第56話:備中前線へ
第56話:備中前線へ
天正九年の冬が去り、天正十年という新たな年を迎えても、西国の空を覆う重々しい暗雲が晴れることはなかった。
鳥取城の凄惨きわまる落城によって山陰の防衛線が完全に破却され、さらに備前の宇喜多直家が織田方へと寝返ったことで、羽柴秀吉率いる織田軍の次なる標的は、明確に「備中国」へと絞られていた。
備中国は、安芸の毛利本国と東の織田勢力を隔てる、最後の巨大な防波堤であった。
この地が突破されれば、織田の大軍は一気に備後、さらには毛利の本拠たる安芸・吉田郡山城へと雪崩れ込むことになる。
事態の切迫を悟った安芸の小早川隆景と毛利輝元は、播磨に滞在していた恵瓊に対し、直ちに備中前線へと入り、境界の諸城の防備と国衆たちの繋ぎ止め、ならびに兵糧の集積状況を検分するよう命じたのである。
恵瓊は長年過ごした播磨の安楽寺をあとにし、ぬかるんだ街道を踏みしめて備中国へと足を踏み入れた。
備中の東部を流れる足守川の周辺は、広大な低湿地帯となっており、葦の生い茂る水田や泥沼があちこちに広がっていた。
その低湿地帯の中央、沼地に浮く小島のようにぽつりと佇んでいたのが、毛利方の最前線拠点・備中高松城であった。
城の周りは、足腰が埋まるほどの深い泥沼(深田)に囲まれており、一見すると攻め口の少ない天険の城に見えた。
恵瓊は泥の跳ね上がる高足駄を履き、吊り橋を渡って高松城の本丸へと入った。
恵瓊を出迎えたのは、高松城主・清水宗治であった。
宗治は今年で数えで四十。引き締まった体躯に、端正で落ち着いた面立ちをしており、その瞳には澄み切った誠実さと、揺るぎない芯の強さが宿っていた。
派手な装飾を排した質素な直垂を纏い、自ら恵瓊の前の文机へ温かい茶を運んできた。その所作には、大名気取りの傲慢さは微塵もなく、一人の武士としての謙虚さと温かみが満ち溢れていた。
「安国寺殿、遠路遙々、備中の最前線までようこそ足をお運びくだされた。播磨や山陰でのご苦労、重々聞き及んでおりまする」
宗治は静かに一礼すると、恵瓊の前に座した。
「清水殿、城の状況はいかがでございますか。羽柴秀吉の動向、日ごとに怪しくなっておりまするが」
恵瓊の問いに、宗治は穏やかな笑みを浮かべ、窓の外に広がる足守川の湿地帯に視線を投げた。
「ご覧の通り、我が高松城は周囲を深い沼地に囲まれた城にございます。織田の大軍が押し寄せようとも、馬も兵も泥に足を取られ、力攻めでこの城を落とすことは叶いませぬ。毛利の本国から吉川様や小早川様の大軍が駆けつけて下さるまで、わしと城兵一丸となってこの地を死守してみせまする」
宗治の声には、自らの立場と城の天険に対する、揺るぎない自信がこもっていた。
しかし、宗治が恵瓊に見せたのは、単なる城郭への自信だけではなかった。
会話の途中、秀吉方から届いていた密書について触れた折、宗治は呆れたように苦笑いを浮かべた。
「実は、羽柴秀吉殿や黒田官兵衛殿から、密かに何度も使者が来ておりましてな。『毛利を裏切って織田に従えば、備中・備後の二国を与え、清水家を大名として取り立てる』と、破格の条件を提示してきておるのです」
恵瓊は息を呑んだ。二国の加増といえば、一城主に過ぎぬ宗治にとっては、天下がひっくり返るほどの巨大な恩賞である。
「……清水殿、そのお誘いを、いかがなさったのです」
宗治は少しも迷うことなく、即座に答えた。
「断り申した。使者にはこう申してやりました。『わしは毛利のお殿様(元就公・輝元公)から代々深いご恩を受けて育った者だ。織田殿の天下がどれほど大きかろうと、恩義を捨てて裏切り、国をもらうような真似をして何が武士か。城と引き換えに国をもらうくらいなら、この高松城を墓場として毛利のために死ぬ方が、どれほど誇らしいか分からぬ』とな」
宗治の言葉には、一切の虚飾も、計算もなかった。
かつて備前岡山城で宇喜多直家が吐き捨てた「義理や情けで飯が喰えるか」という恐ろしいまでの悪の現実主義とは、正反対の地平にある高潔な武士の誇りがそこにあった。
宗治は富や領地が欲しいのではない。ただ、自らの信じる「義理」と「毛利への忠義」を全うし、家臣や領民とともに誇り高く生きたいと願っているのだ。
恵瓊と滞在中、宗治の人間性を物語る光景に何度も出会った。
城内の見回りに向かう際、宗治は泥にまみれて堀の補修をしている雑兵や人足の一人ひとりに声をかけ、自らの手で温かい汁ものを振る舞っていた。
「風邪を引くなよ。お主たちがいてくれるから、この城は守られているのだ」
声をかけられた雑兵たちは、感激の涙を流して宗治に頭を下げていた。
城下の農民たちも、宗治の姿を見ると「殿様、お身体を大切にしてください」と笑顔で声をかけ、誰一人として城から逃げ出そうとする者はなかった。
宗治は、武力や威圧によって人を従わせているのではなかった。
自らの深い慈愛と誠実さをもって、城兵や領民の心を一つに繋ぎ止めていたのである。
宇喜多直家の毒と殺意、黒田官兵衛の冷徹な計算、羽柴秀吉の金銭と構造の暴力――。
この数年間、乱世の最もみにくい人間の業ばかりを見続けてきた恵瓊にとって、清水宗治という男の持つ高潔な清らかさは、暗闇の只中に灯った一すじの救いの光のように思えた。
胸の奥が熱くなり、思わず目頭が湿るのを、恵瓊は抑えることができなかった。
「清水殿……貴方は、真の武士にございますな」
恵瓊が感極まった声で呟くと、宗治は照れくさそうに頭を掻いた。
「滅相もない。わしはただの田舎武士に過ぎませぬ。ただ、毛利の家と、わしを頼ってくれるこの城の者たちを守りたいだけでございます」
されど――その夜、本丸の客間で行灯の火を見つめていた恵瓊の胸に、突如として恐ろしい冷気が吹き込んできた。
前世の記憶――。
一度は火鉢の中で焼き捨て、二度と頼るまいと誓ったはずの知識の残像が、冷酷な影となって恵瓊の脳裏に浮かび上がってきたのである。
『備中高松城の水攻め』
『清水宗治、水上で切腹』
恵瓊の身体が、ガタガタと激しく震え出した。
そうだ……自分は知っている。
この高松城が、やがて羽柴秀吉の常軌を逸した「水攻め」によって人工の湖の底に沈められることを。
そして、この高私で高潔な清水宗治という男が、城兵や領民の命を救うために、小舟の上で腹を切り、その首を秀吉に差し出すことになるという結末を――。
「なぜだ……! なぜ、これほどまでに清らかで、高潔な男が死なねばならぬのだ……!」
恵瓊は頭を抱え、畳に額を擦り付けた。
宇喜多直家のような悪業を重ねた男が生き延び、清水宗治のような心正しき忠臣が、冷酷な歴史の生贄として死に追いやられる。
あまりにも理不尽で、あまりにも残酷な運命の悪戯であった。
いままで恵瓊は、歴史の大きな崩れを止めることはできないと諦めかけていた。
上月城の山中鹿之介も、鳥取城の吉川経家も、知っていながら救うことができなかった。
されど――いま目の前にいる、この清水宗治という男の温かな温もりと笑みを知ってしまった以上、黙ってその死を見過ごすことなど、どうしてできようか。
「死なせたくない……! この男だけは、絶対に死なせたくない……!」
恵瓊の胸の底から、血を吐くような強烈な感情が湧き上がってきた。
政治の算盤や、毛利家の利害を超えた、一人の人間としての激しい情念であった。
もし歴史の年表がこの男の死を求めているのだとしたら、自分はその年表のすべてを叩き潰してでも、宗治の命をすくい取ってみせる。
それが、前世の記憶を持ち、この時代に生きる己に課された、本当の「抗い」なのではないか。
翌朝、恵瓊が高松城を発つ際、清水宗治は山門まで見送りに来てくれた。
朝露に濡れた足守川の湿原を背景に、宗治は爽やかな笑顔を浮かべて恵瓊の手を握った。
「安国寺殿、どうぞ安芸のお殿様方に『清水宗治、備中の果てにて毛利の盾となって見せます』とお伝えくだされ」
「……清水殿。必ずや、必ずや生きてまたお会いいたしましょう。どのような苦難が迫ろうとも、諦めてはなりませぬぞ」
恵瓊が固く手を握り返すと、宗治は不思議そうに目を丸くしたが、やがて力強く頷いた。
「ははっ、畏まりました。生きて、また酒を汲み交わしましょう」
城をあとにした恵瓊は、足守川の堤防の上に立ち、静かに流れる川面を見つめた。
川の水は静かに、そして豊かにたゆたっていた。
やがて、この穏やかな川が、秀吉の手によって高松城を呑み込む悪魔の濁流へと変貌する日がやってくる。
恵瓊は網代笠を強くかぶり直し、力強く地面を踏みしめた。
胸の中に燃え上がる炎は、もはや消えることはなかった。
迫り来る秀吉との直接の決戦、そして清水宗治の命を賭けた最大の戦いに向けて、外交僧・安国寺恵瓊は、静かに、しかし不退転の覚悟をもって一歩を踏み出したのであった。




