第61話:泥海の対峙
第61話:泥海の対峙
天正十年、五月中旬。降り続いていた梅雨の豪雨が一時的な止み間をみせ、鉛色の雲の切れ間から、ねっとりとした生温かい薄光が足守川の泥海を照らし出していた。
水面はあふれ返った泥水によって茶褐色に濁り、へし折られた家屋の柱や流木、そして死んだ牛馬の骸が、不気味な泡を立てて漂っていた。
その果てしない泥海の上を、一艘の小舟がゆっくりと波を蹴立てて進んでいた。
乗っているのは、毛利本陣からの和睦の命を帯びた安国寺恵瓊と、たった一人の舟頭のみであった。
恵瓊は法衣の袖の中に両手を深く隠し、膝の上で固く拳を握りしめていた。
その指先には、さきほど足守川の濁流の中で、幼い太郎の小さな手をつかみ損ねて滑り落ちていった、冷たく湿った泥の感触が、いまも生々しく残っていた。
爪の間にこびりついた泥を指で削り落としながら、恵瓊は強烈な吐き気と自責の念を押し殺していた。
知識があろうと、目の前の一人の命すら掴み続けることができなかった己の手で、いまから天下の化物と対峙し、毛利の家と清水宗治の命をかけた交渉に臨まねばならないのである。
小舟が高松城の本丸近くを通過した折、恵瓊は水面に孤立する城郭を見上げた。
石垣は軒下まで泥水に浸かり、城兵たちが湿り切った櫓の窓から虚ろな目でこちらを見つめていた。
あの中に、あの高潔で誠実な清水宗治がいる。
恵瓊の胸の奥で、血を吐くような情念が再び燃え上がった。
「あの男だけは……あの男の命だけは、何としてもこの手で引き揚げねばならぬ」
やがて小舟は対岸の築堤近くに接岸し、恵瓊は羽柴秀吉の張る本陣へと足を踏み入れた。
秀吉の陣営に一歩入った瞬間、恵瓊は毛利軍の陣立とはまったく異なる、異様な熱気と殺気に気圧された。
泥まみれになりながらも、雑兵たちの顔には異様な活気が満ち溢れ、あちこちで金銭の計算をする商人たちのダミ声が飛び交い、物資や弾薬が絶え間なく運び込まれていた。
秀吉がばら撒く莫大な銭と「生き残れる」という熱狂が、数万の人間を一つの巨大な生き物のように躍動させていたのである。
恵瓊は二重三重の番兵を通り抜け、陣営の中央に張られた豪華な大天幕(幕舎)へと通された。
幕舎の奥、豪奢な金屏風の前に、一人の男が胡坐をかいて座っていた。
小柄で痩せこけた体躯。猿を思わせるしわくちゃの顔立ちに、派手な猩々緋の陣羽織を羽織っていた。
羽柴秀吉――木下藤吉郎と呼ばれていた頃から恵瓊が恐れ続け、いまや織田家の西国征伐軍を率いて天下への階段を駆け上がろうとしている男であった。
「おおッ! よう来なさった、安国寺殿!」
秀吉は恵瓊の姿を見るや、立ち上がって両手を広げ、まるで旧知の親友に再会したかのように、大声をあげて底抜けに明るく笑い飛ばした。
「まあ座りなされ! 泥水の中を小舟で渡って来られて、さぞやお疲れでござろう! 固い挨拶なんぞは抜きにしようや。毛利の使者が高名な安国寺の御坊様だと聞いて、わしも会うのが楽しみで仕方がなかったのだからな!」
秀吉は自ら瓢箪から酒を酌み、恵瓊の前へ杯を差し出した。
その表情、その声、その仕草――どこをとっても、農民あがりの親しみやすさと愛嬌に溢れており、一見すればただの気さくな田舎武者に見えた。
されど――恵瓊の全身の毛穴が、一瞬にして凍りつくような激しい悪寒に襲われた。
秀吉の口元は破顔一笑の笑みを浮かべていたが、その双眸の奥には、人間的な感情の揺らぎが一切存在していなかったからである。
暗闇の中で冷たく光る猛禽の目のごとき瞳は、恵瓊の足元から頭のてっぺんまでを、瞬時に値踏みしていた。
秀吉にとって、目の前に座る恵瓊も、毛利四万の大軍も、そして高松城の数千の生身の人間すらも、誇りや思いを持つ人間としては映っていない。
ただ、自らの描く天下取りという盤上の上で、どのように動かし、どのように利用し、どのように買い叩くことができるか――それだけを冷徹に計算し尽くしている目であった。
底抜けの明るさと、その裏にある完全なる人間性の欠如。
これこそが、人の心を金と構造で買い取り、天下を搦め捕ろうとする化物・羽柴秀吉の真の姿であった。
恵瓊は恐怖を抑え込み、静かに畳に手をついて深々と頭を下げた。
「安国寺恵瓊にございます。毛利家当主・毛利輝元公、ならびに小早川隆景様、吉川元春様の名代として、双方が無用の血を流すのを避けるべく、和睦の儀について伺いに参りました」
「うむ、話が早くて助かるわ」
秀吉は床几にどっかりと座り直し、扇子でポンポンと己の膝を叩いた。
「毛利殿も、あの泥の湖を見りゃあ無駄な戦をする気も失せるじゃろ。わしかて無駄な血は流しとうない。織田上様が安土から大軍を率いてこの備中へ来られれば、毛利の本国まで火の海になる。そうなる前に、手を打とうというわしなりの情けじゃ」
秀吉の言葉の表面は温情に満ちているように聞こえたが、その実は「降伏せねば全滅だ」という冷酷な脅迫であった。
「その御情け、痛み入ります。して……和睦の条件はいかように」
恵瓊が声を平らに保って問うと、秀吉は手にしていた扇子をピタリと止めた。
次の瞬間、秀吉の顔からそれまでの親しげな笑みがスッと消え去り、幕舎の中の空気が氷のように冷たく張り詰めた。
「条件はふたつじゃ」
秀吉の声が、地を這うような低く冷ややかな響きを帯びた。
「ひとつ。毛利の領国のうち、備中、美作、伯耆、出雲、因幡の五カ国を、織田家に割譲すること」
恵瓊は息を呑んだ。西国十カ国のうち半分を差し出せという、あまりにも過酷な要求であった。されど、秀吉は休むことなく、さらなる致命的な第二の条件を突きつけてきた。
「そしてふたつ目。高松城主・清水宗治の首じゃ。城兵の命は助けてやる。じゃが、宗治には小舟の上で腹を切ってもらう。……これが、わしの提示する和睦の全条項じゃ」
幕舎の中に、死のような静寂が落ちた。
清水宗治の切腹――それは、毛利家にとって最も受け入れがたい屈辱であった。
毛利のために忠義を尽くし、孤立無援の城で泥水に浸かりながら抗い続けている忠臣を見せしめとして死に追いやるなど、毛利の武門の誇りを根底から踏みにじるものであった。
恵瓊の脳裏に、あの爽やかな笑顔で「生きてまた酒を汲み交わしましょう」と手を握り返してくれた宗治の温もりが鮮やかに蘇った。
あの大切な命を、目の前の化物の生贄として差し出すことなど、絶対に許されてなるものか。
恵瓊は平伏していた体を起こし、膝を乗り出すと、秀吉の冷たい目を真っ直ぐに見据え返した。
「羽柴殿! 五カ国の割譲はともかく……清水宗治殿の切腹だけは、絶対に承服しかねまする!」
恵瓊の声には、外交僧としての枠を超えた激しい情念がこもっていた。
「毛利家は、自らに忠義を尽くした将を見殺しにして己の保身を図るような、情けなき家風にはございませぬ! 清水殿は毛利の誇りそのものにございます! もし清水殿の命まで奪うというのであれば、毛利四万の全軍は和睦を蹴り捨て、この備中の地において、織田軍と玉砕覚悟で決戦を挑む所存!」
恵瓊の命がけの叫びは、幕舎の空気を激しく揺さぶった。
されど――羽柴秀吉は、恵瓊の怒りと情念を前にしても、眉ひとつ動かさなかった。
秀吉はハハハと乾いた笑いを漏らすと、床几から身を乗り出し、恵瓊の目の前まで顔を近づけてきた。
その吐息が、恵瓊の頬にかかるほどの至近距離であった。
「安国寺殿……あんたは賢い僧だと思っていたが、案外と頭の悪い算盤を弾くのだな」
秀吉の目は、冷ややかに笑っていた。
「玉砕覚悟で戦う、だと? わしを脅しているつもりか知らんが、そんな子供騙しが通じると思うてか。ええか、安国寺殿。毛利がここで意地を張って戦えば、どうなる。清水宗治一人の首どころか、高松城の城兵五千が全滅し、吉川も小早川も、当主の輝元殿の首まで跳ねられることになるのだぞ」
秀吉は太い指を立て、恵瓊の胸元を力強く突き突いた。
「わしはな、あんたの主君と毛利の家を守ってやろうと言っておるのだ。清水宗治という田舎武士一人の首で、毛利という巨大な家と、数万の将兵の命が丸ごと買い戻せるのだぞ。これほど安い、得な買い物がこの世のどこにある!」
「人の命は……商人のお買い得品ではございませぬ!」
恵瓊が絞り出すような声で抗弁したが、秀吉はそれを鼻で笑い飛ばした。
「命は算盤の珠だよ、安国寺殿! ひとつを捨てて百を助けるのが、政というものだ! 宗治一人に泣いてもらえば、毛利の家は残る。宗治の首を惜しめば、毛利は滅びる。どっちが得か、三歳の子供でも分かる理屈ではないか!」
秀吉の言葉は、冷酷極まりない現実主義の算盤であった。
「家を残す」という大局の目的のためには、個人の命や誇りなど、盤上の駒として処理する――それが、乱世を支配する秀吉の圧倒的な合理性であった。
恵瓊は言葉を失い、畳に両手を突いたまま固まった。
反論ができなかった。
秀吉の言っていることは、毛利の家を守るという政治的現実としては、ぐうの音も出ぬほど正しかったからである。
もしここで毛利が感情に任せて開戦すれば、織田の本軍に叩き潰され、毛利家そのものが歴史から姿を消す。
宗治一人の命と、毛利という巨大な家の存続。
その冷徹な二者択一の前に、恵瓊の「宗治を助けたい」という人間的な情念は、跡形もなく打ち砕かれてしまったのである。
「……返答は、安芸の本国へ持ち帰らせていただきまする」
恵瓊は低く平伏し、絞り出すような声で答えるのが精一杯であった。
「うむ、そうしてくれ」
秀吉は満足そうに頷き、再び破顔一笑の笑みに戻った。
「輝元殿や両川によく伝えてくれや。『宗治の首ひとつで、毛利の家を買ってやる』とな」
幕舎を出た恵瓊は、足元が千鳥足になるのを感じながら、雨の降りしきる岸辺へと向かった。
小舟に乗り込み、再び濁流の湖へと漕ぎ出したが、恵瓊の心は底知れぬ暗闇の中に叩き落とされていた。
宗治を死なせたくない。
されど、宗治を救えば、毛利が滅びる。
歴史の年表が示した「清水宗治の切腹」という結末は、秀吉の恐ろしい算盤と毛利の存続という構造によって、逃れようのない絶対の必然として恵瓊の目の前に立ちふさがっていたのである。
降り続く雨の中、泥海の上に孤立する高松城の影が、ぼんやりと霞んでいた。
あの中にいる宗治に、自分はいったい何を告げればよいのか。
指先に残る泥の冷たさを噛み締めながら、安国寺恵瓊は、小舟の上でただ激しく肩を震わせるしかなかったのだった。




