第63話:安国寺の小僧
第63話:安国寺の小僧
天正十年、五月下旬。降り注ぐ梅雨の長雨は、足守川の泥海を打って絶え間なく波紋を描き、湿り切った空気が備中の野山を重々しく包み込んでいた。
羽柴秀吉の冷徹な陣屋を辞し、小舟で対岸の毛利陣営へと戻った安国寺恵瓊の心は、鉛を呑み込んだかのように重く沈んでいた。
毛利本陣が置かれた岩薬師山の高台へ向かう道すがら、恵瓊は足守川の北岸に位置する、小さな観音堂の境内を通りかかった。
その堂宇は、連日の豪雨による水害と、織田・毛利両軍の雑兵たちの乱取りによって半ば破却され、本堂の屋根からは生々しい煤の匂いが漂っていた。
村人たちが山手へ避難し、人っ子ひとりいなくなった静寂の境内から、かすかなすすり泣きの声が聞こえてきたのである。
恵瓊が足を止め、崩れかけたお堂の縁の下を覗き込むと、そこに身を小さく丸めて震えている一人の幼い小僧の姿があった。
頭を丸めたばかりの幼子は、数えで六歳か七歳になったばかりに見えた。
着古した大きすぎる小僧衣は泥と雨水で黒く汚れ、小さく痩せた身体を激しく震わせながら、膝の間に顔を埋めて声を殺して泣いていたのである。
聞けば、親を失ってこのお堂に引き取られていたが、先の騒乱で師僧がどこかへ逃げ去り、取り残されてしまったのだという。
その幼子の泥だらけの小さな手を目にした瞬間、恵瓊の胸の奥で、激しい痛みが走った。
あの足守川の濁流の中で、己の指先から滑り落ちていった漁師の子供・太郎の冷たい感触が、鮮やかに蘇ってきたのである。
秀吉との和睦工作に奔走し、数万の将兵の命運や毛利の家の興廃という巨大な算盤を弾きながらも、恵瓊の魂の一番深い場所には、救えなかった一人の幼子の面影が刺さったままであった。
「……怖かったな。もう安心せよ」
恵瓊は膝をつき、泥で汚れるのも構わずに、幼子をそっと腕の中に抱き寄せた。
小僧は驚いて目を丸くしたが、恵瓊の法衣のぬくもりと穏やかな眼差しを感じ取ると、恵瓊の胸に顔を押し付け、声を上げて泣きじゃくった。
恵瓊はその小さな背中を優しく撫でながら、力強く自らに誓った。
歴史の大局を動かすことはできず、清水宗治の悲劇的な運命を止めることができなくとも、いま自分の目の前で消えかかっているこの命だけは、絶対に死なせはしないと。
恵瓊は、付き従っていた若い修行僧の智念と、信頼できる毛利の護衛武者を呼び寄せた。
「智念、この子を引き取れ。これよりこの子を、安芸の本国にある我が安国寺へ向けて送り届けるのだ」
智念は驚いたように目を見開いた。
「住職様、本国の安国寺へでございますか? されど、いまは全軍総力戦の最中……」
「だからこそだ」
恵瓊は自らの手で小僧の汚れを手ぬぐいで拭い、温かい握り飯をその手に持たせた。
「この備中の地は、これから天下の分け目の死地となる。この子をこんな場所に残しておけば、飢えか病で命を落とす。安芸の安国寺であれば、豊かな米もあり、穏やかな温もりもある。寺の僧たちに言付けよ。『この子を安国寺の小僧として手厚く育て、仏門の教えを授けよ』とな」
幼子は恵瓊の法衣の袖を小さな手でギュッと握りしめ、不安そうに見上げた。
「お坊様、おいらはどこへ行くの……?」
「お主が安心して生きていける、温かいお寺じゃ」
恵瓊は幼子の頭を優しく撫で、穏やかに微笑んだ。
「お主は今日から安国寺の小僧じゃ。立派に育ち、いつの日か、人が生きていくための光となる僧になりなされ」
恵瓊は自らの懐から僅かな銭と手形を取り出し、護衛の武者に手渡すと、裏の安全な街道を使って安芸へ向かうよう手はずを整えた。
智念に抱きかかえられた小僧は、何度も振り返りながら、恵瓊へ向けて小さな手を振り続けた。
その姿が雨霞の向こうへと消えていくのを見送りながら、恵瓊は静かに合掌した。
知識の無力さに打ち砕かれた己であったが、泥の中から一つの命をすくい上げ、安国寺という温かな未来へ繋ぐことができたという事実は、恵瓊の荒み切った心に、ささやかで確かな救いをもたらしていた。
小僧を送り届けた後、恵瓊は顔つきを外交僧のそれへと戻し、毛利本陣の大幕舎へと足を運んだ。
幕舎の中には、当主・毛利輝元をはじめ、吉川元春、小早川隆景、さらには福原貞俊、口羽通良といった毛利一族の主要な重臣たちが、一堂に介して息を潜めていた。
室内には、湿り切った具足の匂いと、張り詰めた殺気が渦巻いていた。
恵瓊が広間の中央へ進み出て平伏すると、輝元が静かに声をかけた。
「恵瓊……羽柴秀吉との面会、かたじけなかった。して、羽柴の腹の内はいかようであったか。和睦の条件を聞かせてくれ」
恵瓊はゆっくりと伏していた身体を起こし、居並ぶ重臣たちの顔を見渡した。
そして、意を決して、秀吉と黒田官兵衛から突きつけられた冷酷極まりない条件を、偽りなく告げた。
「羽柴秀吉殿の提示いたしました和睦の条項、二つにございます」
恵瓊の声は、静かに、しかしよく通った。
「ひとつは、毛利の領国のうち、備中、美作、伯耆、出雲、因幡の五カ国を、織田家へ割譲すること」
広間にどよめきが走った。五カ国といえば、毛利が一代で築き上げた版図の半分に相当する。
されど、恵瓊は休むことなく、さらなる致命的な第二の条件を口にした。
「そして……ふたつ目。備中高松城主・清水宗治殿の切腹にございます。城兵五千の命は助けるが、宗治殿が小舟の上で腹を切り、その首を差し出すこと――。これが、羽柴秀吉の要求する全条件にございます」
恵瓊の報告が終わりを切った瞬間、幕舎の中の空気が一破裂した。
「ふざけるなッ!」
吉川元春が、地を揺るがすような大音声とともに躍り上がった。
元春の顔は怒りで真っ赤に沸き立ち、太刀の柄を叩く手は激しく震えていた。
「五カ国を分捕られた上、忠臣の宗治の首まで差し出せだと! 羽柴の小童め、我ら毛利をどこまで愚弄すれば気が済むのだ! 宗治は毛利のために、あの水底の城で命を賭して戦っておるのだぞ! その忠臣を見殺しにして生き残るくらいなら、毛利の武名などドブに捨てたも同然! 輝元様! いま直ちに全軍に出撃を命じくだされ! 四万の兵をもって高台から駆け下り、羽柴の陣を揉み潰して宗治を救い出すのです!」
元春の激昂に呼応し、強硬派の若い武将たちが一斉に刀の柄に手をかけ、殺気を放った。
清水宗治を見捨てることは、毛利の武門の誇りを根底から否定することであり、武士として到底受け入れがたい屈辱であったからである。
しかし――小早川隆景が、氷のごとく冷ややかな、されど悲痛な声で元春を制した。
「兄上……お静まりくだされ。お気持ちは身を切られるほど分かりまする。されど、感情に任せて兵を動かせば、毛利は滅びまする」
「隆景! お前は毛利の誇りを捨てる気か!」
「誇りで国は守れませぬ!」
隆景は激しく声を張り上げ、元春の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、血の涙が滲んでいた。
「いま我が四万の全軍がぬかるみへ突入すれば、築堤の上に並ぶ織田の三千挺の鉄砲と大筒の前に全滅いたしまする! さらに、安土からは織田信長本隊の大軍が、刻一刻とこの備中へ向けて進軍してきておるのです! ここで全軍が摩耗すれば、安芸の本国まで火の海となり、元就公が遺された毛利の家そのものが歴史から消え去るのですぞ! 宗治殿一人に泣いていただくことで、毛利の家と数万の将兵の命が繋がるのであれば……いまは苦汁を呑んでこれを受け入れるより他に、道はございませぬ!」
「黙れッ! 宗治を見殺しにして生き残った家など、わしは要らん!」
元春と隆景の激しい怒号が幕舎の中に響き渡り、二人の間にはいまにも刀を抜きかねない凄惨な空気が漂った。
武士の誇りを叫ぶ元春と、家の存続という冷酷な現実を説く隆景。
二人の巨頭の対立は、毛利家中を完全に二つに引き裂こうとしていた。
その猛烈な大激論の只中にあって、当主・毛利輝元は、深く目を伏せたまま微動だにしなかった。
輝元の肩は震え、膝の上の拳は血が滲むほど固く握りしめられていた。
若き当主の胸中を苛んでいたのは、想像を絶する苦悩であった。
宗治を見殺しにすれば、家中からの信頼を失い、一生「忠臣を切り捨てた臆病者」の汚名を背負うことになる。
かといって開戦を選べば、祖父・元就が命を賭けて築き上げた毛利家を、自らの代で滅ぼすことになるのだ。
長い、あまりにも長い沈黙が流れた。
幕舎の中の誰もが息を潜め、輝元の唇から発せられる一言を待っていた。
やがて――輝元はゆっくりと目を開いた。
その瞳から迷いの色は完全に消え去り、泥をすすってでも家を後世へ繋ぐという、ある種の凄みすら漂う覚悟が宿っていた。
「……和睦を、受け入れる」
輝元の声は決して大きくはなかったが、有無を言わせぬ重みをもって幕舎の中に響き渡った。
「宗治を見捨てるのは、我が身を引き裂かれるよりも辛い。されど……毛利の家を滅ぼすことは、祖父・元就公の遺志に最も背くこととなる。宗治の首ひとつで、毛利の家と数万の家臣の命が救われるのであれば……余は喜んでその汚名を着よう。……異論は、許さぬ」
輝元が初めて見せた、当主としての退かない決断であった。
その決断の重さに、元春はガクリと肩を落とし、畳に拳を叩きつけて男泣きに泣いた。
隆景もまた、深く深く頭を垂れ、溢れる涙を隠そうとはしなかった。
輝元の沈黙と苦悩は、無能さから来るものではなかったのだ。
家中の不満と怒りが極限に達し、どうにもならぬ現実の前に折れるそのギリギリの瞬間まで耐え抜いたからこそ、この恭順という残酷な決定を全軍に呑ませることができたのである。
輝元は、静かに恵瓊へと視線を向けた。
「恵瓊……」
「ははっ」
「我が口からは……宗治に『腹を切れ』とは到底言えぬ。……其方、高松城へ入り、宗治にこの決定と、毛利の覚悟を伝えてきてくれぬか」
それは、あまりにも残酷で、あまりにも重い命であった。
自分を信じてくれた高潔な武将のもとへ赴き、自らの口で死を宣告してこいというのである。
されど、恵瓊に断る選択肢はなかった。
恵瓊は畳に額をこすりつけ、低く、力強い声で答えた。
「……謹んで、お言いつけをお受けいたしまする。清水殿の御覚悟と最期……この恵瓊が、しかと見届けてまいります」
幕舎を出ると、雨は一段と激しさを増し、泥海となった高松城の周囲を打ち叩いていた。
恵瓊は濡れた法衣を整え、再び小舟が待つ岸辺へと足を進めた。
あの中に、清水宗治がいる。
己の命と引き換えに、毛利の未来を買い取ることとなった一人の武将が待っているのだ。
安芸へ向かった幼い小僧の無事な無事を祈りながら、外交僧・安国寺恵瓊は、清水宗治の死を見届けるための最後の小舟へと、静かに足をかけるのであった。




