! 毛利が勝つのだ……!)
恵瓊の胸の中で、強烈な誘惑と希望が燃え上がった。
長年、知っていながら救えなかった人々の命。そして宗治の尊い命を救うための絶好の好機が、いま目の前に転がり込んできたのだ。
されど――次の瞬間、恵瓊の足を冷酷な理性が射ち抜いた。
(待て……。私が『信長が死んだ』と叫んだところで、誰がそれを信じるのだ……?)
毛利本陣へ駆け込み、「京の本能寺で信長が討たれた」と叫んだとして、確たる証拠も書状もないまま、小早川隆景や吉川元春がそれを真に受けて全軍を出撃させるだろうか。
むしろ、「和睦を嫌う安国寺の虚言」と見なされるか、あるいは動揺した毛利軍が中途半端な出撃をして、秀吉方の強固な包囲陣の前に返り討ちに遭うのが関の山ではないか。
さらに言えば、いま秀吉の陣屋で「信長の死を知った」という気配を少しでも見せればどうなるか。
秀吉と官兵衛は、情報漏洩を防ぐために、この場で恵瓊の首を即座に撥ね、毛利との和睦を力ずくで完了させようとするだろう。
証拠なき知識の無力さ――。
前世の知識で未来を知っていようとも、それを目の前の現実に証明し、人々を納得させる手立てを持たぬ限り、自分は何も動かすことができないのだ。
その時、幕舎の陣幕が開き、官兵衛の声が響いた。
「安国寺殿、どうぞお入りくだされ」
恵瓊は深く息を吸い込み、濡れた顔を拭うと、何事もなかったかのように顔つきを整えて幕舎の中へと戻った。
幕舎の中に座していた羽柴秀吉の姿を目にした瞬間、恵瓊は二度目の戦慄を覚えた。
さきほどまで床几から転げ落ちて狼狽していたはずの秀吉が、いまや床几にどっかりと座り直し、その姿からは一切の動揺が消え去っていた。
されど、その双眸には、これまでに見たこともない狂気じみた焦燥と、恐ろしいまでの殺気がギラギラと燃え盛っていた。
秀吉は信長の死という未曾有の破局を知りながら、わずか数分の間に自らの感情を完全に抑え込み、冷徹な大バクチへと舵を切ったのである。
信長の仇を討つべく、全軍を率いて京へと突っ走る――後の「中国大返し」と呼ばれる天下取りの決断を、この一瞬で下したのだった。
秀吉は血走った目を恵瓊へ向け、地を這うような太い声で言い放った。
「安国寺殿……すまぬが、明日の和睦の手はず、刻限を繰り上げたいのだ」
「……繰り上げ、にございますか」
「さようじゃ!」
秀吉は床几の肘掛けをガタガタと揺らし、恵瓊の顔を覗き込んできた。
「明朝の辰の刻(午前八時)……いや、卯の刻(午前六時)には、清水宗治に小舟の上で腹を切ってもらう! 検使の改めも即座に終わらせ、辰の刻には和睦の誓紙を完全に交わしたい! わしも急ぎ上方に用ができでのう……一刻の猶予もないのだよ!」
秀吉の言葉からは、信長の死を毛利方にも、そして自軍の兵たちにも完全に秘したまま、何が何でも明日早朝中に和睦を完了させ、備中から脱出しようとする凄まじい執念が溢れ出ていた。
秀吉の目の奥にある光は、「この和睦を邪魔する者は、毛利であろうが使者であれ誰であろうが即座に殺戮する」という、完全なる鬼の殺気であった。
恵瓊は秀吉の目を直視し、深く頭を垂れた。
(この男は……信長の死すら自らの天下取りの糧にして、突き進む気だ……)
恵瓊は悟った。
いま自分にできる選択は、ただひとつしかなかった。
信長の死を知っていることを悟られぬよう、完全に沈黙を守り、秀吉の焦燥に乗じて高松城の城兵五千の助命を確実に決定させること――。
歴史の巨大な激流は、もはや一介の僧の足掻きなど遥かに超えた場所で、怒濤の勢いで回転し始めていたのである。
「……承知仕りました」
恵瓊の声は、雨音の中に静かに落ちた。
「清水殿には、明朝早くの御支度を申し伝えまする。羽柴殿の御意向通り、明朝のうちにすべてを執り行いましょう」
「うむ! かたじけない、安国寺殿!」
秀吉は不気味な笑みを浮かべ、恵瓊の肩を強く叩いた。
幕舎を出ると、夜の雨が恵瓊の全身を打ち叩いた。
小舟に向かってぬかるむ泥道を歩みながら、恵瓊は夜空を見上げた。
京都・本能寺の空は、いまごろ紅蓮の炎に染まり、天下の覇者・織田信長が露と消えているはずであった。
そして明日、この備中の地で、清水宗治が命を散らす。
歴史が根本から崩れ、新しい天下人が芽生えようとする巨大な転換点の只中に、自分はいま立っているのだ。
恵瓊は泥にまみれた法衣の袖を強く握りしめ、雨の降りしきる闇に向かって静かに踏み出した。
信長の死という天変地異の秘密を胸に抱きながら、最後の決戦の朝を迎えるために――。




