↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
65/100

第65話:異様な気配

第65話:異様な気配


 天正十年、五月下旬。備中高松城の本丸広間は、足守川のあふれ返った水が床下にまで迫り、湿り切った畳から青カビと腐れ草の匂いがどっと立ち上っていた。

 外を叩く激しい雨音が、濡れた破風(はふ)を震わせ、広間の隅々にまで冷たい湿気を充満させている。


 その薄暗い広間の上座において、高松城主・清水宗治は、まるで初夏の清々しい朝を迎えているかのように、微塵の乱れもなく正座していた。

 恵瓊は宗治の前に膝を突き、畳に額をこすりつけたまま、喉の奥を詰まらせていた。

 自らの口から、毛利本国の決定――すなわち、「毛利家と四万の全軍を救うため、宗治一人に腹を切ってもらう」というあまりにも残酷な裁定を、告げ終えたところであった。


「……清水殿。輝元公も、両川の御両所も、貴方様をこのような死地へ追いやることを、身を引き裂かれる思いで嘆いておられまする。『我が口からは言えぬ』と、輝元公は血の涙を流しておられました。……我らの無力ゆえに、誠に、誠に申し訳ございませぬ……!」


 恵瓊の声は震え、涙が畳の目に落ちて黒い染みを作っていった。

 己がどれほど言葉を飾ろうとも、自分が運んできたのは宗治に対する「死の宣告」に他ならないのだ。


 されど――報告を聞き終えた清水宗治は、取り乱すことも、輝元や毛利本国を恨むような素振りをみせることも、一切しなかった。

 宗治はかすかに頬を緩め、どこまでも穏やかで澄み切った声で、恵瓊に語りかけた。


「安国寺殿。どうか、顔をお上げくだされ」

 恵瓊が震えながら顔を上げると、宗治の瞳には、現世の一切の迷いや執着を断ち切った者だけが到達し得る、恐ろしいほどの静寂が宿っていた。


「安国寺殿、言わずとも分かっておりまする。羽柴秀吉との和睦の条件が、この某の首ひとつであるということくらい、この城が水底に沈んだ時からとうに覚悟の上でござる。城兵五千の命と、毛利という巨大な御家が、某のごとき田舎武士の命ひとつで買い戻せるのであれば……これほど安い、得な取引はございませぬ」


「清水殿……!」

「輝元公も、隆景公も、某のためにそれほどまでに心を痛めてくださったか。それだけで、わしは武士として十分すぎるほど報われておりまする」


 宗治はふっと柔らかな息を吐き出し、遠く雨に煙る窓の外の湖を見つめた。

「武士とは、いかに長く生きるかではなく、いかにして見事な死に場所を得るかを問われるもの。某は、毛利の家と領民の未来のための布石として死ねるのだ。これ以上ないほど美しく、意味のある死に場所を得たのだから、何も嘆くことはござらん」


 その言葉のあまりの高潔さに、恵瓊は全身の血が激しく逆流するほどの衝撃を受けた。

 羽柴秀吉が突きつけてきたのは、「一人の首で家を買う」という人の命を盤上の駒として扱う冷酷な算盤であった。

 されど、清水宗治はその冷酷な算盤の前に屈するのではなく、自らの意志をもってその死を「主君と領民への最高の愛と忠義」へと昇華させていたのである。


秀吉の提示した醜い買い叩きの論理を、宗治はその高潔な魂によって、一瞬にして武士の最高の誉れへと塗り替えてしまったのだ。

前世の知識として「清水宗治の切腹」を知っていた恵瓊であったが、歴史書に書かれた「切腹す」という無機質な文字の裏側に、これほどまでに清らかで凄絶な人間の覚悟が存在していたことを、生身の温度として知った。


「清水殿……貴方は……真の、真の武士にございます……」

恵瓊は泥の中に平伏し、声を上げて哭いた。

宗治は静かに笑い、恵瓊の濡れた肩を優しく叩いた。

「安国寺殿、見届けてくだされ。某の最期、毛利の武士の名に恥じぬ見事な腹の切り様を、どうぞ羽柴秀吉に見せつけてやってくだされ」


和睦の手続きと、切腹の儀の手はずが静かに整えられた。

宗治は自らの死を受け入れ、城兵たちの助命が確実に行われるよう、恵瓊に最後の検使としての役目を託したのだった。


高松城を辞した恵瓊は、再び小舟に乗り込み、雨の降りしきる泥海を渡って対岸の羽柴陣営へと引き返した。

胸の中には、宗治の高潔な覚悟に対する激しい敬意と、それを生贄として差し出さねばならぬ冷酷な現実への痛切な苦しみが、渦巻いていた。


対岸の羽柴本陣にたどり着いた恵瓊は、再び秀吉の大幕舎へと足を踏み入れた。

幕舎の中では、秀吉が床几にどっかりと座り、待ちかねた様子で恵瓊を迎えた。


「おお、安国寺殿! 戻られたか! して、高松城の宗治はどう言った! 和睦の条件を呑んだか!」

恵瓊は畳に手をつき、低く静かな声で答えた。


「清水宗治殿……毛利家と城兵の命を救うため、自らの命を差し出すことを承諾いたしました。明後日、小舟の上において見事な腹を切り、首を羽柴殿へ差し出すとおっしゃっておられまする」


「おおっ! そうか! 宗治は話の分かる男じゃな!」

秀吉は膝を打って手を叩き、大声をあげて喜んだ。

「これで無駄な血を流さずに済む! 毛利との和睦も成立じゃ! 宗治には最高のご馳走と酒を城へ送り届けてやれ! 武士の鑑として、見事な最期を飾らせてやるぞ!」


秀吉は上機嫌で酒を飲み、側近たちへ指示を飛ばした。

自らの描いた計算通りにすべての駒が動き、毛利を降して西国征伐を完璧に成し遂げたという、天下人へ向けた絶対的な全能感が秀吉の全身から溢れ出ていた。


されど――恵瓊の視線は、大喜びする秀吉のすぐ傍ら、暗がりに控えている一人の若い近習へ向けられていた。


歳の頃は、数えで二十三か四ほど。

見目麗しい端正な顔立ちに、一切の無駄のない凛とした所作で、秀吉の脇に膝を折っていた。

石田三成――幼名を佐吉と呼び、秀吉にその才を買われて近習奉行として取り立てられ始めていた若者であった。


三成は、秀吉が声をあげて喜ぶ間も、一切の表情を変えなかった。

微笑みもせず、不快感も示さず、ただ静かに、冷たく光る漆黒の瞳で恵瓊のことを見つめていた。


三成は一言も発しなかった。

されど、その視線は、恵瓊の胸の奥底まで突き刺さってくるような、異様な冷たさと理知の光を帯びていた。

三成の瞳は、宗治の死を歓喜する秀吉の感情論とも、黒田官兵衛の持つ軍略の鋭さとも、まったく異なる性質のものを宿していた。


それは、完全なる「法と数字と構造の冷徹さ」であった。

三成にとって、清水宗治の切腹も、毛利との和睦も、感情や誇りの問題ではない。

「どれほどの米と領地が動くか」「和睦の誓紙の条項に過不足はないか」「後々の豊臣家の統治において不備が生じないか」――ただそれだけの計算として、この備中の大決戦を冷酷に観察・処理している目であった。


恵瓊の法衣の袖が泥で汚れていること、恵瓊の瞳に涙の跡があること、そして恵瓊が毛利の外交僧としてどのような立ち位置にいるかを、三成の目はまるで公文書の数字を点検するかのように、静かに、そして正確に読み取っていた。


三成のその瞳と視線が交差した瞬間、恵瓊の全身に、理由のない激しい恐怖と違和感が走り抜けた。


(この若者は……何だ……?)

恵瓊の背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。


秀吉の持つ「金と人間の欲の熱気」の裏側に、この若者の放つ「氷のごとき冷徹な理」が、すでに不気味な影となって潜んでいる。

人間の血の通った感情や、武士の命がけの誇りといったものを、一切の例外なく「効率と法」の計算の中に組み込み、処理しようとする新しい時代の怪物――。


(この男は……ただの小姓ではない。秀吉の天下が訪れた時、この男は秀吉の右腕となり、恐ろしいまでの冷徹さをもって世を動かす何者かになる……)


恵瓊の胸の中に、前世の記憶とは別の、直感的な予感が鋭く突き刺さっていた。

言葉を交わすことはなかった。されど、恵瓊と若き石田三成の間で、目に見えぬ思想の火花が、いまこの備中の陣屋で静かに散っていたのである。


「安国寺殿、明後日の検使の取り決め、官兵衛と詰めておいてくれや」

秀吉の声で我に返り、恵瓊は深く平伏した。

「……ははっ。承知仕りました」


幕舎を出ると、雨は小降りになり、足守川の湿地帯に生温かい風が吹き抜けていた。

小舟へ向かう泥道を歩みながら、恵瓊は両手を固く握りしめた。


明日、高松城の湖上で、清水宗治が腹を切る。

一人の高潔な武士の命が、時代の巨大なすり鉢の中で潰されていく。


そして、その死の向こう側には、秀吉の膨大な野望と、いま目にした石田三成という若者の冷徹な理が待っているのだ。

歴史の激流は、宗治の死を飲み込み、さらに巨大な未知の領域へと突き進もうとしていた。


恵瓊は雨の煙る高松城を見つめ、静かに、深く息を吸い込んだ。

宗治の最期をしかと見届けること。そして、この冷酷な時代の理の中に、毛利の家と人々の命を繋ぎ止めるための言葉を探し続けること。

暗闇の湖の上に、最期の決戦の朝が静かに近づいていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。