第67話:家中の亀裂と深野救済
第67話:家中の亀裂と深野救済
天正十年、六月三日の夜。備中高松城を取り囲む泥海の上を覆っていた暗雲から、時折激しい小雨が降り注ぎ、備中岩薬師山の毛利本陣を冷たく濡らしていた。
水没した城内で清水宗治が切腹の準備を進め、羽柴秀吉との和睦交渉が最終の局面を迎える中で、毛利の陣中に漂う空気は、決して平穏なものではなかった。
むしろ、表面上の静けさの裏側で、激しい怒りと不満がどす黒く渦巻き、爆発寸前のマグマとなって家中を内側から引き裂こうとしていたのである。
原因は、清水宗治の切腹と五カ国割譲というあまりにも屈辱的な和睦条件であった。
吉川元春の傘下に属する血気盛んな強硬派の若い武将たちは、当主・毛利輝元や小早川隆景が和睦を受け入れたことに納得がいかず、陣中で密かに刀の柄を叩き、激しい不満をぶつけ合っていた。
「宗治様を見殺しにし、羽柴の小童にひれ伏すなど、毛利の武名の恥辱なり!」
「和睦を声高に叫び、当主様に弱気を吹き込んだ腰抜けの重臣どもを、この手で天誅に処すべきだ!」
強硬派の怒りの矛先は、織田との開戦を主張する自分たちに対し、終始一貫して和睦と領国の保全を説き続けてきた穏健派の老臣・深野六郎兵衛へと向けられていた。
深野六郎兵衛は、かつて毛利元就の時代、厳島や出雲での激戦において先陣を切り、右足に深い刀傷を負って不具となった老武士であった。
自らの身体に刻まれた傷痕を通して戦の惨絶さと兵たちの流す血の重さを誰よりも知る深野は、今回の備中決戦においても「無謀な開戦は毛利の滅亡を招く。宗治殿の犠牲を苦汁として呑み、領国と家臣の命を守るべきだ」と、輝元の御前で直言し続けていたのである。
されど、その実直すぎる発言が、血気にはやる若手たちの目には「毛利の誇りを汚す許しがたい臆病」と映ってしまったのだった。
強硬派の若手武者数名が今宵、夜陰に乗じて深野六郎兵衛の仮陣屋を襲撃し、彼を暗殺することで家中の意見を一気に「和睦反故・全面開戦」へと傾けようと画策している――。
その恐ろしい密謀の報せが、外交僧として陣中に独自の耳目を持つ恵瓊のもとへ届いたのである。
本陣の隅にある暗い幕舎でその密報を受けた恵瓊は、全身の血が凍りつくような戦慄を覚えた。
もしここで深野六郎兵衛が暗殺されれば、穏健派と強硬派の対立は修復不可能な血みどろの報復合戦へと発展し、清水宗治が命を賭して守ろうとした毛利家は、自滅の内紛によって崩壊してしまう。
「宗治殿が自らの命と引き換えに繋ぎ止めようとした毛利の家を、身内の醜い争いで壊させてなるものか……!」
恵瓊は泥で濡れた法衣の裾をきつく結び直すと、単身で夜陰のぬかるむ山道を駆け出した。
六月三日の子刻(午前零時頃)。雨のそぼ降る闇の中、恵瓊は本陣の外縁に位置する深野六郎兵衛の仮陣屋へとたどり着いた。
陣屋は静まり返り、薄暗い行灯の光が障子越しにかすかに漏れていた。
恵瓊が足音を殺して室内に入ると、そこには老臣・深野六郎兵衛が、不自由な右足を投げ出すようにして座し、黙々と書状の整理を行っていた。
「深野殿! 無礼を仕る、安国寺恵瓊にござります!」
恵瓊が息を弾ませて暗がりから現れると、深野は驚いて顔を上げたが、すぐにその老いた面立ちを武士特有の険しいものに変えた。
「安国寺殿か。このような夜更けに、しかも泥まみれで何事だ。さては、某の命を狙う若者どもの刺客として参られたか」
深野の声には、自らの命が狙われていることをとうに察知し、それを受け入れている静かな諦念がこもっていた。
恵瓊は深く首を振り、深野の目の前へ膝をついた。
「刺客ではございませぬ! 深野殿を救いに参ったのです! 今宵、貴殿の命を狙う強硬派の若武者どもが、この陣屋を襲撃する手はずを整えております! 今すぐこの場を離れ、私が裏手にご用意した早馬で、安芸の本国へと逃れてくだされ!」
されど、深野六郎兵衛は皮肉げに口元を歪め、傍らに置かれた太刀の柄へゆっくりと手を伸ばした。
「逃げろと申されるか。この深野六郎兵衛、足は不具になれど、武士の魂までは腐っておりませぬ。毛利の行く末を案じて正論を説いたがゆえに命を狙われるのであれば、喜んでこの場で迎え撃ち、我が血をもって彼らの愚かさを諫める所存。背を向けて逃げ隠れするなど、武門の恥にござる」
その武士としての頑迷な誇りに、恵瓊は胸の奥から激しい怒りと切情が込み上げてくるのを抑えきれなくなった。
恵瓊は畳に身を乗り出し、深野の目を射抜くように凝視した。
「武門の恥などと! そのようなちっぽけな誇りのために命を捨てて、何になりましょう!」
恵瓊の声は低いながらも、地を揺るがすような恐ろしい気迫を帯びていた。
「あなたがここで殺されれば、若手たちは自らの暴挙を正義と信じ込み、家中は血で血を洗う殺し合いへと突入するのです! あなたの死は毛利を救うどころか、毛利を内側から滅ぼす死に水となる! 家を残すために己の矜持を折り、泥をすすってでも生き延びることの、どこが恥でありましょうか!」
「う……」
深野は恵瓊の気圧されるような大喝に息を呑み、太刀へ伸ばした手を止めた。
「当主・輝元様は、家中の対立に胸を痛めながらも、毛利をひとつにまとめるために死に物狂いで耐えておられます! あなたがここで犬死にすれば、その輝元様の苦渋の決断を足蹴にすることになるのです! 生き延びてくだされ! 隠居という形を取り、歴史の表舞台から姿を消してでも、あなたが生きているという事実が、いずれ必ず毛利の良識として機能する日が来るのです!」
恵瓊の目から、溢れ出る涙が頬を伝って畳へ落ちた。
自分を信じてくれた清水宗治を死なせねばならぬ苦悩と、いま目の前にある実直な老臣の命を絶対に失わせたくないという必死の叫びが、深野の頑固な心を激しく打ち砕いたのである。
深野はしばらくの間、恵瓊の涙に濡れた瞳をじっと見つめ返していたが、やがて何かを諦めたように深く息を吐き出すと、太刀から手を離した。
「……僧侶の理屈は、我ら武骨者には到底理解できぬ。……されど、輝元公の御為と申されるなら、この不具の命、一時だけお預けいたそう」
深野が恵瓊の手引きによって裏口から馬に乗り、暗闇の雨の中へと姿を消した直後のことであった。
ガシャンッ!という激しい音とともに、陣屋の表戸が打ち破られ、松明を掲げた数名の若武者たちが抜刀して雪崩れ込んできた。
「深野六郎兵衛! 覚悟!」
されど、そこに居たのは、暗がりの中で静かに座禅を組み、念仏を唱えている安国寺恵瓊一人だけであった。
「な、安国寺殿……!? 深野はどこへ行った!」
若武者たちが殺気を剥き出しにして詰寄ったが、恵瓊は顔色ひとつ変えず、静かに目を開けた。
「深野殿ならば、さきほど急なる持病の悪化により、当主様のお許しを得て安芸の本国へ療養に向かわれた。……お主たち、このような夜更けに抜き身の太刀を持って、何のご用か」
恵瓊の威厳に満ちた冷ややかな眼差しに、若武者たちは気圧され、互いに顔を見合わせて立ち尽くした。
標的を失った襲撃計画は完全に未遂に終わり、血で血を洗う内紛の引き金は、間一髪で引き抜かれたのである。
翌朝、深野六郎兵衛が「病と足の不具を理由に突如出家隠居し、山奥へ退いた」という報せが家中に広まった。
強硬派の若手たちは矛を収めるしかなく、毛利家中の血みどろの分裂は回避されたのだった。
恵瓊は輝元の御前に呼ばれ、昨夜の出来事を一切の感情を交えずに淡々と報告した。
輝元は恵瓊の報告を黙って聞き終えると、長く深い息を吐き出した。
「深野が自ら隠居を申し出たか。……そうか。それでよい」
輝元のその言葉には、深い安堵とともに、恵瓊が裏で泥をかぶって動いたことをすべて察した上での、温かな黙認が含まれていた。
輝元の「決めない統治」という忍耐と、恵瓊の命がけの裏工作。
二人の歩みが噛み合わさったことで、毛利の家は自滅の淵から救い出されたのである。
陣屋を出ると、雨はすっかり上がり、夏の朝の光が備中の野山を青々と照らし出していた。
恵瓊は自らの泥に汚れた両手を見つめ、静かに合掌した。
歴史の大きな流れを変えることはできない。
明日には、清水宗治が小舟の上で腹を切る。
されど、自らが泥にまみれて足掻いたことで、あの実直な老臣・深野六郎兵衛の命は救われ、毛利の家臣たちの無用な流血を防ぐことができたのだ(救済管理表の救済成功)。
救えた命の小ささに涙しながらも、恵瓊の胸には、一人の人間として踏みとどまった確かな手応えが宿っていた。
清水宗治の最期を見届けるための決戦の朝が、いま静かに明けようとしていた。




