第60話:濁流の惨劇
第60話:濁流の惨劇
天正十年、五月中旬。備中高松城の周囲を呑み込む梅雨の長雨は、宵の口を過ぎると、いっそう猛烈な勢いを増して天から降り注いできた。
足守川の上流から流れてくる泥水は、羽柴秀吉の手によって築かれた三里に及ぶ巨大な堤防に阻まれ、行き場を失ってあふれ返っていた。
水面は刻一刻と水位を切り上げ、高松城の本丸を浸すのみならず、堤防の下流に位置する低湿地帯の村々へも、不気味な水音を立ててじわじわと迫りつつあった。
対岸の羽柴陣営へ和睦の使者として赴く前夜、恵瓊は毛利本陣の幕舎を抜け出し、濡れた法衣の裾を泥で汚しながら、築堤の下流に広がる小さな漁村へと足を運んでいた。
城の周辺の農民たちの多くは、迫り来る水没の恐怖に恐れをなし、すでに北側の山手へと逃げ散っていた。
されど、足守川の河口近く、葦の生い茂る水際に身を寄せるようにして建つ一軒の荒末な茅葺き小屋には、なお逃げ出そうとしない一か家族の姿があったのである。
小屋の土間では、日に焼けた太い腕を持つ川漁師の男・甚兵衛が、身を丸めて古い投網の繕いを行っていた。
長年、足守川の風雪に晒された首筋には深い皺が刻まれ、その手つきには、この川の恵みのみを頼りにして生き抜いてきた者特有の頑固な誇りが宿っていた。
傍らでは、擦り切れた着物を纏った妻が、薄暗い竈の前で煙に目を細めながら薪をくべており、その足元では、数えで三歳になる幼い息子の太郎が、泥だらけの手で丸い川石を重ね合わせて無邪気に遊んでいた。
恵瓊が土間に足を踏み入れると、甚兵衛は太い眉をひそめ、不機嫌そうに手を止めた。
「また来なさったか、安国寺の御坊様。何度も言わしなさんな。わしらはこの場所を動かねえよ」
「甚兵衛殿、意地を張っている場合ではないのだ!」
恵瓊は雨に濡れた網代笠を脱ぎ、甚兵衛の目の前へ膝をついた。その目には、切迫した真情が燃え上がっていた。
「上流の堤防を見なかったのか! 羽柴秀吉という男は、人間の力で足守川の流れそのものを堰き止めたのだ! これ以上長雨が続けば、溜まり切った水圧に耐えきれず、堤防が決壊するか、さもなくば意図的に堰が切られる! そうなれば、この下流の村々は一瞬にして吞み込まれ、逃げる暇すら与えられぬのだ!」
甚兵衛は鼻で笑い、太い腕を組んだ。
「お武家様の戦の話なんぞ、わしらには関係ねえ。わしらは代々、この足守川で魚を獲って食ってきたんだ。大雨で川が溢れることなら何度もあったが、人間様が川を止めて村を沈めるなんて嘘っぱちだ。ここを離れりゃあ、わしらは明日喰う米にも困るんだよ」
「家や網は後からでも立て直せる! されど、一度失われた命は二度と戻らぬのだ!」
恵瓊は声を張り上げ、土間に坐す太郎の泥だらけの小さな手を、そっと包み込んだ。
幼子は無邪気に笑い、恵瓊の大きな指をギュッと握り返してきた。その小さな掌の柔らかな温もりが、恵瓊の胸を激しく揺さぶった。
「甚兵衛殿、頼む……私の言葉を信じてくれ。せめてこの幼子と妻御だけでも、今すぐ高台の安楽寺へ避難させてはもらえぬか。命さえあれば、いくらでもやり直せるのだ!」
恵瓊の瞳から溢れ出る、嘘偽りのない激しい涙と真摯な叫びに、甚兵衛の頑なな顔がわずかにほころんだ。
甚兵衛は太い息を吐き出すと、かたわらで怯える妻と太郎を見つめた。
「……分かったよ、御坊様。そこまで言われちゃあ、無下にも出来ねえ。明日の朝、網の繕いが終わったら、荷物をまとめて高台へ上がるよ。それでいいだろ」
明日――恵瓊の胸に嫌な胸騒ぎが走ったが、甚兵衛が避難を約束してくれたことで、ひとまず胸を撫でおろした。
「必ずだぞ。必ず朝一番で高台へ向かわれよ」
恵瓊は念を押し、雨の降る闇の中へと引き返していった。
しかし――運命は、恵瓊のささやかな期待を容赦なく打ち砕いた。
その夜の丑の刻(午前二時頃)、天を突くような雷鳴とともに、足守川の上流から「ドオオオン!」という大地を揺るがす凄まじい地鳴りの音が響き渡ったのである。
雨によって限界まで跳ね上がった水圧に耐えきれず、秀吉の築いた三里の堤防の一部が、大規模な大崩壊を起こしたのだった。
堰き止められていた膨大な質量の濁流が、牙を剥いた巨大な悪魔のごとく一気に解放され、黒々とした津波となって下流の低湿地帯へと怒濤の勢いで雪崩れ込んだのである。
本陣でその音を聞いた恵瓊は、血相を変えて幕舎を飛び出した。
「甚兵衛殿! 太郎!」
恵瓊は笠も被らず、雨の打ちつけるぬかるむ泥道を、転がるようにして下流の漁村へと駆け出した。
村へたどり着いた時、恵瓊の目に飛び込んできたのは、言葉を絶する地獄の光景であった。
足守川の水位は一瞬にして腰の高さを超え、溢れ出た濁茶色の濁流が、凄まじい渦を巻きながら村の家々を次々と土台から引き剥がし、押し流していた。
暗闇のなか、あちこちから人々の絶叫と悲鳴が響き、家畜の死骸や家具が激流に乗って乱舞していた。
「甚兵衛殿! どこだ!」
恵瓊は腰まで冷たい泥水に浸かりながら、声を限りに叫んだ。
薄暗い雨霞の向こうに、流されかけている茅葺き屋根の残骸が見えた。
その沈みゆく屋根にしがみついていたのは、甚兵衛と妻、そして妻の胸にきつく抱きかかえられた幼い太郎の姿であった。
「御坊様! 助けてくれ! 太郎が!」
甚兵衛の太い腕が屋根の梁を必死に掴み、濁流の猛威に耐えていた。
恵瓊は周囲を見回し、打ち上げられていた太く長い竹竿を拾い上げると、濁流の抵抗を押し切って屋根の近くへ這い進んだ。
「これにつかまれ! 早く!」
恵瓊が竹竿を差し出すと、甚兵衛は妻を促した。妻は泣き叫ぶ太郎を片腕で抱きかかえ、もう一方の手で必死に竹竿の端を掴んだ。
恵瓊は泥の中に足を踏ん張り、腕の筋肉がちぎれんばかりの力で竹竿を引き寄せた。
濁流の圧力は凄まじく、恵瓊の身体ごと川底へ引きずり込もうとしたが、恵瓊は歯を食いしばり、必死の思いで妻を岸辺の浅瀬へと引き揚げた。
続いて甚兵衛も屋根から飛び移り、這いずるようにして浅瀬へと上がってきた。
「助かった……! 良かった……!」
恵瓊が安堵の吐息を漏らした、まさにその瞬間であった。
上流から流されてきた巨大な巨木の根が、凄まじい速さで岸辺の泥の土手に激突したのである。
ドシーン!という衝撃とともに、恵瓊たちが立っていた足元の地盤がごっそりと崩れ落ちた。
「きゃあああっ!」
妻の短い悲鳴が響いた。
崩れた泥とともに妻がバランスを崩し、その手から抱きかかえられていた幼い太郎の小さな身体が、ふわりと宙に浮いたのである。
「太郎ッ!」
甚兵衛が叫び、手を伸ばした。
恵瓊もまた、一切の迷うことなく泥水の中へ飛び込み、濁流へと呑み込まれようとする小さな身体に向かって、右腕をいっぱいに伸ばした。
激しく渦巻く濁茶色の中、泥にまみれた太郎の小さな手が、一瞬だけ水面に浮き上がった。
恵瓊の指先が、その小さく冷たい手に、確かに触れた。
爪が皮膚を捉え、太郎の着物の袖をガッチリと掴んだ。
「掴んだ! 離すものか!」
恵瓊は叫び、全身の力を指先に込めて引き揚げようとした。
されど――自然の猛威は、あまりにも冷酷で、あまりにも圧倒的であった。
「ゴーッ!」という凄まじい水圧の渦が太郎の身体を包み込み、恵瓊の指先から、布地の感触と太郎の小さな手の感触を、力ずくで引き剥がしていった。
ヌルリと、指の間から冷たい感触が滑り抜けていく。
「嫌だ! 離れるなッ!」
恵瓊の必死の叫びも空しく、太郎の小さな身体は濁流の底へと引きずり込まれ、二度と水面へ浮かび上がってくることはなかった。
「太郎おぉぉぉぉッ!」
甚兵衛が狂ったように濁流へ飛び込もうとするのを、恵瓊は泥まみれになりながら背後から必死に抱きかかえ、組み伏せた。
「離せ! 太郎を探すんだ! 太郎ぉぉッ!」
甚兵衛は恵瓊の法衣を掴んで哭き叫び、妻は崩れた土手に突伏して、爪が剥がれて血が滲むのも構わず、狂ったように泥を掻き毟り続けた。
雨はなおも容赦なく降り注ぎ、濁流はすべてを呑み込んで下流へと流れ去っていった。
恵瓊は甚兵衛を抱きかかえたまま、冷たい泥水の中に深く膝をつき、天を仰いだ。
手のひらを見つめる。
そこには、泥と自分の血が混ざり合った汚れがあるだけであった。
つい先刻まで、確かにこの指先の中にあった、あの幼い太郎の小さな手の温もりは、どこにも残っていなかった。
「知っていた……。決壊することも、水攻めの恐ろしさも、すべて知っていたのではないか……」
恵瓊の胸の底から、血を吐くような強烈な自責と絶望が湧き上がってきた。
前世の知識を持ち、未来を知っていると過信していた己。
されど、現実はどうであったか。
目の前で生きているたった一人の幼子の手すら、つなぎ止め続けることができなかったのだ。
自分の知識など、この圧倒的な自然の猛威と人間の歴史の暴力の前には、一粒の泥砂ほどの価値もない、ただの空しい幻影に過ぎなかった。
「……度一切苦厄……」
恵瓊の震える唇から、般若心経の一節が漏れ出た。
苦厄は度かられぬ。
知っているだけでは、人は救えないのだ。
恵瓊は泥に顔を押し付け、声を上げて哭いた。
雨水と涙と泥が混ざり合い、恵瓊の法衣を黒く染めていく。
夫婦の命だけは、かろうじてすくい上げることができた(半成功の救済)。
されど、その命の代償として指先から滑り落ちていった太郎の冷たい感触は、恵瓊の魂に永遠に消えぬ深い傷痕として刻み込まれたのだった。
雨は止むことなく降り続き、高松城の周囲を広大な湖へと変えていった。
泥まみれで膝をつき、必死に念仏を唱え続ける恵瓊の姿は、冷たい雨の中にどこまでも悲しく、力強く佇んでいたのだった。




