第64話:使者としての苦脳
第64話:使者としての苦脳
天正十年、五月下旬。備中岩薬師山の毛利本陣を包む雨は、夜が明けても一向に衰える気配を見せず、冷たい雫となって陣幕の裾を絶え間なく叩き続けていた。
輝元より重い命を受け、大幕舎を辞した安国寺恵瓊は、泥にまみれた法衣の裾を引きずりながら、雨の降りしきる高台の山道を一人歩んでいた。
胸の奥を押し潰すような重圧が、恵瓊の呼吸を苦しくさせていた。
自らの口から、あの高潔な清水宗治のもとへ赴き、「お主が腹を切れば、毛利の家と四万の将兵が助かる。腹を切ってくれ」と死を告げに行かねばならないのである。
恵瓊の脳裏には、さきに高松城を訪れた折、宗治が見せてくれた爽やかな笑顔が鮮やかに焼き付いていた。
泥まみれの雑兵たちに温かい汁ものを振る舞い、「生きてまた酒を汲み交わしましょう」と自らの手を固く握り返してくれたあの男の温もりが、いまも掌に残っているようであった。
外交僧として長年、言葉をもって敵を説き、和睦を固め、人を救うために筆を執ってきた己が、いまや主君の命を受け、最も殺したくない男の首を討ち取るための「死の宣告者」となろうとしている。
「言葉とは……これほどまでに無惨で、冷酷な刃となり得るものか……」
恵瓊は雨水と汗の混ざる顔を仰ぎ、天に向かって呻いた。
前世の知識があれば人を救えると思い上がり、その知識を捨て去った後も真実を見極めて命を守ろうと足掻いてきた己の歩みが、結局は秀吉の算盤に乗せられ、宗治を死地へ追い詰める手先と化しているのだ。
自らの存在そのものが、宗治に対する巨大な裏切りであるかのような強烈な自己嫌悪と罪悪感が、恵瓊の魂を内側から切り刻んでいた。
その時であった。
本陣の外縁、雨の煙る杉林の暗がりから、甲冑の擦れる激しい金属音と、押し殺した荒々しい息遣いが聞こえてきた。
恵瓊が不審に思って足を止め、木立の陰を覗き込むと、そこには十数名の毛利の若武者たちが、血走った目で集まっていた。
中心にいたのは、吉川元春の配下に属する血気盛んな若武者・早瀬新兵衛であった。
新兵衛は濡れた具足の上に手ぬぐいをきつく鉢巻きにし、抜き身の太刀を手に握りしめていた。その周りの若者たちも一様に殺気を放ち、腰の太刀に手をかけていた。
「新兵衛殿! これより真に羽柴の陣へ乗り込むおつもりか!」
若い同僚が声を潜めて問うと、新兵衛は歯を食いしばり、激しい怒りを露わにして叫んだ。
「当主様(輝元)も小早川様も、羽柴の小童の言いがかりに屈し、宗治様を死に追いやる和睦を呑まれた! されど、わしら吉川の武者が、忠臣の宗治様を泥水の中で見殺しにして生きて安芸へ帰れるか! たとえ我が身一つになろうとも、今宵、夜陰に乗じて小舟で羽柴の本陣へ斬り込み、秀吉の首を討ち取るか、さもなくば刺し違えて死んでやるわ!」
新兵衛らの企ては、宗治を見殺しにされる無念に耐えかねた者たちによる、捨て身の暴発であった。
されど、二万を超える羽柴軍の重厚な包囲陣に対し、十数名の若武者が斬り込んだところで、途中で鉄砲の集中砲火を浴びて全滅するだけの、完全なる「犬死に」に過ぎなかった。
恵瓊は躊躇うことなく、ぬかるむ泥を蹴って木立の中から飛び出し、新兵衛たちの前へと立ち塞がった。
「待たれよ! 新兵衛殿、早まるな!」
突如現れた恵瓊の姿に、新兵衛たちは驚いて太刀を構え直した。
「安国寺か! 邪魔立てするな! 貴様も輝元様や小早川様とともに、宗治様を死地へ追いやる和睦を企てた腰抜けか!」
新兵衛は殺気を露わにし、太刀の刃先を恵瓊の喉元へ突きつけた。
「そこをどけ! 邪魔をするなら、手前もろとも斬り捨てるぞ!」
太刀の冷たい刃が、恵瓊の首筋の皮膚に触れ、かすかな血が滲んだ。
されど、恵瓊は身引くどころか、その場にどっと膝をつき、泥まみれになりながら新兵衛の足元へ深く平伏した。
「斬りたくば、まず私を斬られよ! されど新兵衛殿、お聞きくだされ! お主たちがここで無暴な突撃をして命を散らせば、清水宗治殿の御覚悟が、すべて無に帰すのだぞ!」
恵瓊の大喝に、新兵衛の太刀を持つ手がピタリと止まった。
「……何だと? 宗治様のご覚悟だと?」
恵瓊は泥の中から顔を上げ、涙の溢れる目で新兵衛を直視した。
「宗治殿はいま、なぜあの泥水の中の城でじっと耐えておられると思うのだ! ご自身の命が惜しいからではございませぬ! ご自身の命ひとつを差し出すことで、城兵五千の命を救い、そしてお主たち毛利の数万の将兵と、毛利という家そのものを破滅から守るために、あえて死を受け入れようとされているのだ!」
恵瓊は畳みかけるように声を張り上げた。
「その宗治殿の血を吐くような無私の想いを知りながら、お主たちが一時の憤りに任せて敵陣へ突撃し、犬死にしてみせたらどうなる! 和睦の約定は破破破棄され、秀吉の全軍が高松城へ雪崩れ込んで城兵は皆殺しとなり、毛利の家も崩壊するのだ! 自らの感情を満足させるための犬死にが、どうして宗治殿への忠義と言えようか!」
「う、ぐ……!」
新兵衛は言葉に詰まり、太刀を掲げたまま腕を激しく震わせた。
「命を捨てて毛利を守ろうとする宗治殿の真の想いを汲むのなら、いまはお主たちが生きて毛利の家を支え、宗治殿の遺志を後世へ語り継ぐことこそが、真の武士の務めではないか! 頼む、新兵衛殿……宗治殿の想いを、無駄に死なせないでくだされ……!」
恵瓊は泥の中に額をこすりつけ、声を上げて泣いた。
宗治を死なせねばならぬ自らの苦悩と、目の前の若い命を失わせたくないという命がけの叫びが、新兵衛たちの胸を激しく撃ち抜いたのである。
長い沈黙の後、カラン……と虚しい音が響いた。
新兵衛の手から太刀が落ち、泥の中に突き刺さった。
新兵衛は膝から崩れ落ち、雨の中で両手を泥につけて嗚咽を漏らした。
「うああああっ! 宗治様……! 宗治様ぁッ……!」
同僚の若武者たちも、太刀を収めてその場に伏し、声を上げて哭いた。
暴発は防がれたのである。
恵瓊は震える手で新兵衛の肩を叩き、静かに言った。
「新兵衛殿、生きなされ。生きて、宗治殿が命を賭して守った毛利の家を、しっかりと支えられよ」
「……ははっ。安国寺殿……ありがたきお諭し、一生忘れませぬ……」
若武者たちが去っていった後、恵瓊は雨の中で一人立ち上がり、泥を払った。
大局の悲劇を止めることはできず、宗治を救うこともできない。
されど、自らの言葉と気迫をもって、いま目の前で散ろうとしていた十数名の若い命を、無用な犬死にからすくい取ることができた。
その小さな手応えだけが、冷え切った恵瓊の心を、かろうじて支えていた。
恵瓊は足守川の岸辺へとたどり着いた。
そこには、一艘の小舟と、雨に濡れて待つ舟頭の姿があった。
「安国寺様、お乗りくだされ」
恵瓊は法衣を整え、静かに舟へ足をかけた。
舟頭が力強く棹をさすと、小舟はすべり出すように岸を離れ、広大な泥海へと漕ぎ出していった。
雨の雫が水面を叩き、無数の波紋を描いている。
小舟が濁流を進むにつれ、水底から立ち上る腐爛した水草の匂いと、生温かい湿気が恵瓊の身体を包み込んだ。
遠く前方には、泥水の中に孤立する高松城の本丸と二の丸の影が、雨霞の向こうにぼんやりと浮かび上がっていた。
小舟の上で、恵瓊は静かに目を閉じた。
あの中にいる宗治は、自分をいかなる顔で迎えるだろうか。
毛利本国からの冷酷な裁定を告げられた時、宗治は絶望し、輝元や自分を呪うだろうか。
それとも、涙を流して無念を噛み締めるだろうか。
どのような反応をされようとも、自分はすべてを受け止めねばならない。
それが、この残酷な役目を引き受けた己の義務であり、宗治に対する最後の誠意であった。
やがて、小舟は高松城の本丸に残された、わずかな石垣の端へと滑り込んだ。
泥水に半分浸かった石垣の上で、衰弱した城兵たちが、静かに恵瓊の乗る小舟を見下ろしていた。
恵瓊は舟から降り立ち、泥に足を取られながら、本丸の二階へと続く階段を上っていった。
湿り切った廊下を進み、案内された広間の襖が開かれる。
そこに座していたのは、城主・清水宗治であった。
周囲の凄惨な水没状態とは対照的に、宗治の身なりは美しく整えられ、その姿には微塵の乱れもなかった。
飢えに苦しんだはずの顔は痩せてはいたが、その双眸は驚くほど澄み切っており、静かな笑みを浮かべて恵瓊を見つめていた。
「安国寺殿。よくぞ、このような水底まで足を運ばれた」
宗治は穏やかな声で恵瓊を迎え、深々と頭を下げた。
「毛利の御本陣はいかがでござるか。輝元公も、両川の御両所も、お健やかであられるか」
自らの命が風前の灯火であるというのに、まず主君の安否を気遣う宗治の温かさに、恵瓊は胸を強く突かれた。
喉の奥が激しく絞めつけられ、用意してきた言葉のすべてが、泥の中に消え去っていくようであった。
恵瓊は畳に深く両手を突き、額をこすりつけたまま、声にならぬ息を漏らした。
高潔なる武将・清水宗治と、死の使者たる安国寺恵瓊。
二人の命をかけた最後の対話が、いま静かに始まろうとしていた。




